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[ピアノのお稽古]

幻想曲(第2楽章) (シューマン)

2010/3/16(火) 午後 3:23
今年はショパン生誕200年だそうで、記念の催しものも多いようだ。
それではシューマンを弾く。←まったく脈絡なし。

春先になるとシューマンのクライスレリアーナの第2曲の冒頭が聞こえてくる。

春宵の夢のような脈絡のない、とぎれとぎれの記憶。
異国の深夜に半覚半睡で聞いたこの曲が、まだこの世になじめぬ胎内性知覚
として私の中に根を下ろしてしまっている。
そのようにしてシューマンに捕捉されてしまったようだ。

それともあまり脈絡はないが、幻想曲のファンファーレを練習する。
実は「シューマンは幻想曲が最高です」と、ある作曲家の方が言われたのだ。
で、と実に単純な脈絡。

この部分はシューマンの得意の瞬間芸のカデンツア。
まったく歯切れの良いファンファーレとマーチ。
幾度弾いても気持ちがいい。
このようなファンファーレ風カデンツァのアイデアはそこかしこに見られる。
交響練習曲の最終曲の冒頭、謝肉祭の前口上、クライスレリアーナの第6曲のコーダ(最終曲への橋渡し部)。

ところが、いつもその後の展開が不器用で急激に単調になってしまう。

運指練習のような同一リズムの繰り返し。コードの低音の乗せ方なんかは独特な語法があるものの、全体として単一なアイデアで押し通し、技巧的な割りには演奏効果がない作為的な展開部。

この間、幾度も左右の手の指の交差をさせられたりする。
ショパンなら殆どこんなムダなことはさせないんだがなぁ。

展開部が退屈なだけ、テーマが回帰する時の劇的効果はめざましい。
もしかして、そのためにわざと退屈な音型を繰り返しているのかも。
だから、いつか救いが来ると信じて単調な音型練習を耐え忍ぶ。
そうこうしているうちに、この運指練習にマゾヒスティックな喜びを
感じてしまうに至る。
ああ、もたもたしているうちにシューマンに捕まってしまう・・・

その末のとんでもない跳躍音型から始まるコーダ。

メロディーを立てるには小指を飛ばして目的地にたたきつけねばならない。
何回やっても絶対的に音を外す。
そして意地になって反復練習を何時間も繰り返す。
小指が痛い。

これはこんなことばかりやっていて腱鞘炎になり、ピアニストをあきらめた
シューマンの、ピアニストへの呪いに他ならない。

常に「何かせねば」「天才的でありつづけねば」という強迫心理に陥っていた
シューマンがちらりと透けて見える。

幻想曲の第一楽章のさりげない出だしや終曲の静かな盛り上がりはさすがの
天才の感性である。
しかし、私には破綻のない悠長な流れに身を置く程の余裕がない。
いやぁ、いささか長すぎて(^^;

どこか苦悩し、破綻しているシューマンに捉えられる。
私はシューマンがどういうワケか好きなのだ。


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