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[静かな生活]

 ”ニシナリ”から、その後

2023/2/28(火)16:35

先日、久しぶりに西成区の津守・鶴見橋まで散歩、思いついて萩之茶屋商店街で昔から菓子屋をやっている同窓K君の実家を訪問した。
もちろんK君は不在だが、その弟さんが今も店をやっていると駅前甘党喫茶の主人(中学同窓)に教えてもらったのだ。

弟さんは私のことを覚えていて、2,3の会話後「hemiさん!」と私の名前を同定してくれた。
なんと60年前の記憶だぜ?>二回目にやっと私のことを思い出した「はまや」のご主人(^^;
K君とは親同士も同郷、中学・高校とも同窓という縁の太さの違いがあるので当然か(^^♪

しかし、甘党喫茶、菓子屋の両ご主人とも大阪の”ど下町”西成の古い商店街の、親から引き継いだ店を同じ場所でもう60年も続けているということは、また別の時の重みを実感せざるを得ない。
日本の経済産業構造をもろに反映したこの間の西成”愛隣地区”の変遷はどのようだったのか?
つい昨年、とうとう今宮無線塔が無くなってしまったこともあり、時代の変転速度をまた意識せざるを得ない時節でもあった。
中学校の校庭にあった古いメタセコイアの木三本もとうとう撤去されたということも「はまや」の主人から教示された。

先ほど”また別の時の重み”、と言ったのはこの地が疎ましく、この”呪われた”地から離れ、全く別の地で自分の人生を全うしたいと念じていた私のような子弟も多かっただろうし、事実大学進学を果たした同窓生達がこの地に残った事例は全く周知していない。
K君の弟さんも病気で高校を中途退学し、結局親の家業を継ぐしかなかったのだ、と漏れ聞いた。

同窓のK君の方は高校時代は理系で、文系の私とは接点がなくなってしまったし、更に中部地方の大学に進学したのは知っていたが、私が素直に進学できず結果的に全ての同窓友人関係が消滅してしまったので、まったくその後の彼の消息も不明なままだった。

今回、弟さんを通じて現在のK君と連絡がつき、更に借用した文書やネットの情報を通じK君のその後の人生の象徴的なイベントを知ることになり、多大な感慨を抱かされることになった。
詳しくはここでは述べないが、技術者として入社した某大企業の不当な就業差別との長年に渡る法的争議を経、ついに全面的に主張を認められ勝訴に至った、という経緯である。

若年当時の私は自分が”大卒切符”の所持者ではなく、ある種の非定型、あるいは不定形的生き方を強いられたという非差別意識、実は翻って密かなナルシスト意識のようなものがあった。
長い時を経、現役生活をやっと退いてから、コンタクトできた別の同窓生(I君)を通じ、進学した者にも当時の大学紛争の当事者となり、やはり否定型/不定形生活を強いられた者もいたのだと認識、学卒者へのステレオタイプな先入観は私の学歴コンプレックスが捏造していたものすぎなかったと反省、やっとオトナになれた経緯がある。

そして今回、私の思っていた”安定した定型的社会人”のコースを順調に歩んでいったと思われたK君にもやはりその社会での苦しい葛藤や闘争があったのだ、と知ることとになった。
私はもう自分の学歴劣等コンプレックスを不甲斐ない自分への言い訳にしたり、逆に”大卒切符保持者”への揶揄・嘲笑・攻撃(^^?の武器にするようなバカげた自虐と自尊はまったくないのだが、K君のイメージ通りの粘り強い、自らの信念を貫徹する姿に比し、自分の信念を貫く強い意思が私にはちょいとばかり足り無かったようだな、という自嘲を謙虚にも浮かべるハメになった。 (^^; ← ま、この程度には。

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期せずして今月初め、同じく高校同窓のS君が所用のついでに首都圏から来阪、在版の私他が梅田で落ち合って歓談する機会があった。
面談するのはほぼ60年ぶりのことだった。

このS君も西成産だが、見るからにまじめで実直な性格のK君とはまったく正反対ともいえる強烈なエネルギーを発散させ、「いつも噛みついてばかりいた」(I君の証言)いかにもニシナリのガキっぽい”ガラの悪さ”が印象に残っていた御仁だった。
しかし、現在は東京で活躍する自らの著作出版もある雑誌編集者に大変身をとげ、当日も神戸への出張取材の帰途だった。
こちらのS君は私同様、大卒切符を持ってはいないのだが、いつの間にか当時の花形職業だった”コピーライター”を業とし、首都に転出してから事業を起こしメディアの発信者となり、更に東北大震災を契機として自らの活動分野を得、現在は著作や講演で飛び回っているという目くらましい活躍をしている人物。
私のように内なる学歴劣等コンプレクスとの無為な心理的抗争の闇の時間とは全くかかずり合うことのない、その華麗で眩いニシナリからの脱出劇に大いに刺激され、またも私は自分のどうしょうもない自虐癖を必死に手なずけるハメになる始末(^^;

「へっ?そんな大企業の宣伝課のコピーライター職に高卒なのになんで就職できたん?」と思わず問い正した私に、「さ?なんでやろな?」とまったくトボけたS君の様子からは、学歴劣等コンプレックス等の些事には当初からまったく縁のない精神であったようだ。

やがてそのような商業文書きを業とするのを潔しとせず、とうとう東京で自らの活動場所を同定し、自分の言葉を社会に発信することとなる、職業インタビュアーでもあるS君は会食の席で主として私と同席した別の同窓ST君の来し方に専らその質問を向けていた。
関西有名大学仏文卒で地元商社に就職し順調にサラリーマン人生を歩んできたと想像していた、まったく我々ニシナリ産とは縁のない貴種的風貌のST君にもやはりそれなりの「出生の秘密」があり、会社倒産再就職というような経緯でやはり最終的には西成区の中堅精密部品製造業社勤務等の経緯を知らされ、大いにこの60年の人生の変転を「へぇ〜っ」と感嘆したものだ。
ちなみにST君の現役時の職場は私がガキの頃から20年も居住していた”ニシナリ”の同じ町内だった。
「学歴劣等コンプレックス」とか「西成出意識」とはまったく無縁に見えたS君にしても、自分の経歴はやはりかなりの異例であることの自覚だけはあるようで、まったく想定通りの破綻のない人生を歩んだと思っていたST君のその後の方がよほどの感慨を惹き起こしたようだった。

「おいおい、ST君のことばかり訊ねて、私には何も聞くことないんかい?」と最後に私がS君に催促(^^:
現在の私に対しては別段の時の経過への感慨もなく、「まったく当時と同じ、普通にサラリーマンやってるとは最初から思ってなかったので」とか(^^; おいおい!

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撤去された今宮無線塔へのオマージュは前回書いたのだが、この先日邂逅した2名の歩んだ道にも私にはまた特別な同郷・同窓の縁があり書いておかずにはいられなかった。
昨年からの私の内なる”大阪と和解”の主成分は「ニシナリとの和解」に他ならないのだから。

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