地下鉄駅構内に掲示されているのポスターに「チカンはアカン」というのがある。これは乗客である痴漢向けのポスター だと思うが、なんでこんなポスターを張り出すのか意図がまったくわからない。
ふと町に「人のものを盗むのはドロボーです。」「殺人は人殺しです。」というようなポスターが溢れている光景を想像したりする。
大阪市交通局の広報課は、痴漢がこのポスターを見て「ああ、痴漢はアカンのか」と反省し、 被害がなくなると本当に考えてらっしゃるんでしょうかね?
そんなことは、一度もチカンをしたことがない人の言うことだよ。と、これはつまらない冗談。とにかく「チカンはアカン」というくだらない語呂遊びで遊んでいる予算があるなら、貧弱な車両の放送設備の改善に投資してくださいませ。
○「痴漢は犯罪です。<中略>痴漢を撲滅しましょう」
やっと最近「チカンはアカン」というばかげたポスターが大阪市営地下鉄の駅から消えた。 その代わり妙なアナウンスが駅で放送されるようになった。 (実は消えてなかったので上の記事もういちど掲載することにした。)
今度は「チカン向け」ではなくて、どうやら女性客向けの内容のようで、すごくマジメそうな女性の声でアナウンスされている。
まあ、あんまり文句を言うと痴漢がはびこってもいいのか!とドヤサレそうですが、でも、 言わなきゃならないことは言わしていただきます。
それって 「痴漢」と「痴漢が行う所業」の区別ができてないんじゃない?「痴漢」は人を指します。正しくは→「痴漢行為は犯罪です。」
いくら悪い人でも「撲滅」するという表現は、なんていうか、すごく怖いよ。
(このアナウンスの項 2001.7.9記)
たまたまリンクをたどっていった先に次の意見を見つけた。是非読んで欲しい。
痴漢を「撲滅」というアナウンス 2001年11月22日の毎日新聞に次の投書が載りました。
「痴漢は犯罪です。皆の協力で痴漢を撲滅しましょう」
大阪市営地下鉄の車内放送で、いつも不快に思っているのは「撲滅」という言葉です。
撲滅ってもともとは、棒で殴ってやっつけることでしょう。聞く度に思わず凄惨なリンチの場面を想像してしまい、言葉に対するあまりの無神経さに腹が立ちます。
撲滅という言葉は庶民の日常用語にはありません。だからこそ、ギョッとさせようとして使用しているのではないですか。あるいは警察用語をそのまま転用しているのだと思います。
いずれにせよ、朝晩聞かされる者の身になって、適切な言葉を選んでほしいと思います。
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そもそも、こういうことを車内放送するのが問題ですね。大阪の地下鉄はこんな放送がひっきりなしに続くので、それを聞くのを避けるために遠回りしてほかの電車に乗っている人がいました。
実はこのHPの主催者の正保さんとは昔一度お会いしたことがあって、
英文法ネタジョーク「矢を好む時蝿」を教わりました。(^^;
そういえば最近大阪市営地下鉄ではこの構内放送は自粛しているような気配である。上の投書や、もしかしたらこの私のHPも少しは圧力をかけることが出来たのかも知れない。うむ。そう思っとこう(^^)
(この追加記事 2002.4.19記)
○「座席は譲り合って、できるだけ多くの人がかけられるようにご協力下さい。」
確かに股を拡げて最大限自分の領土を確保したまま、どんなに混雑してきても動こうとはしない人には好感の持ち様もない。私は地下鉄のシートを6人掛けと考えそれなりに六分の1の面積だけを占めようとしてきたが、最近は考えをかえた。
大阪市営地下鉄のシートは6人用にしては狭すぎる。
標準的体型の大人6人ではどうしても身体が密着してしまう。他人と身体が密着してしまうのは生理的な苦痛である。
ちなみに乗り換えている近鉄奈良線では乗客が自然に1シート6人になって座っている。シートの広さが6人分あれば自然に適正な位置に腰をかけられるようだ。
大阪市営地下鉄の場合、自然な間隔で両端から座って行くとどうしてもシートセンターのつなぎ目の不自然なクッション位置に1人分のスペースしか余らない。
二人分の余地を空けようとすると、端から二人目の人が座るとき、すでに座っている一番端の人と密着するような姿勢で座らねばならない。この時はまだセンターが空いているので、よほど無神経な人でないかぎり、端の人と密着して座る心理にはなれない。端から二番目に座ってしまい、立っている人から無言の圧力をかけられ6人掛けにしようと横ににじり寄るが、横の人が思った通り応じてくれないこともある。思えば、前からは恨みがましい目つきがつきささり、横から「がさがさするな」とばかりの無言の圧力を受けて、やっと確保した座席であるが、いっそ放棄して立っていた方が心理的には楽かな、というようなわずらわしい葛藤がずっとあった。
「大阪市営地下鉄のシートは5人がけが適正である。」と考えたとき、この心理的拷問からは救われる。
それは乗客個人が全面的に担わなければならない課題ではなく、大阪市営地下鉄の車両の設計思想が人間中心ではなく、効率だけを考えたものであることに起因するのだ。だから地下鉄で通勤している御同輩諸氏よ、車内放送の「座席は譲り合って、できるだけ多くの人がかけられるようにご協力下さい。」という脅しに負けてはいけない。
6人掛けできないのは、大阪市交通局の車両の利用者を無視した設計上の欠陥である。5人で座っている人の罪ではない。私はもう無理して詰めたくはない。せめてやっと座席にあたった時くらいはゆったりと人間らしく座っていたい。愚にもつかないアナウンスをし、自然に5人で掛けている客が人非人ででもあるかのよう心理的圧力をかけるのは止めて欲しい。また、5人で掛けている人を「秩序の破壊者・諸悪の根源」とでもいうような目で見る傾向を助長するようなことは止めて欲しい。
こんなところでぶつくさ言っても聞こえないのかもしれないけど、とにかく最近私がたまたまシートを5人で占めている一員になったとして、車内放送にしたがって無理して詰めなくなった理由をここで表明しておく。
2000.5.28
2001.11.26改定
2002.4.19 ちょっと追加