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[静かな生活]

 高校同期会総会とその周辺


'24 10月31日(木)1
「もうこれで最後かも」という幹事諸氏からのハガキに感応し、天王寺のバリタワーホテルと称するラブホまがいの宴会場に全国から60名ほどが参集。
私は今年も9月に同窓会総会には参加しているのだが、そちらは幹事でもないので殆どが初対面という塩梅。かろうじて同期の幹事2名とだけ顔見知り。

今回は同期会ということで、殆どはどなただか同定できると思っていたのだが、たまたま割り当てられた8名ほどのテーブルではやはり私には全員初対面状態。
当時50名クラス11組総勢500名以上の員数ではクラスもしくは課外クラブで同じでなければ在学中も面識がないことは通例だったか。

かろうじて後でテーブルにやって来たY氏(左)とは近年新たな展開があって親しくメールで連絡していた。
私が3年前に大阪に転居した際、昔のアルバムを整理すると幼稚園の卒園写真があり、同氏と私が並んで写っていたのだ。
高校時代は同じクラス、7年前の同期会でも会って喋っていたのだが、まさか幼稚園で既に同窓だったとは・・当時は微かにツルんでいた記憶もおぼろげに蘇えったりした。

今回は”これで最後の”という幹事の誘いが効き、東京からの参加も多かった。
中央は愛知から来阪したK氏。
同氏とは連絡しあい、前日に母校で落ち合って、お互いガキの頃暮らしていたニシナリの商店街まで歩いて歓談した。
上記のY氏とは70年近くの知り合いだが、K氏と私はもう100年以上前からの付き合いである。
和歌山の海辺の同じ字(アザ)の出身の親同士が旧知だったのだ。
K氏もY氏も私も出自は同じニシナリだが、それは親の世代が選んだもので、その人生の選択が我々のガキから思春期までの生活の枠組みを決定してしまっていた。

中部地方の大学に進学したY・K両氏とY氏とはもちろん私との接点は高校以降は皆無。
しかしK氏のニシナリの実家は弟氏が継ぎ、私が3年前に大阪に復帰した時、商店街の主人の弟氏を訪ね、以来K氏とのコンタクトが復活したのだった。
斯くて母校で60年ぶりかで再会したK氏とニシナリの商店街まで歩き、更に西に延びているアーケードを伝い、新なにわ筋を越え、最近の行きつけ(^^)の喫茶”シャトー”で歓談。

最後にK氏は近年執筆し始めた自伝小説の新作が掲載されている某組合機関紙を取り出し、カンパの要請。流石である(^^;

私のクラスではないが3−4組の面々。
9月の総会に会った前同窓会会長含め今回の幹事3名や2次会のカラオケ(!)で初対面ながらなかなか実のある意見交換をした東京在住のH氏等多彩な顔ぶれ・・。
文芸部で活動した右端のFさんからは同人誌の寄贈を受けた。

他に文芸部ではないが、同じクラスの紅一点で参加していた女性から意外な挨拶を受けた。
私が高校時代に書いた詩が忘れられず、夕日を見ると時々思い出していた、最後に一度そのことを伝えたかった、とか。
しかし、私には例によって全くその詩を思い出せない(^^;

前回の同期会の折りにも私が作詞作曲した(という)歌を当時の仲間が歌ってくれたのだが、私には一向に中身を思い出せなかったのだ。当時のイベントで主題歌を作ったというのはかろうじて思い出したのだったが(^^;

「ありがとうございました。生きていて良かったです(^^♪」と返す以外に今はございませんm(__)m

2次会はジャンカラで(^^♪
私も最近の習慣(^^;があり気安く付き合った。
本日も大阪に宿泊するというK氏も最後まで同室で付き合っていた。
東京のH氏も初対面だったが、海外の経歴や政治、語学がらみの話題で歓談した。
後で思い出したが、私も一時上六トルコ前を通り大阪外大に通っていた時代もあったのだった。

2次会もめでたく散会。
最後まで残っていたのは1年時のクラス1−8の面々が多かった。
私にとっても学芸会でクラス参加のイベントを主催し、脚本や演出を担当。
高校に入学してから、他の地域からやってきた雑多な連中と青春と呼ぶべき青臭い時代の熱気を共有したのだった。

しかしその後、私は2年時より次第に下降を始め、とうとうまともに高校を卒業したとは言えない状況を最近まで引きずっていた。やっと3年前に”大阪と和解”し、母校の同窓会にも顔を出す、とかガラにもないことも嗜めさせていただくことにもなる。
私のオデッセイは実に60年もかかってしまったのだ。

あ、K氏に頼まれた小説の書評、早く書かんとなぁ(^^;

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