1999.10.15 (金) いづみホール

福永吉宏フルート・リサイタル

flute:福永吉宏 cembalo:小林道夫 
 オール・バッハプログラム

教会音楽ではない、バッハの器楽音楽の本質とは何なのか。
純粋な音の動きの楽しみからそれは始まり、リズムの面白さと和声の変化のゲームが次に展開される。その中には第1曲目のシチリアーナのような親しみやすいメロディの叙情の楽しみもあったりする。しかし、最後に今回の演奏から非常にクリアに浮かび上がってきた思いはバッハの音楽の劇的性格ということだった。この意味でプログラムの最後にロ単調ソナタが置かれていたのは明白な演奏者のたくらみである。
ある瞬間にはコレルリやテレマンとバッハの音楽とで同一の響きが聞かれるときもあるのかもしれない。しかし、同時代の天才たちが音の喜びを純粋に繰り返しているとき、このフーガの大家は時間軸をたどるに従って、たたみ込むように次第に複雑性を増し、音楽的に高揚するという前代未聞の技法に心を砕いていたように思われる。この意味でバッハこそ正に後の古典やロマン派音楽の文学的思弁性を切り開いたといってもいい。

このバッハにおける音楽的高揚が、後期ロマン派のような大オーケストラの膨大な音色の色彩に支えられたものではなく、フリュート一本と通奏低音の均質な音色のなかで、純粋な音の動きとしてのリズム、和声、旋法の変化から生起されているということにぼく達は真に驚く。(多分この音楽的高揚の直系はジャズのアドリブだろう。)

この魔法の笛の、くっきりと立ちあがる最初の一音にぼく達の心は呼び込まれ、とろりと魔法にかけられてしまう。笛の音は明快で、バッハのたたみ掛けるような語法をどんな細部であろうと、くっきりと立体的に大脳皮質に写しだす。ぼく達は次々と語られるリズムと和声の秘密に感応し、あ、そうなのか、あ、そうなんだと心の中でただうなずく以外に逃れる術はない。

この魔法の笛吹きはいう。
「バッハって面白いでしょ?ほら、これは?次もまた非常に楽しよ、ね?」

チェンバロが最後の和音を置き減衰して行く中で、めくらましい音楽が終結する為に必要なだけの時間をフルートの主音がたっぷりと豊かに支え切るとき、まるでホール一杯にパイプオルガンが鳴り響いているような、満ち足りた波動につつまれているのが感じられる。そのとき、フルートという楽器はこんなにも表現力が豊かなものだったのかと、初めてのようにぼく達は気ずくのだ。

でも、この笛吹きはアンコールの最後で正体を現しブロックフレーテに持ちかえる。気がつくとハーメルンの町からぼく達全員がみごとに連れ去られてしまっていたのだった。うん、この笛の音には子供になってどこまでもついて行ってしまいたい魔力がありましたね。


1999.12.19(日) 14:00  尼崎アルカイックホール

二期会オペラ公演「脳死」

関西二期会 alt:井上智津子

作曲・演奏とも可。脳死の夫を慕う妻と臓器移植を決断させる医師。他人の体のなかで生きる夫という考えを受け入れて、夫の追憶にしたる最後の場面。けれども果たしてこういうテーマをオペラですることに意味が在るのか?声の楽しみのオペラと臓器移植をめぐる心理的問題はそぐわない。全体が無意味な浪費のような気がした。しかし、それとは別に、ぼくはすでに愛するものの死というイメージで最初からぼろぼろ泣いていた。最近人前でも涙がとまらない発作に襲われることがある。人の絆というイメージか。やはりSのことしか考えていない。人の絆ということがSとの関係を思わせ、音楽とは関係のない涙が出る。


1999.12.26(日)  18:00  いづみホール

アンサンブルシュッツ第37回定期演奏会

指揮 当間修一  大阪シュッツアンサンブル

合唱幻想曲)
ピアノのシンフォニックな響きとオーケストラ・合唱の掛け合いのバランスが良く、爽やかな印象の音楽にまとまった。ピアノの出だしに多少ミスタッチがあった他は安定した緻密なアンサンブルが楽しめた。ソロ・合唱共爽やか。
この曲が成功するにはそれだけで十分。

第九交響曲)
特にオーケストラの粗さが目についた。特にホルンのパートの練習不足で音楽的な流れが止まってしまったのが残念。
また、この編成のオーケストラに対抗するにはもう少し合唱の人数が必要なのではないか。この曲自体も緻密なアンサンブルよりも、計算以外の熱気のようなものを合唱に求めていると思えるのだが、ある程度の人数がないと群集のざわめきのような熱気がこもらないような気がする。
フォルテシモが弱いということではないが、余裕がないと感じさせることがある。特に男性合唱部、オーケストラの上から輝くというような生彩がテナーソロにはなかったし、男声合唱の迫力も不足していた。また Bruder, uberm Sternenzelt・・の高音部で要求されている音量をあの人数で出そうとすると声に余裕がなくなり聞き苦しい音質になった。
オーケストラが粗いので合唱とのバランスが悪くなったのかもしれない。
それにしてももう少し合唱の人数が多ければなんとかなったはず。


2000.5.27(土) 17:00 ザ・シンフォニーホール

古澤巌バイオリン協奏曲演奏会

Vn/指揮 古澤巌  大阪センチュリー交響楽団

1000円の席というのは舞台の上方に張り出した3階の席の後列で、丁度オーケストラの金管楽器演奏者達の頭上に居る感じだった。もちろん舞台の右半分(こっちからいうと下半分)が見えない。で、この古澤という御仁はバイオリンを弾きながら指揮もする。指揮している時はオーケストラの方を向いて、つまりわれわれの方向を向いて第一バイオリンのパートを弾いている。ソロになると客席の方を向いて、つまりわれわれに尻を向けてソロパートを熱演するということになる。
モーツアルトとチャイコフスキーのコンチェルトを弾いたわけだが、とくにチャイコフスキーでオーケストラとダイナミックに対話するような場面ではソロになった途端にそっぽを向かれてしまうので、音量が向こう側に抜けていってしまって、カスゥ〜っていうような印象の場面も幾度かあった。
うむ。しかし1000円でバイオリンコンチェルトは安い。\(~o~)/


2000.6.14  19:00 シアター・ダンス・シティ

GRAND THEATRE DE GENEVE 公演

Duoから30名の群舞まで6演目。
最後のバッハによるAXIOMA 7 が圧巻。ドイツ徒弟達の格好をした男女が輪になり次々に服を脱いで行ったり席取りゲームのような動きをする。ユーモアと躍動感と青春性を感じさせてたのしい舞台。
第一部の終曲、BETWEEN DUSK AND DAWN は緊張感と情念に溢れるDuo。絞首刑のイメージと死んだ女と踊る男の不条理に突出するエネルギー。緊張感の持続。最後まで目が離せない舞台。ムンクの叫びのような情念とエネルギーの放出というイメージ。


2000/6/25 いずみホール

大阪ハインリヒ・シュッツ合唱団
第34回定期演奏会・現代音楽シリーズ第11回

指揮: 当間修一 大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団/管弦楽団
1)A.ペルト(エストニア) Trisagion (弦楽合奏)
2)G.フィンジ マニフィカト 弦楽合奏・合唱
3)ユン・イサン クラリネット5重奏曲第一番
4)千原秀喜 混声合唱のための おらしょ
5)柴田南雄 宇宙について

音楽に情的なもの、あるいは喜怒哀楽のような感情的な感応を求めるのは古典的な傾向だ。巷は相も変らず恋の歌に満ちている。

弦楽合奏の伴奏付きで演奏されたG.フィンジのマニフィカトは、人間の生理的レベルでの快さを生起させるための音楽である。清新でさわやかな和声とやすらかな感謝に満ちたテキストをうたうにふさわしい旋律。これはぼく達が持っているおだやかな懐かしい世界への賛歌であって、ぼく達は歌う人の歌う喜びを感じ、音楽を聴くことの喜びにただしたっていれば良かった。

ユン・イサン:クラリネット5重奏曲第一番には、こういった生理的レベルでの快さはない。それでもクラリネットの音域と音色は確かに人間の声を思わせるところがある。男でも女でもない中性のクラリネットのつぶやき。これは、無機質な世界から意味を汲み取るようにして始まり、次第に音楽的な有機性を増していき、そしてまた無機質なものへと帰っていく音楽である。
しかし、もっとも有機的な部分でさえ恋の歌のような安定した情的な意味は聞こえてこない。ぼく達は音楽の中に、リズムや和声や旋律のような「情的意味」を求めようとするが、可聴範囲の上限を越えた弦のとてつもない高音がぼく達の生理を不安にさせ、クラリネットの叫びが、何とか安定しようとする感覚をなしくずしていく。もっとも高揚した瞬間でさえ、3つの音程的にかけ離れた音塊をクラリネットは吐き出すだけなのだ。
これは恋の高揚や苦しみというような情的意味を描いた音楽ではない。それは、何らかの情的帰結に昇華することもないまま、ただ心理に去来した光景だったのだ。

柴田南雄「宇宙について」は、最早、情や心理という記述され得る一元的な要素を音楽で提示しようしているものではあり得ない。多様な時代の多様な場所から切り取られてきた音楽が、テキストと動作と衣装を纏って放たれる。ぼく達は多様な音楽が様々なやり方で演奏されるのを聞くわけだが、タイトルから連想して、これが混沌と秩序の劇であるとしたり顔で言うのは止めておこう。
聴衆の物理的な位置や演奏者の移動速度によって変化する豊穣な音響。「個」としての声が耳元を移動していく時に感じる斬新な聴覚の冒険。多様な音楽が同時にひとつの空間を満たす予定調和的混沌の世界。

例えば、ユン・イサンの音楽では、ぼく達は「情的な安定」は得られなかったものの、未だに幸福な聴衆で居ることが出来た。ぼく達は、演者には感知できない客席の暗闇に守られて、ぼく達の外側で生起している提示された音楽を観察することができたのだが。
しかし、ここにして演者は舞台を降りてき、ぼく達の暗闇のバリアをとっぱらってしまった。

「個」としての演者が音楽を実行しながら、「個」の聴衆としてのぼくの側を通過する。音楽の中に生身の人間という要素が表出すると、聴衆としてのぼく達にも生身の「個」としての部分が感応してしまう。もちろん演者は「個」ではなく音楽一般になりきろうとして、聴衆の「個」と目を合わせないようにはするのだけど、すぐ側で肉体化してしまっている演者との個人的係累をぼく達は否応なく再生し、一連の音楽体験の中に繰り込んでしまう。特定の演奏者がぼく達の側を通過する時、聴衆としてのぼく達の心の中にも又、もうひとつ別の劇場宇宙が生起したりもするのだ。

「個」のレベルにまで拡散した音響は、それでも何らかの秩序にしたがって収束していき、最後には舞台上のユニゾンに還元されてしまう。しかし、この帰結はぼくには納得が行かない。ユン・イサンの音楽がそうであったような、出発点に戻っていくという古典的な循環運動が与える大団円的コーダの安堵がない。
華厳経をあのように放唱することが本当に作曲家の意図だったのか、未だに得心には至らない。何か無理矢理終結を宣言され、勝手に閉じられたという違和感が残る。いや、単に演奏者自身がこのコーダのテキストに得心していないことの反映なのかもしれない。

音楽が客観的に規定された一定の情感に収束する古典的帰結は最早ない。しかし、この多様な音楽的イベントの一要素であった「個」の聴衆としてのぼく達の内なる主観の劇場では、時ならぬ恋の歌が立ち上ったりすることもあったのかもしれない。かくて千の聴衆は千の異なる音楽を自分の内に聞く。


2000.9.29 19:00 ザ・シンフォニーホール

ウイーン・フォルクスオパー・サロンアンサンブル演奏会


一管編成+ピアノの12,3名のオーケストラでコンサートマスターが指揮者・ソリスト兼任で、ウィンナワルツを演奏する。パーカッショニストはティンパニー、ドラムス、シンバル、鉄琴兼任で、適当にコミカルな寸劇まで演じる。例えばワルツの弱拍刻みはピアノがそれとは判らないように弾いている。それでもフルオーケストラの管絃の厚ぼったい響きまでマネてしまうのが芸か。バレーのペアとオペレッタのメゾソプラノ歌手が彩りを添える。「美しき蒼きドナウ」から「ラコッツイマーチ」で手拍子を取るウィーンフィル・ニューイヤーコンサートまで真似てしまう。当方も\1000の天井桟敷で充分楽しめた。なんと言うコストパーフォーマンス (^^;


2000.10.7(金) 18:30 大阪市立科学博物館

大フィルのメンバーによるプラネタリウムコンサート


何十年ぶりかでプラネタリウムを見た。それなりに面白かったが、コンサートは最悪だった。小学校の生徒の鑑賞教材風の何の内的音楽性も感じられないただ楽譜を弾いてますというような演奏・ひどい音響・眠っているくせに楽章の終わりには律儀に拍手する観客。いいかげんに音楽のマネ(文化のマネ・フリ)はやめんかい!というひどさ。未だにそうなんだなぁ。貧困だなぁ。


2000.10.9(日) 2:00 ザ・シンフォニーホール

キリ・テ・カナワ演奏会

SP:キリ・テ・カナワ

ホールに入って自然にいつもの天井桟敷に向かおうとしていて、今回は\6000の席なのに気がつく。「あ、今日は違うんだ」と笑いあうが、しかし結局いつもとは反対側だったけど、3階席であった。後ろにはもう誰も居ず、固定座席ではなかったで前後に移動し手すりに腕を預ける形で鑑賞でき楽だった。
さて、当方もCDを一枚もってるくらい有名歌手のキリ・テ・カナワ。まあ、うまいのはうまいのだけれど、どこが他の歌手と違うのか良くわからん。たとえば声に銀色の張りがありきらきらと光りながら震えているっているというようなイメージを持ちつつ期待していたんだけど。例えばデュパルクの「旅への誘い」の出だしとか、「ああ」というような背筋の戦慄はあったが、それは声とは別のものだったろう。ボードレールの詩への思い入れだった。結局、演奏会終了間際の観客の熱狂はキリ・テ・カナワが世界的に高名な歌手であるそのこと自体が醸し出すオーラのようなものだと知る。「有名人」であることへの俗物的熱狂であるとすることもできる。しかし、逆にこういうスターは確かに観客を熱狂させるオーラを持っているからスターなんだという気もする。デイム・キリは優雅だった。端正な顔と趣味のいいステージ衣装、それにマオリ族の血を引くというような民族的親近感?おい、なんでマオリ族と親近感だよ?でも何か純ヨーロッパ産でないことへの親近感があるに違いないと思える。紛れも無くキリ・テ・カナワはスターだった。


2000.10.13 19:00 ザ・シンフォーニーホール

ウィーン弦楽四重奏団演奏会

ベートーベン sq11番「セリオーソ」
ドボルザーク 「アメリカ」
シューベルト 「死とおとめ」

ベートーベンsq11番「セリオーソ」
は始めて聞いたが、オーケストラの演奏会によくある前座演奏的小品ではなく、中期ベートベンのリズム感が躍動するなかなかエネルギッシュな曲だった。弦楽四重奏も久しぶりで当初例によって天井桟敷だったので第一バイオリンの音がよく聞こえなかったと思ったが次第に音楽と感覚が集中していき豊かな弦の表現力が満ちた。有体な感想だが完璧なアンサンブルと表現力。特にチェロ(フリッツ・ドレシャル)が見ていても気持ちのいいダイナミスムを感じさせた。

ドボルザーク「アメリカ」
は楽しく聞けた。完璧な演奏能力に裏付けられた音楽性。必死で演奏しているのではなくて、ゆとりが演奏にあらわれ、のびやかに軽く歌う第一Vnの旋律が心地いい。さわやかな解釈で実に気持ちのいい演奏であった。ここからブラボーコールあり。

シューベルト「死とおとめ」
実はこの曲はしつこくて嫌いである。嫌いな曲を上手に演奏してもらってもやはり嫌いだった。いかにしつこく聞こえないかという演奏であったらいいのに「ウィーン」と銘打つからにはちゃんと演奏しないといかんのか。そーでもないか。
しかし、地味な弦楽四重奏演奏会にしてはブラボーコールが巻き起こり、ほぼ満席の聴衆が満足の拍手を惜しまない。

そしてアンコール演奏がなされる。静かな情緒と歌謡性と軽い和声感。ベートーベンやシューベルトでのエネルギッシュな動きではなく、やはり弦楽四重奏の真髄はしっとりとした静かで落ち着いた5分の曲にあると思える。至福の時といっていい。あとでプッチーニ「菊」と知る。


2000.10.19(木)18:45 ザ・シンフォニーホール

大阪ハインリッヒ・シュッツ合唱団25周年記念演奏会

指揮: 当間修一
柴田南男「人間について」

 

当日券A席\4000。2階席最後部。ゆっくりと久しぶりに一人で居るコンサート空間を楽しむ。しかし、時間になって座った席は狭く、横の男がガムを噛んでいるので不快でたまらない、開演間際に空席に移動する。音楽については書くことがない。なんせ、2階席最後部で1階で何が起こっているか良くわからず、他の同クラス観客連中も同様で、演奏途中に席を立ち上がってロビーに消え、サイドの3階席に姿を現す者が居、共通の知人出演者を指し「あ、あそこ」という風な情報交換を頻繁に交わすおばはん連中が居、あまつさえ出番を終えた参加合唱団の居残り鑑賞軍団が声高に当方の占拠した座席めがけて押し寄せてきたりし、こちらも負けずにかばんから双眼鏡を取り出してソプラノ随一の端の美女の鑑賞にせいをだしたりし、余りに音楽以前のことが多かった。ときどき遭遇する、空間に満ちる声の偶然を面白く思いはするのだが。演出で一階席に演奏者が出没する度に席から立ち上がって見ようとするおっさんとか、参加合唱団の縁者集団がこそこそと知人情報を交換する私語とかの音楽以外の要素が勝つ。しかし、彼女は美女だよね。なによりも生き生きとした表情が美しい。声を出すときの目を張る表情や、音形によって少し顔をしかめて歌うそのダイナミズムが官能的だった。多分シアター・ピースというのはそういう音楽以前のことまで含め、個人的思い入れを持った個々の観客をも含めた総体を取り込むカタチで企画されているんだ、とすればそれはそれでそういうことだったんでしょう。



2000.10.21(土)17:00 ザ・シンフォニーホール

デニス・マツーエフ「3大p協奏曲」

P:デニス・マツーエフ 十束尚弘・大阪センチュリー交響楽団 
ラフマニノフNo.2
プロコフイェフNo.3
チャイコフスキー

威勢のいいロシアの兄ちゃんが晩飯前に3つのしんどいピアノコンチェルトを弾きまくるというコンサート。

一曲目ラフマニノフNo.2
 「いやー、にぎやかでいいね」

2曲目プロコフイェフNo.3
え?休憩なしに弾くのこの曲もしんどいのに。「よし、兄ちゃん、ひとつやってもらおうやないか」。結局最終楽章のコーダの盛り上がりまで一気に弾き飛ばしブラボーを得る。こうなればオリンピック風のスポーツ競技とあまり違わない。

20分の休憩の後3曲目チャイコフスキー、
これは前2曲とくらべて楽だろうと思ってたが、もう一度聞いてみるとそれなりにかなり難曲風である。出だしの2箇所くらいでミスタッチがあり、なんとなく最後までもう間違いはしないかというサスペンスが持続。そのせいで全てのタッチを検証する風に聞き耳をたて、そのおかげで結構難曲風の感想を持つ。マツーエフ選手も心理的にかなりのプレッシャーを感じている風情である。
早いパッセージを弾き飛ばし、オーケストラに引き渡す瞬間の両手を離して楽想を放り投げるゼスチャーも大振りでかなり苦しげで乱暴になる。おかげで余計に観客のサスペンスは盛り上がる。はらはらどきどき。
最後、第3楽章コーダでの第二主題の回帰部、オーケストラのしつこい焦らし音形が、いよいよ綱渡りを始める前の小太鼓の連打のように鳴り響き、マーツーエフ選手がクラウチングスタイルをとりぐっと鍵盤にしゃがみこんで待機。やるか?それるか?小太鼓連打が終に途切れシンバルが鳴り響く。瞬間マ選手猛然と飛び出しゴールに向かって炎のダッシュ。
なんという派手さか、なんという華々しさか、大男マツーエフがスタンウエイも砕けよとばかり踏ん張る第二主題マエストーソ、鍵盤を地面までもぐりこんでしまえと押し込んだ最後のコードを支え切り、十束の棒が停止する瞬間、噴出するエネルギーを指から上体にスイッチしたマ選手は椅子から飛び上がり、上肢が鍵盤に弾かれて上方を指したまま、オーケストラの中心部へと飛び出して行った。十束と鉢合わせしそうになったマ選手は、これと抱き合い必死で加速を止める。観客はやんやの喝采、ついにマ選手、ウルトラCを決めた瞬間であった。

この後アンコールに超絶技巧ジャズ風ピースを弾きもう一度観客を唖然とさせてコンサートは終了、観客ともども大汗を拭いたのである。



2000.10.28(土) 18:00 ザ・シンフォニーホール

ミシェル・コルボの「ロ短調ミサ」

ミシェル・コルボ指揮
ローザンヌ声楽アンサンブル、フライターク・アカデミー室内管弦楽団


どうしてもカール・リヒターとの比較でものを言うことになる。カール・リヒターが手勢のミュンヘン・バッハ管弦楽団・合唱団を率いていた時はかなりの大所帯だったはずだ。特に合唱は声楽的に訓練されていない生の声を用いたので人数は必要だったと思う。
コルボが率いる合唱団は各声部5・6名のこじんまりとしたものである。管弦も古楽器を使用したアンサンブルというほどの規模。バイオリンは極力ビブラートをひかえた奏法で、ビオラ・ダモーレ系の共鳴弦の響を思わせる。ということは、リヒターのダイナミックで劇的なバッハではなく、より古典的でバロック的な悠々たる演奏ということである。
管弦のソリスト達も古楽器を巧妙に扱い、独唱者達もすばらしい声だった。木管のオーボエのふくよかな音色や、胴体の長いファンファーレ用のようなトランペットもおもしろかった。特にピストンのない二つの円が平行している形のホルンの演奏が難しそうだった。まったく唇の圧力だけでトリルを演奏するのは至難のことだと思われる。
中間でも特に幕間の休憩をとることなく、舞台の上でしばしの音取り休憩を挟んだだけで2時間を演奏し切ってしまった。曲と曲の間の休止を取らず、一気に演奏する組み合わせも多かった。独唱とオブリガートのソロ楽器という組み合わせでは、各楽器奏者が立ち上がって演奏するスタイルである。小編成ということは演奏者個人が見えるということだ。このいろんな音楽の組み合わせで出来ているロ短調ミサでは、そういった演奏者の芸の楽しみという要素も少なからずある。リヒターの劇的な表現との比較で言えば、コルボーはもう少し、バッハの時代がそうであったような音楽を演奏する楽しみに比重を置いた表現だったといえる。もちろん昔聞いたリヒターの陶酔と高揚を期待していたのは事実だけど。




2000.11.5(日)  2:00 大阪国際会議場

宮下登美雄「眠りのコンサート」

「大阪ねんりんピック」の行事ということでスタッフとかかれた白いウインドブレーカーの係員がやたらとめだち、叫び、必要もないのに整列させ、不快な雰囲気だった。
「癒し系の音楽」ということだけど、既にこの不快感をどうしてくれる。
素人のボランティアであるのかもしれない。何かをしなければいけないという意識が先行する。さりげなく要点だけ行為するという風ではない。貧困。
コンサートは音楽的にはつまらないものであった。やたらとリバーブをきかせた短3和音1コだけの素人音楽で本当に退屈で眠らなければどうしょうもない。眠るためのコンサートというのが新味といえばそうなのかもしれないけど、レム睡眠とかミュージックセラピーとか云々というほどのもんでもないだろう。


2000.12.4(月) フェスティバルホール

ベルリンフィル演奏会

指揮:クラウディオ・アバド 
P: ジャンルカ・カシオーリ
ベルリンフィルハーモニー交響楽団

ベートーベン: エグモント
p協奏曲No.1
Sym.No.7

空席がない超満員という熱気。優男もしくは小男アバド氏はトコトコと頭を少し前につきだしたような幼児風に出てき、ああ、もしこれがカラヤンだったら威風堂々とベルリンフィルに君臨すべく登場したんだろうなぁと反射的に思ってしまう。プログラムはエグモント序曲・ピアノ協奏曲No.1ハ長調(ジャンルカ・カシオーリ)・交響曲No7。聞き飽きたオールベートーベン。ソツの無いベルリンフィルの演奏。派手さも大向こうをうならせるカリスマ性もないアバド。21歳のピアニストは初々しくさわやかな演奏だったかもしれない。うむ。ほかに何も書きようもない。A席\27000ねぇ。



2001.2.19 ザ・シンフォニーホール

三善晃作品演奏会

指揮:秋山義和 大阪フィル


4曲とも緩急緩風の構成を持ち、似たような大掛かりな編成の曲である。特にシロホン・マリンバ・グロッケンシュピール・チャイム・チェレスタ等鍵盤打楽器が分厚い管弦の響きから立ち上がるように使用されているのが特徴的。
チェロ協奏曲では管弦が強奏するとソロがまったく聞こえない。
壮大な音響の楽しみ。



2001.4.14(土) 18:00 フェスティバルホール

「マタイ受難曲」演奏会

指揮:若杉宏
エバンゲリスト:波多野均
キリスト:三原剛 他
大阪フィルハーモニー、同合唱団 

実を言うと初めてマタイを「見る」。だから若杉の方法が一般的なのかどうか知らない。2つのオーケストラが左右対象に配置され、それぞれの管楽器ソリストが中央にくる。だからバイオリンのコンサートマスターよりもトップフルーチストが前に出ている。両オーケストラの中央奥にチェンバロとオルガン奏者が並び、通奏低音を受け持つチェリストがその左前に座り、その右席は空席だった。第2部が始まると右席にビオラ・ダ・ガンバが入る。最初はチェリストと思っていたが、音が含みをもってほの細い。でもソレとは明確に意識していなかったが、全奏時に他のチェリスト群とは全く逆のボーイングをしていることに気づいた。いつかローザンヌのチェリスト志保サンにそのことを聞いた記憶が蘇る。
マタイの印象は相変わらずである。コンサート形式としてロ短調ミサの方がはるかに聞きやすいし音楽的構成も感銘を与える要素が多い。楽しいというか。長大な音楽劇を追うにはセリフの理解が不可欠だ。しかし、悲しいことにそこまでの語学力はない。だから劇の流れが音楽としての形式を損ねていることだけを目撃することになる。コンサート舞台の視覚は確かに楽しい要素ではある。たぶんCDで3時間強の演奏を通して聞くことはできないだろう。


2001.4.21(土)18時  フェスティバルホール

NHK交響楽団演奏会

H・ブロムシュテット指揮
vn:. C・テツラフ
ゲーゼ「序曲オシアンの余韻」
シベリウス「バイオリン協奏曲」
ニールセン「交響曲第5番」

ゲーゼ
単調歌謡風通俗味だけの作品

シベリウスのを弾いたテツラウは朗々と歌い上げる豊かな表情のバイオリン弾きである。この曲は極力押さえた端正なつくりをすることも可能だろうが、やはり演奏会では表情豊かで感情過多風の方が冴える。こういう演奏を見ることができるのがコンサートの楽しみである。

ニールセンの5番は天才でなければできない破格の曲作りが新鮮で最近私が愛好した随一のオーケストラ曲である。日本の演奏会で取り上げられるとは思っていなかった。荒々しい小太鼓のアドリブ風連打で終わる第一部と大まかな3部形式の第2部からなる交響曲。決して耳に快くは無い和声とぶっきらぼうな音形が連続するヘンな交響曲。ブロムシュテットがどうまとめるのかが聞きものだった。演奏は破綻無く進み、唐突なコーダの盛り上がりで曲が閉じる。全体を通じての解釈がなかなか鮮明には伝わらない。この曲のどこか納得のいかないような印象は変わらない。難曲を無難に纏めたという印象か。


2001.5.19(土) 2:00 ザ・シンフォニーホール

ベネチア合奏団演奏会

比較的若い演奏家達の集団である。ヴィバルディ・プッチーニのイタリアモノとなかなか見事なテクニックを見せるサラサーテのチゴイネルワイゼン・カルメン幻想曲、それにチェロのソリストのプッチーニの変奏曲とフォーレのエレジー。ヨーロッパによくいるドサ回りのプロ達だと思うが、それはそれなりに職人的に客を楽しませる風があって楽しめた。特にソリストが技巧を見せ、観客が喝采しガッツポーズ風に答礼をするのは愉快である。それにしてもソロチェリストの兄ちゃんは引き上げ際にチェロをくるくると回したりするイカれた若者風だが、なかなか朗々とした音を奏で印象に残った。


2001.5.21(日) 14:00 ザ・シンフォニーホール

鮫島由美子とシュランメル

SP:鮫島由美子 ウィーンフィルメンバー

 
第一部は何を聞いても同じようなウィーン風シュランメル楽団で眠たかった。
鮫島も語りがおとなしく、声もそんなに特色がある感はしなかった。
第2部になってなにかしらウィーン風のノリに染まってき、鮫島もなかなか気分たっぷり風に演出するのでいつのまにか乗せられてしまった。ヨハン・シュトラウスのアンネンポルカをオペレッタの一節風に歌いこなしてなかなか粋な雰囲気になった。
会場のそこかしこにいる老夫妻が喜んでいるのが印象的。パリと並んで映画「会議は踊る」に象徴される古きよきウィーンに憧れた青春もそこにはあったんだろうな。


2001.6.1(金) ザ・シンフォニーホール

Golden 100 fingers Piano house 10 コンサート

ジャズピアニスト10人のコンサート。各自得意ナンバーを2曲ずつ、ソロあるいはドラム・ベースのトリオ、たまに連弾で引き継ぐ。ブルース進行のアクロバティックな掛け合いのアドリブあり、叙情的で自己沈潜型のかなり独りよがりなソロありで確かに楽しいステージだった。コンサートホールでのジャズピアノはどこかクリアでなく、また、いくら燃え上がるようなアドリブに到達しても音の立ち上がりは吹奏楽器の比ではない。というわけである種の欲求不満は感じる。しかし、それにしてもピアニスト達の指には驚きあきれてしまう。特にこういうお祭り的に華やかな競演であるからそれぞれの得意を選りすぐり自己顕示に励むので、テクニック勝負のような感じになってしまう。返って地味だが小粋なソロを聞かせるというような域に達する老齢ピアニストが目立ったりする。


2001.6.24(日) 2:00 ザ・シンフォニーホール

「20世紀の名曲たち」

藤岡幸男指揮 大阪センチュリー交響楽団
プロコフィエフ「古典交響曲」
ラベルp協奏曲ト長調(p:仲道郁代)
ストラビンスキー組曲「火の鳥」

華やかなオーケストラ曲である。
ラベルのピアノ協奏曲第二楽章のウラに流れるイングリッシュホルンのソロもなかなか気持ちのいいノリだった。
「火の鳥」は子供の頃よく聞いていたはずだけど、あらためて聞き直してみると導入部と火の鳥が現れ飛び跳ねる舞踏が終わってからの音楽を殆ど覚えていないのに気が付いた。色彩豊かな楽しい演奏だった。
最後にエルガー「夕べの歌」(?)がアンコールで演奏され、端正なイギリス風叙情とでもいう世界がちらりと見える。この指揮者の音楽的基盤はこのあたりにあるようだ。


2001.7.12(木) いづみホール

ピアノトリオの夕べ

P:蒔田仁美 他 +ワルシャワフィルメンバー

発表会風といえば失礼だが、4人のピアノ奏者が職人的に安定したVnとVcを相手に度胸つけてもらっている風の印象のコンサート。観客層もピアノ発表会のノリの身内意識が多く、かくいう当方も縁故で誘われていったのでしかたがない。誘ってくれたI氏は約束もしてないのにホールの入り口で当方を待ってくれてい、隣の座席券を引き換え、「みんな」のいるところに連れて行き、座席に座ってもやたらときょろきょろし、あの人はどこにいるのか、あ、何とか先生だ挨拶に行こう、云々で閉口した。本当にぼくはこういうお祭り騒ぎの素人音楽自称フアンがイヤで、こういう集団から抜けたのだった。
善意のI氏には悪いけど、もう2度とイヤです。
肝心の音楽評がかけない。音楽以前が多すぎる。
情熱的な蒔田は可。音楽的にはドビュッシーを弾いた渡邊ちひろが安定した音楽性を感じさせた。


2001.7.21(日) 5:00 びわこホール

国立ブルノバレー公演
「ロメオとジュリエット」(プロコフィエフ)

バレー自体はいかにも少女好みの砂糖菓子的擬似中世風衣装等の華やかさを除き、感銘する要素はない。男性舞踏者の肉襦袢とでもいうような肉体誇示衣装に下品とはいわないが、相変わらず気恥ずかしい思いを消せない。それに大してうまくない(とは、同行Rのおことば)。ただ、休憩時間に皆ロビーにで、なんとなく湖を見晴らして過ごしているのは嘗て、かの地の劇場のEntr-Acteの新しい過ごし方風で面白かった。そして、2階バルコニー席からまともに見下ろすオーケストラボックスの光景。渋い光沢を放つ弦楽器の古い木目と金管の天国的なきらめき。一様に黒服をまとった魔法使い達がひしめき、うごめき、楽譜台の上部でオレンジ色に楽譜を照らし浮かびあがらせ、闇の深みを際立たせている不思議な、一切の地上性から離脱した架空の魔法の箱。
できることなら、このような職業に従事して中欧の忘れ去られたような都市で一生を過ごせたらという声がとおく子供のころの記憶層から立ち昇る。


2001.7.29(日) 1:30 奈良文化会館国際H

奈良フロイデ合唱団19回定期演奏会

福永吉宏 指揮 京都バッハ・ゾリステン(ラター)

暑い中を義理チケットで行った。

1)江藤直子「光と風をつれて」
最初の橿原会場曲はどうってことはない典型的な日本の合唱団好みの少女趣味合唱曲。眠たくてうんざり。ああ、合唱団なんて辞めて良かった。真面目な顔してあんな気恥ずかしい歌詞を歌うなんて、感情過多の演歌を歌うのと同じくらい見ていて照れくさいことだ。思い入れたっぷりな人工甘味料の毒。

2)林光編曲「混声合唱による日本叙情歌曲集より」
奈良会場演奏は期待していなかったので、意外と面白く聞けた。さわやかといっていい編曲と演奏。人数の割に男性が頼りないのが返って全体のバランスを良くしている。全体に幼い声質で、皮肉でなくさわやか。あ、多少の皮肉はあるが(^^; 五木の子守唄を聞いて会場の赤ん坊がむずかっていたのが笑えた。

3)ジョン・ラター「レクイエム」
ブリテンの「戦争レクイエム」を思わす低いささやきから始まったが、やがて簡素でさわやかなテーマと控えめなオーケストラがアクセントを添える「歌謡」の楽しみがやってくる。あきらかにフォーレのレクイエムを意識した響きも聞こえる。今はやりのヒーリング系クラシックというところ。深い思索や強い自己主張はなく、さわやかで色彩的な管弦楽に民謡風に親しみやすいメロディと簡素なハーモニーの合唱がすがすがしい叙情性を歌う。なかなか気持ちよく曲が展開していき、さすがの難物合唱団ではあるが、この清冽なメロディー自体の持つ歌唱性の流れを止められるワケもなく、作曲家の音楽的意図が演奏者からそのまま聴衆に伝わっていく実に素直な演奏が実現できた。こういっちゃ悪いけど、宝くじで1万円当てたように、ちょっと得したなぁという演奏会だった。


2001.9.15(土)尼崎アルカイック・ホール

尼崎市民交響楽団第16回定期演奏会

指揮:辻敏治 独奏チェロ:西村志保

楽器でも歌でもピアニッシモが一番難しい。力いっぱい張り上げることができれば音程は安定するし、音色の緊張感も持続する。逆に音楽的緊張感をいささかも損なわない豊かなピアニッシモがらくらくと演奏されると、聴衆は名人芸という無上の至福を味わえるということになる。ホルンという楽器は、ただでさえ音程を外しやすいのに、そののどかで深みのある響きを遠景として弱音で使用されることも多いのである。つくづく演奏するのに難しい楽器だと思う。演奏技術は世界水準のN響でさえ、ホルンパートの出だしがスカ!というケースもなくもない。アマチュアオーケストラの泣き所というか。 また、ピアノや弦ならば数時間の演奏を続けていくうちにますます調子が出、いわば「のる」のが普通だけど、金管楽器は確実に唇が疲労して感覚がなくなっていく。

きびきびと演奏される「フォルテ」支配の1曲目ドボルザーク・スラブ舞曲1は快調だったけど、3曲目の同じくドボルザークのチェロ協奏曲までいくと確実にホルンの疲労が進んでいき、第一楽章第二主題の回帰まで持ちこたえるのは難しかった。ホルンの難しさ。
弦楽器も演奏者の技量に多少の幅のあるのがアマチュアオーケストラなので、全員のビブラートまでが揃い高音が明瞭に立ち上がってくるというような音にはならないのは、いわば当然である。しかし、早いパッセージで多少のもたつきは感じたものの、近代オーケストラの色彩豊かな大曲を立派に演奏したのである。木管の個々の技術は充分であるようだ。特にソロオーボエの自然なビブラートは印象的だった。後はオーケストラとしてのアンサンブルの完成が課題となるようだ。

2番目に演奏されたブラームス交響曲第3番では、第1楽章がまだ多少の初期のもたつきがあったものの、第2楽章に入ると木管群の好演に助けられて突然ブラームスの北方ゲルマン的ともいうべき控えめの叙情性が立ち昇って来、そして音楽が流れ出した。第3楽章では憂鬱なメランコリーに満ちた多少皮肉な紛れも無いブラームスが形を見せた。晩秋のバーデンバーデン・クーアハオス前の公園の落ち葉を踏みながら後ろ腕を組み、むっつりと歩いているブラームスの姿。

ドボルザーク・チェロ協奏曲はオーケストラの演奏会としては異例の最後3曲目に置かれいた。やはりこの曲に向かって演奏会が進んできたという思いがある。期待に満ちてソリスト西村志保が登場する。ブルーのワンピースが初々しい。
低く、だが何の前置きも無くいきなり始まる第一主題の提示、すぐ高揚しそして回想と憧れの満ちた第2主題の提示、ボヘミアへの郷愁に少し触れて、そして転調。ざわめきが静まり、人々の目が中央に注がれ、そしてチエロが語り始める。
そよぐ風のように透明感があり、かすかにきらきら輝いているような甘味のある音色だった。初々しい奏者とその音色はさわやかに郷愁の物語を語っていったのだ。
ブラームスで好演したオーケストラだったけど、この端正でさわやかなソロに配しては少々無骨に過ぎるのかもしれない。第一楽章では多少のミエをきったチェロのタメを受け取りそこなうこともあったかもしれない。同じくブラームスでは好演した木管だったけど、第2楽章のチェロの繊細さの後ろではアンサンブルの精密さが少し破綻し、ソロとの距離のバランスが多少乱れる場面もなくもない。しかしチェロは歌いつづける。ふと美女と野獣の競演と思ってしまったり。←失礼、オーケストラ木管諸氏。
チエロと人間の声の音域の相似性はよく指摘されるところだけど、西村の演奏を聞いているとあらためてチェロは「歌う」という思いを抱く。しかしバリトンではない、何故か西村の音色は女声である。昔よく聞いたドボルザークのシュタルケルはまぎれもなく図太くうなる劇的な表現力を感じさせる男声だった。シュタルケルが演歌としてうなった第2楽章の重音のカデンツァを西村は美しい余韻を響かせてあくまで爽やかに渡っていった。ああ、そうなんだ。歌うことは憧れることだったんだ。(←意味不明(^^;))
第3楽章の主題もどちらかといえばリズムよりも歌唱性が支配し、流れるように進行していく。回想があり、情景があり、激情があり、告白がある。2重奏で愛を語るバイオリンソロを見つめる西村の目にはぞくぞくとする色気まであったりする。物語が語り終えられようとする長いドミナントの持続、ビブラートだけで保持していく音楽的緊張感、そしてこれが私の人生でした、とでもいうように満を持して上昇するトニックへの解決。それは、このチェロが見事にひとつの物語を語り終えた瞬間だった。ブラボー!

西村の音色の「甘やかな歌唱性」はアンコールのエルガー「朝の挨拶」の演奏にも明瞭に発揮され、さわやかな印象を与える。もしかしたらチェロがフランスのものであることもその要素となっているのかもしれない。いずれにしても初のコンチェルトにふさわしい初々しい好感のあふれる演奏だった。これからは野獣のようなオーケストラ(←あくまで言葉のアヤですのでぇ)を向こうに回したとしても、強引に手なずけてしまうくらいの、スケールの大きな演奏家を目指してほしい。んで、多少の尼崎風のアクがあってもいいからね。


2001.9.28(金) ザ・シンフォニーホール

ザ・シンフォニー名曲コンサートVol.50

p.ニコライ・トカレフ
小田野宏之指揮 大阪センチュリー交響楽団
1)ビゼー「カルメン組曲No.1」
2)リスト「ピアノ協奏曲No.1」
3)チャイコフスキー「ピアノ協奏曲No.1」

気分転換にと誘われて行ったコンサートだったけど、気分転換にはならなかった。
名曲コンサートの名の通り聞きなれた名曲が聞きなれた風に通り過ぎていくだけで、天才少年ピアニストというものに興味のない当方には何の興奮も与えてくれなかった演奏会だった。いつ聞いてもリストの協奏曲は退屈で大げさで安っぽい音楽だ。


2001.9.30(日) 14:00 ザ・シンフォニーホール

リトアニア室内管弦楽団&セルゲイ・ナカリャコフ

 cn. サウリュス・ソンデツキス tr: セルゲイ・ナカリャコフ

ナカリャコフは若く輝かしく金色に光るトランペットを手にして颯爽と登場する様子はスター性充分である。当然「ホラ・スタッカート」で見せる超絶技巧に会場は沸く。
しかし、感心するのはそんな聴衆のアンコールの要求に対して古い丸いポスト・ホルン?を持って来て実に静かにバッハ「アリアinG」を吹くのである。若いのになかなかの抑制力。

モーツアルト「ファゴット協奏曲」(トランペット版)の演奏も技巧よりは音色の美しさを見せたピアノのロングトーンを聞かそうとしていたようである。そういう意味で緩徐第2楽章の木管楽器のようなトランペットが聞きモノだった。

さて、弦楽オーケストラとしてはトランペット協奏曲のような色物を挟んだので、伴奏専門の地味な団体かという懸念があったが、その実これもなかなか実力のある演奏だった。旧共産圏風ともいえる完璧なテクニックと鮮明な音色。指揮者ソンデツキスは地味な弦楽合奏に最大限の表現のダイナミスムを引き出していた。モーツアルト「ディベルチメントニ長調」での早めのテンポで快活に奏される「現代性」、グリーク「組曲ホルベアの時代」やチャイコフスキー「弦楽合奏のためのセレナーデ」の完全に統率された自在な力学からくるシンフォニックな響き等、かなりの実力が感じられた。ただ、古典的な優雅さというものはない。古典よりもこのオーケストラで現代曲を聞いてみたいと思う。



2001.10.4(木)ザ・シンフォニーホール

モンゴル馬頭琴交響楽団

馬頭琴アンサンブルに琴とフルートとティンパニー、ビブラフォン等の打楽器のアンサンブル。最初に演じられたオルテンドーの女声が非常にナチュラルで直截な響きがあり、非常に魅力的だった。こぶしで響かす演歌の原型でもあるかもしれないが、鳥のさえずりを思わす規則的なこぶしで音が良く伸びていき、非常に健康な自然のイメージがある。
ホーミーは口腔共鳴音を鍛え、器楽的な音響を作り出す。音楽性から言えば打楽器的な要素でしかない。
しかしその後の演奏は惨めだった。珍しい民族音楽を期待していたのに大半は社会主義中国の大衆路線の影響が濃い、5音階系のメロディを西洋音階和声で伴奏しただけの代物だった。サービスのつもりか、日本の歌も演じてくれる。余計なお世話である。始末が悪いのは、演奏技術が大変高度で精妙なアンサンブルが実現してしまっていることだった。例の「明るく楽しい新中国民族音楽」もきらいではないのだけれど、ここまで、耳に快いという要素ばかりで演奏されると、すこしも音楽的刺激はやってこない。ヴァイオリンよりもやわらかい膠着語ともいうべき馬頭琴の音色は基本的にムードミュージック向きというところ。
あの、遠くから呼びかけられているようなオルテンドーをずっと聞いていたかったなぁ。


2001.11.4 (土)国立文楽劇場 (夜の部)

文楽公演「通し狂言 本朝廿四孝・第2部」

浄瑠璃の語りと太棹三味線の響きで一挙に江戸または上方情緒にまっしぐらに突入するつもりだったが、どうもそこまで浸りきれなかった。基本的には人形に興味がなかったし、人形の巧妙な動きを楽しむという感覚はあまりに単純で、のどかで、子供っぽくて退屈だった。たしかに演者による語りの優劣は如実にわかり、若・壮年の演技は誇張が目立ちすぎ、自然な語りと聞こえさせるには年齢もかなり必要という思いがした。劇的効果の数々を示す太棹の奏法は伴奏楽器としてオーケストラに太刀打ちしているのだけれど、もう少し情緒的な品格が欲しいところだった。いわば「鳴り物」の域を脱していない。まあ、それでいいわけなんだけど。要するに大体の奏法を見てしまえば、芝居自身の内容を楽しめなければ退屈するのである。人形使いは黒子だが、スター演者は裃を羽織り素顔をさらして演ずる。2,3名のスターは70がらみの老人である。文楽の世界では老人が支配するカタチが未だに生きているのを見て少しだけうれしかった。


2001.11.18(日) 14:00 ザ・フェニックスホール

井上智津子メゾソプラノ・リサイタル
sb:ロシアの作曲家による

alt: 井上智津子

ロシア民謡とグリンカ、チャイコフスキー等のロシア「ロマン派」による作品。井上は豊かな音量を持ったメゾであるが、本人はオペラよりも歌曲の叙情性に惹かれているといつか語っていた。今回は懐かしい雰囲気の小品のコンサート。歌の合間に少しの語りと歌詞の朗読があった。面談した時の豪放なイメージとはうって変わり可憐で少女っぽい華やぎを感じる。そういえば見事な歌唱を支えているたおやかな笑顔の表情が輝いていた。やはり歌手には華やぎが必要だ。ステージには美女。技術的にも雰囲気的にも楽しめる室内コンサートにふさわしい歌手になったと思った。


2001.11.19(月) 19:00 大阪音楽大学 ザ・カレッジ・オペラハウス

西村志保チェロリサイタル
title:20世紀・激動の響き

vc:西村志保
piano:河江優

ザ・カレッジ・オパラハウスの暖かみある室内樂的雰囲気でのステージ上の西村の演奏する姿は美しい。チェロ奏者は座って演奏するので静的であり、立ち姿のバイオリンと比べ華やかさに欠けると思っていたのだ。しかし、この若い演奏家が音を作り出そうとする一瞬一瞬の動作が連なり、豊かな音楽となっていく流れの見事さは「美しい」といってもいい。音を定める寸前の弾き出し動作が既に音楽を予測させ、無駄のない的確な動作に引出されて音楽がカタチになる、動作と音のみごとな連携を目撃するとき、われわれは生理的なレベルでの快感を感じる。西村志保はステージ上で一番かっこいい幸福な演奏家である。

フォーレ:チェロソナタ第1番 ニ短調
演奏された大曲ずくめのプログラムの中では比較的地味な曲だったが、チェロの表現力が良く示された演奏だった。特に第2楽章の美しい主題が朗々と奏でられるメリハリのある音色が圧巻だった。朗々と響く歌声が息切れすることなくそのエネルギーを保ちつづけ、そして唄いきる。消えていく音楽が残す消えることのない昂揚感。
フィナーレのピアノとの会話を重ねながら上っていくコーダはアンサンブルの精妙さを印象ずけた。快調な滑り出しである。

ドビュッシー:チェロソナタ
チェロの真にヴィルトオーゾ的演奏力を要求する大曲である。詰め込まれた奇妙な音階やリズム。カプリチオーソとでもいう、不断に交錯する雑多な感情が不安定な気分を増幅する。古典的な穏やかでふくよかな低音楽器としてのチェロではない。ここではチェロは管弦打のあらゆるオーケストラ的表現力を期待されている。西村が楽曲の要求するあらゆるテクニックに応じ、弾きこなすことに驚くのではない。その技巧が技術の突出した誇示ではなく、それが支えている音楽自体の明確さを聴き手が常に見失うことがない、という事実に驚くのだ。もし、音楽が技術の誇示の手段であったとすればそれは単なるちからワザとしか見えないのではないだろうか?ステージの西村の美しさは、必要とされるアクションが正に必然的に為されている、という予定調和が実現しつつある(←意味不明(^^;)快感のことではないだろうか。不安定な世紀の存在論的不安を表現する完璧で安定した技術。これはパラドックスであり、アイロニーである。例えばフラジオレットで奏されるかすかな2重音のように、本質的に不安定なものを支える技術という美。

リゲティ:無伴奏チェロソナタ
うわー、なんていう演奏だったのか。ドビュッシーでは確かな技術に支えられた音楽を楽しむことができた。ここでは音楽の本質が美にはないことは明らかだ。不安な弔いの鐘が響き、悲しみに満ちたユダヤ的とでもいう他はない歌が低く唄われる。気分ではなくてまるで悲しみそのもののような導入部。外の世界への不安ではなくて限りなく内に向かう存在自体への不安。そしてこの不合理な創造物への悲しみは言い知れない憤り達する。激しい怒り。発作的激情。導入部の静かな緊張が弛緩することなく嵐のような感情の暴発に達し、やがて「ユダヤの歌」に回帰し、そして終わる。
それにしても、ともう一度言うが、なんていう演奏だったのか!
チェロの独白が低く始ってから、われわれは一瞬たりともこの演奏家が聴衆に送り続ける呪術から逃れることはできなかった。言い様も無い憤りが演奏不可能と思えるくらいの強烈なエネルギーを要求するのは当然かもしれない。しかし、静かな独白が魂の内側に向かう緊張感を持続するのはもっとエネルギーが必要だ。演奏が終わったとき、この難曲を弾き終えた奏者はいち早く笑顔になったのだが、われわれは拍手への反応をしばらくは始めることができなかった。われわれは完全に演奏に呪縛されていたのだ。
緊張感と激しさ、なんていうエネルギー。なんていう演奏だったのか!

ショスタコヴィチ:チェロソナタニ短調
リゲティの作品と比較すると、ショスタコヴィチのこの作品の世界は、またドヴュッシーのようなカプリチオーソなものへと回帰する。西村自身が解説するところによると「・・豊かな叙情と鋭いアイロニーを交錯させながら生気ある音楽をつくりあげ、見事に社会主義体制を批判しているのです。」とある。最後のクダリがよくわからんが、まあ、これは音楽としてのアイロニーは社会主義リアリズムの主旨とは反する手法であるというような意味にとっておこう。また、同文章に「(ショスタコヴィチの)古典的作風は国家への屈服ではなく、もともとの傾向であったことが分ります」ともある。ショスタコヴィチこそはベートーベン・ブラームス(または意味は違うがマーラー)に連なるゲルマン的形式美の20世紀における後継者であったのかもしれない。古典的ソナタ形式の完成した形式美を大きく踏み外すことはなかった。この曲も例外ではない。
しかし、この作曲家の本質はスケルッツオ風の第二楽章の軽妙な生気や、終楽章の古典的ロンド形式へのアイロニーにあると思える。個人的には作曲者が伝統に従って古典的穏緩楽章をまじめに、というか真剣に冗談もいわせないような顔で挿入するのは大げさすぎると思っている。それこそ噴飯ものの社会主義くそリアリズムの世界である。しかし、そのまじめさを後の楽章で軽妙に茶化しているのかもしれない。ショスタコビィチの解釈は作曲者の「真面目」度をどう捉えるかで変わってくる気がする。もしかすると、「社会主義体制へのアイロニー」ではなくて、自分を含めた人間という現象そのものへのアイロニーを目論んでいたこともあるかもしれない。
西村と河江の演奏はこの作曲家が本質的に持っていたと思われる、多面性をもう一度思い出させてくれる好演だった。こういった錯綜とした解釈が成立する楽曲での演奏者同士の音楽的突合せを思うとき、ある種のミスマッチをはしなくも期待する気分もなくはなかった。しかし、細部に至るまで破綻のない見事なアンサンブルだったのだ。また完成されたアンサンブルでしか作風の基調である軽妙さは表現できない。

全体としては西村のスター性が前面にでた演奏会だったが、このショスタゴヴィチのステージはデュエットの完成度がしめされた演奏になった。両者に拍手。

最後に聴衆の拍手へ答礼をするの初々しい笑顔を見ると、いまさらのように西村の、あるい河江の若さを感じる。その若さで、今回のような意欲的なプログラムに取り組み、きわめて高い完成度の演奏をやり遂げたことに感嘆せざるを得ない。いや、もしかするとまだ若いということで、その音楽的あるいは体力的な集中力を持続できたのかもしれない。だとすると、とんでもない幸福な演奏会を目撃したことになるのかもしれないな。


2002.02.04(月) 19:00 ザ・シンフォニーホール

諏訪内晶子/ボリス・ベレゾフスキー
デュオリサイタル

vn:諏訪内晶子 pf:ボリス・ベレゾフスキー
1) ベートーベン 「クロイツェルソナタ」
2) シマノフスキー 「神話- 3つの詩曲」より「アレトゥーザの泉」
3) バルトーク 「バイオリンとピアノのためのソナタ No.1」
(アンコール・ピース)
1) バルトーク 「6つのルーマニア舞曲」
2) ラフマニノフ 「ボカリーズ」
3) ドビュッシー 「前奏曲(亜麻色の髪の乙女)」
4) ヴィニャフスキー 「スケルッツオ・タランチュラ」

華奢な体をぴったりと華奢な体に張り付いた肩腕丸出し、身体の線が如実に見えるドレスで諏訪内が登場する。華麗である。色気もある。スターというのはこうこなくっちゃ。しかし当方は例によって舞台の半分しか見えない天井桟敷である。諏訪内の前姿が見えない。ドレスの後ろの腰上には生地がなく白い肌が見えている。ビキニスタイル風である。前はどうなってるのか?果たしてお臍は見えているのか?これがなかなか確認できない。

クロイツェルソナタはどうしても好きになれない。なにかマトモ過ぎてついていけない。バッハであれば昔グレングールドがやったように斬新な新解釈というテもあろう。しかし、ベートーベンではもうどうしょうもない。真面目に演奏し真面目に表現し、真面目に鑑賞する以外にないわけだが、いかんせん長すぎる。ひとつも面白くない音楽である。諏訪内達の演奏を聞いていても別に何らの感情の波も伝わってこなかった。むしろ演奏の立ち上がり、第一楽章を開始するカデンツァ等で伸ばした音の切り方がぎこちなく感じた。音切り寸前のタメの切り替えしが強すぎたりする。曲が内包する偏執狂的な音形の繰り返し、大げさで一本調子な感情の表現。やはりぼくはこの曲が好きではない。諏訪内も実は好きではないのではないか。演奏の意図がわからないままこの長大なソナタが終わる。

シマノフスキーの「神話」になって、次第に諏訪内の表現する音のニュアンスが親しく心に共振してくる。結構うまいじゃないか、何ぞと不遜な感慨も沸き起こる。曲に対する奏者の相性というものがある。諏訪内はベートーベンを弾く奏者ではない。近代の自由で色彩的な音楽こそ彼女にはふさわしい。

バルトークのバイオリンソナタ第一番。初めて聞く作品である。しかし、今まで聞いたどのバルトークよりも強い印象を持った。豊かな音楽的宇宙を感じさせる大きな曲である。この曲を聴くと後期のバルトークは民族性を強調するあまり自由で自在な音響空間の拡がりの探求よりも、曲としての求心性やまとまりということに捕らわれてしまったのでないか、と思える。天才的感覚としか言いようの無い豊かな音響と自在なリズムが交錯する。曲が始ったとたんに諏訪内はまっすぐにぼく達をこの無限の変化に富んだ宇宙の中心に導き込んだ。魂の振るえるような繊細なピアニシモのトリル、鋭い切り込むような弓の擦弦音、豊かに伸びあがるフォルテ。音楽と演奏が少しの曖昧さも無く重なる圧倒的な充実感。ピアノのベレゾフスキーも、時として打楽器的なリズムの切り立つような激しさも含んだ音響を実に明確に立ち上がらせていた。
そして、第二楽章。バイオリンの息の長いモノローグが始る。辺りを征する静寂の中にすっと張り伸ばされた一本の糸のような緊張感、そして静かな昂揚。見事な演奏だった。最後まで緊張感はたるむことなく持続し、ただ音楽だけがそこにあった。諏訪内は自分の全感性でバルトークの魂と対峙し深い納得を聞くものに与えた。すっかり「出来上がって」しまった演奏者と聴衆はそのまま、後期バルトークを予感させる民族舞曲のリズムが支配する第三楽章に流れ込んでいき、この勢いがコーダに上り詰め、ホールに照射され、投げ出されたエネルギーが反転しブラボーコールを引き出す。見事である。これが演奏会というものだ。

熱狂する聴衆、しかし、こちらはふてぶてしいくらいに落ち着いた諏訪内とベレゾフスキー。退場する途上で二人でなにやら喋りながら歩いて行くのである。そこまでふてぶてしいと、くそ!、スターづらしゃがって。もっとうれしそうに顔をくしゃくしゃにして拍手に答えろよ!と、花形スポーツ選手のような見事な大男と華奢で華やかな映画スターのような美女に下々の者達は置いてきぼりにされたような感覚を抱き少しひがむのである。が、しかし、驚くべきことにこのあと実に4曲のアンコールをこのカップルはサービスしてしまうのだ。本番が3曲、アンコールが4曲。大曲・難曲ばかりであった本番の口直しのように、バイオリンの流麗な歌に満ちたアンコールピースを披露する。曲が終わり、熱狂する聴衆にまた答礼にたち現れ、次に現れたかと思うとホールに津波のような異常などよめきが走る。もう一曲のアンコール!
諏訪内晶子は登場するだけで場内が湧くまぎれもないスターである。あっと、レオタードのように体に密着していたピンクのドレスの前側は、やはり臍出しではなかったのではあるが。


2002.03.02(土)3:00pm ザ・シンフォニーホール

小林研一郎 炎のチャイコフスキー!

vn:アナスタシア・チェポタリョーワ
小林研一郎指揮 大阪フイルハーモニー交響楽団
1) チャイコフスキー「バイオリン協奏曲」
2) チャイコフスキー「交響曲第5番」

ステージ後方席・補助席・立ち見の時ならぬ人いきれ。なんだいこれは?というほどの満席状態。小林のポピュラリティか、逝去した朝比奈隆の追悼人気か。 プログラムはチャイコフスキーの定番名曲2曲。 バイオリンのチェポタリョーワは達者には弾くがそれほどの目立った特徴はない。第一楽章のカデンツアでフラジオレットの音程に難があったものの、それ以降は崩れず最後まで無難にこなす。しかし、どこか淡白で食い足りない印象が残る。このような定番名曲は演歌歌手顔負けのこぶしを利かせ、思い入れたっぷりにがしがしと弾いて欲しい。小林の指揮もどことなく控えめで、どこが「炎のチャイコフスキー」だ、と憎まれ口をたたいたのである。

しかし休憩の後、交響曲第5番が始まりしばらく聞き込むと身を乗り出したまま身動きを忘れてしまった。小林が本気になっている。このガキのときから何度も繰り返し聞き知った通俗名曲の細部が思いもかけない新鮮なエネルギーを照射してくる。技術的に分析すれば、テンポとダイナミズムの戦略的で自在なコントロールということになるのか。なかなか色彩に富んだチャイコフスキーの管弦樂法を素材に小林が音に陰影を与えていく。一つの楽節が次のテーマを準備するときの「タメ」に独特の甘い粘りが生じ、豊かな物語を作り出す。大フィルも実に見事なメリハリのある音響を保っている。これは、聞き飽きた通俗名曲のチャイコフスキーではない。小林を重心として不思議なエネルギーがホールを支配し、かつて聞いたこともない新鮮な音響が時間と空間を満たしている。音楽で自足し、それだけで完結している空間。迫ってくる万華鏡の形のような感覚の流れで満ちる時間。指揮者と奏者と聴衆が同じ昂揚を共有していると確信させるだけの場の緊張感がある。こまかい指揮の技術の話ではないのかもしれない。
作曲者がffff(フォルテシシモ)と記載している最後のマエストーソを小林は一切動かず、両手を天に向かって伸ばしたまま音楽を流れるに任せた。それでいい。音楽そのものをして語らしめよ。もはや何らの指示も必要ではなかった。音楽が自分自身のエネルギーですべての奏者を捕らえ、何らの曖昧さもなく到達すべき地点に導いている。完璧に流れている音楽には全てを純化してしまう絶対的なエネルギーがある。小林の感応力がこの魔力を呼び出したのである。名演である。ぼくは不覚にも感動した。

各楽章が終わるごとに小林はオーケストラに向かって「ありがとうございました」というように、それとなく頭を下げている。演奏が終わり、高揚した熱気と賞賛を物言わぬオーケストラのメンバーに分配してまわっている小林のホストぶりも実に自然だった。普段は目に見えない一人一人の心の中まで明瞭に感知し、与えようとしている賞賛を受けるべき人に配っているという過不足のない気持ちの良い答礼である。小林が拍手を中断させて言ったように「故朝比奈隆がどこかで見ていて力を貸して」いたのかどうかは判らないが、演奏や指揮技術ではない、何か別の精神的あるいは心理的な大きなエネルギー源がこの演奏には確かにあったのだ。


2002.03.16(土)2:00pm ザ・シンフォニーホール

ザ・シンフォニー名曲コンサートVol.54

vn:ジャン=ジャック・カントロフ
飯森範親指揮 大阪センチュリー交響楽団
1) ビゼー「ファランドール」
2) サン=サーンス「序奏とロンドカプリッチョーソ」
3) ラヴェル「チガーヌ」
4) サラサーテ「カルメン幻想曲」
5) サン=サーンス「交響曲第3番オルガン付」

コローの「少年鼓手」を思わせる肩つり太鼓を女性の鼓手が立奏するファランドールで華々しく幕が開いた。飯森は若々しいエネルギッシュな動きを見せ、このような華やかなオーケストラ曲をダイナミックに指揮するカタチが似合ってるなと思わせる。

ヴァイオリニストJ.J.カントロフ登場。
サンサース「序奏とロンドカプリッチョーソ」の弾き始めの語り口がいかにも思わせぶりに聞こえたので何故かニヤリとする。自在で確かな技術を持つ奏者が肩の力を抜いてオーケストラとの競演を楽しんでいるような余裕がある。充分なこぶしを利かせてギシギシ弾きこなしていく。
いいなあ。こういう自分の「節(フシ)」を持ってる人の演奏がぼくは好きなんだなあ。もちろん、たやすい曲ではない。あまり調子に乗りすぎてフラジオレットを一本ミスしたりするが、このような演奏にとっては演奏ミスは演奏の本質には殆ど何らの影響も与えない。かえって落としたフラジオレットの後半にすいっとピッチを放り返した手並みにほれぼれしたりするくらいだ。実際にラベルの「チガーヌ」、サラサーテといわゆるアクの強いジプシー系のヴァイオリン曲が選ばれていて、カントロフの歌い回しに堪能した。ここではオーケストラもよく張り合って競演していた。

後半にサン=サンーンスの「オルガン付き」があり、そういえばと、あらためてザ・シンフォニーホールの舞台正面に控えている、銀色のトランペット管がコンソールの上に放射状に突き出しているオルガンを見る。ダイナミックな飯森の指揮や、好演しているオーケストラでサンサーンスの「オルガン付き」が聞けるというのはなかなかの期待が盛り上がった。
ところがどういうわけか、第一楽章よりオーケストラの管・弦のバランスが悪くどうも調子にのらない。なにか音楽の流れが有機的な意味をもって伝わってこないもどかしさを感じてしまう。とりわけ第二楽章のオルガンが入り、ゆったりとした弦が天上の官能を歌う部分がどうしても生理的な快感を感じさせないのだ。本来ならオルガンの極低音にすべての感覚をマヒさせられて、ボードレールのいうPardis artificiels (人工の楽園)風の怪しげな快感が永遠に持続するハズなんだけどなぁ。オルガンのストップの選択の誤りかもしれない。
飯森の解釈にもうひとつ納得できないまま、フィナーレのオルガンが鳴り響く。
さすがにここでは華やかで膨大な音響が響き渡る。華やかで祝祭的で特権的な音楽。今ではもう実現できない19世紀の贅沢である。この部分での飯森の演奏は力演で申し分ないのだが、前半の割り切れない気分が盛り上がりを音量だけのものに聞かせてしまう。ボードレール云々は今思いついた句だけど、なにかそのようなたゆとうような、ちよっとアブない意識のとぎれがあって初めてフィナーレのエネルギーが爆発する曲である。私としては第二楽章に官能的な艶が聞けなかったので最後まで何か食い足りない気分が残ってしまったという体であった。

今思い出したが、「オルガン付き」というあだ名で、麗々しく正面上にオルガンのコンソールが浮かび上がり、心理的視覚的にオルガンに期待するところが非常に大きいのに、実際にはオルガンは通奏低音を受け持っている地味な部分が多く、実際の演奏ではそんなにハデではない。そんな心理的な落胆も多少は演奏の印象に投影してしまうだろう。
この曲ではオルガンのコンソールは舞台上に移し、ピアノの横に置いた方がいい。


2002.03.30(土)6:00pm ザ・シンフォニーホール

樫本大進ヴァイオリンリサイタル

vn:樫本大進
pn:イタマール・ゴラン
1) モーツアルト ヴァイオリン・ソナタ 第36番 k.380
2) プロコフィエフ: ヴァイオリン・ソナタ 第1番
3) プーランク:ヴァイオリン・ソナタ FP.119
4) サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン

端正な演奏をするヴァイオリニストである。モーツアルトではそれ以上付け加えることがない。先ずは腕ならしというところか。

プロコフィエフの作品は雄大な構想を持つ大曲で、この曲を樫本は実に充実した響きで弾き終えた。音色の美しさに加え、決して感情過多にならない音楽性。特に激しいリズムを持つ第2楽章でも演奏スタイルが乱れることはなく、全体として気品というものを感じさせる演奏であった。

プーランクでもこの端正な印象は変ることはない。技巧の誇示に走ることのないしっかりとした音楽性が支配した、実に安定した演奏である。例えば長音を響かせるビブラートが実に自然で快いし、フォルテシモでも決してがしがしと棹が鳴ることがない。そういう端正な抑制が音楽に自然な気品を与えている。この演奏者の若さを考えると、紛れもない大人の音楽になっているのが不思議な気がする。

アンコールにクライスラー名品3点セットが演奏された。クライスラーは通俗的な親しみやすさの中にもどこか抑制された品格があり、このヴァイオリニストがアンコールピースとして選んだことは実に納得のいく選曲だった。


2002.04.10(水)7:00pm フェステイバルホール

第44回大阪国際フェスティバル2002 ガラ・プルミェール
ドレスデン歌劇場管弦楽団

cond:ジェイムズ・コンロン
1) リヒャルト・シュトラウス 「バラの騎士」演奏会用組曲
2) マーラー 交響曲第1番「巨人」
(アンコール)
ワーグナー 「リェンチ」序曲

記念すべき春の大阪国際フェスティバルの初日である。
最初にこの春のイベントを聞きにいったのは確か第7回だったと思う。パリ国立管弦楽団を率いてきたアンドレ・クリュイタンスの楽屋に行ってサインをもらった記憶がある。しかし、この良く分からんガキは、この巨匠に国際フェスティバル通しのプログラムの別のオーケストラのページを示し、ここにサインしてくれと頼んだのだ。うむ。遠い昔の話だなぁ。
この催しもよく続いてきたものだとおもう。そして例のワケの分からぬガキであった当方はといえば37年後の今回、遂にフェスティバルホールにおける最高座席にまで昇りつめているのだ。感無量である。
とにかく高い。といっても値段の話ではない。2階最後Q列28番、斜めになった舞台が一目で見渡せ、天井がすぐ頭上にあり後ろにはもうカベしかない。しかし、ザ・シンフォーニーホールのステージの大部分が見えない天井桟敷とは違い、アリ地獄状にそそり立った2階席最後列からは舞台はすべて見渡せ、ステージ前面下のオーケストラボックスの中まで覗けてしまうのだ。まあ、楽員の姿がアリ状に見えるのは致し方がないことではあるが。
その通常の席では見えないオーケストラボックス内の裏方さんの動きがかしましいと思っっていたら、やがてステージ面までせり出して来、いつのまにかひな祭りの雛飾りのような雅楽の管弦が座している。右手からは白のユニフォーム・ジャケットをきたファンファーレ隊が入場してくる。今年の大阪国際フェステイバルの開幕である。
団伊久磨の大阪国際フェスティバルのためのファンファーレ。トランペットの音程が決まらなくてサエない。雅楽の管弦が越天樂を奏する。萌葱色の衣装と高雅な管弦の落ち着いた木質の色彩が視覚的にも祝祭を寿いでいる感じである。でもまあ、ドレスデン管弦楽団の前座とすれば何かちぐはぐな気もする。

華やかなドイツ後期ロマン派の大オーケストラである。左手にハープが2台並ぶ。ティンパニーも二組ある。R.シュトラウス「ばらの騎士」が威勢良くはじまる。しかし、音響は最悪だった。せっかくのナマの楽器の自然な倍音がまるで感じられない。左手からモノラルスピーカーの増幅音が流されているような気がする。ホールの一番奥にいる我々のところにはさまざまな場所で反響し、反転した音の抜け殻どもが大量に押し寄せてきてナマの本物をどこかに駆逐してしまっているようだ。なんともヌケが悪いこもった音響で、やたらと管楽器の音だけが耳につきささってくる。困った。これならCDを聞いていたほうがはるかにトクだよな、と考えてしまう。音響がこれでは演奏自体にも納得のいく思いには至らない。だからコンサートでチケットをケチってはだめなんだよ、というような声を暗澹として聞く。

しかし不思議は偏在する。後半のマーラーが始ると、突然のように音響が蘇ったのだ。まさか本当にホールのサイドスピーカーをオフにしたというわけでもなかろうけど、急にステージからの音が直接ホール最深部まで達して来だしたのだ。
マーラーの「巨人」は深い夜・または森を暗示する弦の超高音の最弱奏で始る。異様な響きが聞こえてくる。楽音よりも弦と弓が引き起こす擦弦音のホワイトノイズが勝っている。なんていうリアルな響きだろうか。もしかすると最強音でいきなり始ったR.シュトラウスの負けで、最弱音で開始し、序々に序々に夜が明けていくように音を加えていくマーラーの勝ちということかもしれない。我々の耳がそのようなやりかたで次第に彩色を加えていく音響に連れ込まれ、引きずり込まれていく。コンロンはトランペットの弱奏のファンファーレを舞台裏で吹かせる演出をする。(実際に作曲者が指定しているのか?)それはプログラム前半ではまるでモノラル録音のように平板であった音場からは信じられないくらい広いステレオフォニックな聴覚を生む。もっとも、直ぐ後で舞台裏から抜き足差し足で演奏中のステージに帰ってくる3人のトランペット奏者の足音までリアルに聞かせてしまうという副作用もあるのだけど。
しかし、われわれは既に完全にマーラーという稀代のオーケストラ使いの術中に捕えられてしまっている。実をいうとマーラーの交響曲ではこの「巨人」がなんだか一番つまらない曲だと思っていた。私に言わせれば、青春への回帰の念がむせかえるようにつまっている第4番が最高峰ですね。しかし、マーラーはそのあたりから歌伴カラオケ趣味に走るので純粋な器楽作品としてはこの第1番が一番まとまっているといえるのかもしれないが。とにかく「巨人」は音楽的には単純なシカケの交響曲である。次第にあけていく森の中にしきりに聞こえるカッコーの声や輝かしい未来へのファンファーレが聞こえる第一楽章にもうすべてのライトモティーフが示されていて、最後の闘争と勝利の劇にまで展開していく。時として耳につく音階の直截的な引用はいかにも若書きの性急さを感じさせるが、それを若さの魅力として演奏することができないわけではない。少なくともこのコンロンという指揮者は実に面白く「巨人」を聞かせてくれたと思う。

舞台裏で演奏するファンファーレは極端なケースだが、先ほどのR.シュトラウスとは逆に、CDよりもステージで聞くから楽しいという曲だということが良く分かった。言ってみればこれはマーラーが実際に指揮者として接しているオーケストラというものの多彩さを際立たせるために作曲したようなフシが伺える。R.コルサコフの「イタリア奇想曲」やバルトークの「オーケストラの為の協奏曲」のように、管弦打のソロや合奏のあらゆる局面の技巧を盛り込んである。例えばフィナーレの二組のティンパニーが掛相でリズムをたたき出す部分はCDでは伺えなかった効果だった。いってみればマーラーの他の交響曲よりも「純器楽的に」面白い造りであるといえるだろう。細部の音響の細工、オモチャ箱の中にように混じり込むライトモティーフ達、それらの楽しさと意味がくっきりと伝わってくる演奏だった。だからこそ最後の、あの若くなければテレくさくてかけない大げさなフィナーレの盛り上がりに気おくれすることなく納得して乗っけられてしまったと思う。つまり興奮させてくれる演奏だったのだ。よし、もし誰も声をかけなければ、やんやのブラボーコールを久しぶりにやってやってもいいぞ。

アンコールとしては大曲のワグナーの「リェンチ」序曲。正にこれなんかは十八番というような曲なんだろうな。祝祭的で華やかな歌劇場オーケストラのもちネタ。演奏者と聴衆との真剣勝負が終わり相手の実力を充分見極められた後でやってくる、音楽自体が持つ表現力に安心して演奏者も聴衆も乗りかかっていくだけの充実した至福の時間。やはりナマのコンサートはいいなぁ。


2002.04.13(土)5:30pm 京都劇場

劇団四季ミュージカル「オペラ座の怪人」

演出:ハロルド・プリンス 演出協力:浅利慶太
美術:マリア・ビョルソン 他

衣装や舞台装置、その他シカケ類は見世物風に楽しめたのだけど、肝心の歌とセリフ、演技がいかにも中途半端。
先ず、マイク増幅・事前録音カラオケ方式では、どんなに歌唱が良かったとしても多分音楽的には本当の感動に至ることはない。しかし、歌唱自体もどうも中途半端な思いが残る。特に男性の発声が荒っぽいし、音程もあやしい。時として、共鳴させやすい下の音域で発声してからずり上げて音程にハメる演歌風の発声が混じり、単に声を張り上げるだけの訓練しかしていないような俳優(歌手?)が多いのではないか。声だけで感動するほどの「美声」ではなかったのだ。歌は二の次のような気がしてしまう。ぼくは厳しすぎるかもしれないが、拡声器を通した歌なんてのは聴きたくはない。
日本語とメロディの関係が中途半端。ひところ第九やオペラを日本語で上演する動きもあったが、当然それは作曲者の意図する効果のかなりな部分を損ねてしまう。交響曲やオペラは音楽性こそが何よりも尊重されなければならない。スジが判ればいいというものではない。だから、翻訳で上演するなんてことはもう誰も言わない。しかし、戯曲は違う。シェークスピアやチェーホフは日本語に翻訳されて上演されてきた。明らかに原作者の意図ではない音響になる。ドラマとしての本質は筋や演技であって、セリフの韻やレトリックではないということなんだろう。でも、ビクトリア朝英語の美辞麗句を朗読するリズムの快さがシェークスピア劇の面白さのかなりな部分を占めているとぼくは思う。30年位前にBBCが製作してNHKが2ヶ月に一度くらいの割で放映していた「シェークスピア劇場」の役者達の英語の響きは未に記憶している。意味は判らないがセリフの訳は画面に出る。役者達のセリフの発声が非常に耳に快かった。そのイントネーションが劇的な効果を盛り上げたりしていく。ぼくは「シェークスピア劇場」を見るのを楽しみにしていた。
ミュージカルはここでも中途半端な代物だ。ドラマとしては日本語でもいいのかもしれないが、音楽とこの日本語はぜんぜん合っていない。それにベルカント唱法まがいで歌われる日本語は非常に聞き取りにくくなる。日本語の発声は系統が違うのだ。最後まで音楽も日本語もどちらにも中途半端という印象が消えなかった。
そしてこの音楽自体と物語が中途半端である。徹底的にロマンチックというわけでもなく、繊細な心理劇でも深遠な寓意があるわけでもなく、幻想文学というにはあまりにうるさく、ホラーとしても一向に怖くもなく。で、この「オペラ座の怪人」という魔的な人物自体が徹底的に悪魔的でもなく、最後に中途半端に改心して舞台を終えてしまうのだ。

最初に言ったように視覚的には退屈はしなかったんだけど、映画ではないせっかくの舞台だというのに感情移入もできず、高揚することもなく終わってしまう。映画化されたミュージカルものは比較的よく見てきた。私はそんなに堅物ではなく、ばかばかしいとは思っても、たわいもないストーリーにたわいなくもじとじと泣いてしまうヒトなのである。しかしこの舞台、本当は、というか本物はもっと面白いものじゃなかったの?と意地悪く訊いて見たくなってしまうのだ。永く大人の男をやっているぼくがいうのだが、少なくともこのような中途半端な見世物に心を奪われるのは高校生より下だけじゃないの?
この燃焼し切れない思いは逆転し、なんとかして本物のミュージカルを見たいという欲求を引き出してきてしまう。音楽と劇と歌唱力と演技力が過不足なく総合されたら、素晴らしい昂揚にまで絶対に行くはずなんだ。厳しい言い方かもしれないが、この日本のミュージカルは単なるコピーの域を出ていないと断ずる。ロンドンやニューヨークで受けても、それがそのまま日本で受け入れられとは限らない。どうも何かしら納得がいかない。欲求不満が募るばかりである。


2002.04.23(火)7:00pm ザ・シンフォニーホール

ディミトラ・テオドッシュウ オペラアリア・コンサート

Sp:ディミトラ・テオドッシュウ
迫昭嘉指揮 大阪センチュリー交響楽団
ヴェルディ:「運命の力 序曲」
   「トルヴァトーレ 恋はバラ色の翼に乗って」
   「ドンカルロ 世の空しさを知る神よ」
   「椿姫 第一幕への前奏曲」
   「椿姫 ああ、そはかの人か〜花から花へ」
プッチーニ:「マノンレスコー 間奏曲」
   「ラ・ボエーム 私の名はミミ」
   「トゥーランドット 氷のような姫君の心も」
ロッシーニ:「泥棒かささぎ 序曲」
ベッリーニ:「ノルマ 清らかな女神よ」
ドニゼッティ:「アンナ・ボレーナ なつかしの故郷の城に連れて行って」

(アンコール)
ヴェルディ:「椿姫 さらば、過ぎし日よ」
プッチーニ:「トスカ 歌に生き恋に生き」

いつものコンサートの観客層とは明らかにちがうノリの人も多い。
信号のところでホールへの道を訊ねている人、エレベーター内でチケットを見せ何階で降りればいいのか訊いている人。コンサートの常連ではなくてオペラ筋?の人達かな? ホール内ではかぶりつきでステージに身を乗り出して拍手する人、すげー「ブラーボ」を叫ぶ人、これは「ブラーバ」とやって欲しかったなぁ。クラシック音楽の演奏会では珍しく、歌手が歌い終わったら曲の後奏がまだ続いているのに拍手がすぐかぶさってくることあった。ジャズなんかでは当たり前だけど、クラシックでは珍しい。
ずっと以前、アイザック・スターンのベートーベンのコンチェルトのライブをラジオで聞いたときのことを思い出す。大変な名演で、第1楽章の最後のカデンッツアで気分が昂揚していきコーダに盛り上がって終わったとき、ラジオで聴いていたぼくは拍手をした。しかし会場では楽章間の中途半端な静寂に引き返している。ここで突然、誰か一人だけ拍手しだしたのだ。つられて数人が連鎖拍手をしたがすぐ静まって、どこかしら冷ややかな笑いがそこかしこから聞こえてくる。そのときぼくはただ一人拍手を始めた人と完全に同じ思いを共有したと感じた。拍手にはあの名演にどうしても反応してしまう心理が読み取れた。「間違えて」拍手したのではない。ただ一人でもあの昂揚に満ちた演奏に応えるために決然として拍手を始めたのだ。
このテオドッシュウの歌唱には、歌い終わってから後奏が終わるのを静かに待つのは偽善だ、というような熱気を与えているのは確かだ。コンサート形式ではないオペラでは曲演奏中の拍手は当然のことだとしても。
若いがそれなりの体格をしたギリシャ出身のテオドッシュウは前評判に違わず、見事なアリアの歌い手だ。最初の一曲から天井桟敷のブラボーおじさんがうるさい。ヘルスセンターの何とか一座の熱演に湧き、声かけておひねりを飛ばすノリを思い出したりする。オペラのプリマだもんなぁ。それでなくっちゃなぁ。でもまあ、美空ひばりさんや森進一さん(ちょっとフル〜い?)にテープを飛ばして熱狂するのとおんなじレベルでオペラの歌姫に湧く。これは外国産文化の全く健全な同化、大衆化だよね。元来のオペラってそーゆーノリだったと思う。とにかくオペラモノではうわ〜っていう拍手がないとね。
豊かな声量と明るく澄んだ声にくすんだ光沢をかける安定したビブラート。特にフォルテで発声してすーっと引いて行っても、そのままの張り詰めたエネルギーを保っているピアニッシモがいい。身震いするとまでは書けないけど、ずーっと安定して響きを支えているビブラートの波に身を任せていられるのは生理的快感である。あ、そうなんだ。イタリアオペラってのは生理的快感を第一義とした芸なんだ。
オペラ歌手としてのこの人の声は立派なものだけど、ただ少し地味で真面目すぎるような気がする。マリア・カラスみたいなカリスマとなるにはもっと浮名を流すとか、奇行に走るとかしなくっちゃ。才能だけではプリマドンナにはなれないもんだよ。

これはコンサートとは関係ないが、「椿姫」のアリア「ああ、そはかの人か」は、子供の頃「ソハカの人」ってどんな人?って思ってた。「ウサギ美味し蚊の山」の類だったなぁ。これはやっぱり「嗚呼、其は彼の人か」と漢字で書いてもらわないと。え?漢字で書いても意味分からん?


2002.05.26(日)2:00pm ザ・シンフォニーホール

ウィーン少年合唱団演奏会



最初に言っておく。私の趣味ではない。「天使の歌声」といわれても、かつては「地獄のベース」と呼ばれていた私には何の関係も無い世界のことだ。たまたま来てしまった。そしたらやっぱり場違いだった。評価しない演奏会評なんか書くなよ、と浜松の深沢氏から文句を言われそうだが、そーゆーわけにはいかない。商業主義に毒される以前のオリンピックのように、まあ、実際はくだらないアマチュアイズムには当方は何の意義も認めてないんだけど、とにかく書くことに意義がある、なんてね。この演奏会評も単なる日記の覚書だったが、HPにコーナーを設けてからは「書く」材料のひとつになった。書くには材料と、例えバーチュアルなものだとしても読者が必要だ。個人の単なる覚書ではとても文章に纏めて、少しはメリハリを出して、というような色気はでてこない。それに、まあ、読書評も同じだけど、とにかく書くという習慣を持っているということは、特徴を考えたり印象を纏めたりというような評論家的な視点を常に持っているということだ。感受性がどうのとか、文章のスタイルが云々とかは全く関係なく、人は自分が詩人であると決めた時に詩人になるのであり、評論すると決めた時に評論家になるのだ。もっとも、それを他人が認めるかどうかはまったく関係が無いのは無論のことである。だから、ウィーン少年合唱団に「天使の歌声」を聞きたいと思った人には天使の歌声は聞こえたのだろう。確かにボーイソプラノのソロが終わるたびにどこかで「ブラボー」の声が聞こえた。帰りのホールロビーの雑踏で「よかったねぇ」という中年婦人のグループの声も聞こえ、特設CD売り場には人だかりがしていた。当方としては何か「東京杉並児童合唱団」の方が元気があってうまいような気がするのだが、世界最高のウィーン少年合唱団が聞こえた人は、それでずいぶん興奮もするのだろう。元来あのような少年合唱は教会の祭壇陰で密やかに聞こえてくるモノで、あんな風にステージでライトを浴び、あまつさえの興行用ミュージカルなんかも学校サボって稽古したりするものでもなかろう。ウィーン少年合唱団という名前に集客力が在る限りコンサートは開かれ客は来る。かくしてウィーン少年合唱団というグループが多いときには4つくらい世界で同時に公演している、ということになる。で、これは一体どこのウィーン少年合唱団だったのかなぁ。も一度いうが、合唱能力としては「東京杉並児童合唱団」の上をいくというものではない。音楽的には、嘗ての「地獄のベース」にとって何らの劇的表現力もない腑抜けた子供のコーラスと聞こえる。ただ、これだけは流石といっておくが、シュトラウスのトリッチ・トラッチポルカだけは良かった。そこで音楽から初めてウィーンの光景がふと仄見えたりもした。けれども後は何も見えなかった。彼らにとっては気の毒な評かもしれない。でもぼくは、彼らがウィーンの小さな教会の祭壇の陰でオルガンの音の上にほのかな素人くさい暖かさのある少年の声で賛美歌を歌っている光景に同席したのだったら全く違う評を書いたと思う。要するにこのような集団は音楽として自立しているのではない。このような音楽はふさわしい場に収まっていてこそ音楽として完成するのである。熱狂的なフアンとステージの天使たちという構図はそれなりに完結しているのかもしれないが、それはすでに音楽とは別の話である。


2002.6.2(日)6:00pm ザ・シンフォニーホール

ヨーヨー・マ&ヴァディム・サハロフ デュオ・リサイタルin Osaka

Vcn: ヨーヨー・マ
Pf: ヴァディム・サハロフ

ベートーベン:
チェロ・ソナタNo.2、No.5、No.3「魔笛」の主題による12の変奏曲
(アンコール)「魔笛」の主題による7つの変奏曲

なんたってヨーヨー・マ。冬のレイクシティ・オリンピックの開会式で晴れがましくも氷上に登場し、大喝采をうけてたもんなぁ。これがスターウォーズ/スーパーマンのジョン・ウイリアムズあたりならいかにもアメリカ的祝祭を盛り上げるのにふさわしいと思うが、なんせマは、まあ、タマにはタンゴも弾くが、クラシックのチェリストだよ。コンサートでもない場所に、出てきただけで皆が喜んで喝采するクラシック音楽の演奏家が他に考えられるかい?他にもチェロのビッグネームは居る。ロストロポービッチだとか、マイスキーだとか。しかしヨーヨー・マのポピュラリティは明らかに質が違う。スーパースターというより、「人気者」ですね、これは。今回の来日もサッカーのワールドカップ開催のイベントでもあるらしい。正に国際的イベント屋の最終兵器のような馬友友くん。ちなみに、前夜ロンドンで行われたエリザベス女王即位50周年記念祝宴のゲスト音楽家はキリ・テ・カナワとロストロポービッチだったりする。
断っておくが、私は別にビッグネーム趣味ではない。まあ、一昨年アバドを聞きに行って買って来たベルリンフィルロゴ入りキャップを愛用しているが、別に見せびらかしてるワケではなくて、単なる弱点隠しの陽動作戦という実用的理由からである。 その私にして、ステージに気配が走りいよいよ登場という瞬間は、ちょっとカタズを飲む風にかたまってしまったりして(^^;
最初に長身のピアニスト、ヴァディム・サハロフが姿を見せる。黒の礼服ではない。そういや、最近あまり燕尾服姿の演奏家を見かけない。まあ、観客の方も私のようにジーンズにズック靴、キャップ着用風のが増えている。でも、平土間前列にはちゃんと正装したドレス姿の女性もいる。服装はそれぞれがふさわしいと思ったものでいいのだ。で、このサハロフさんは黒トックリにちょっと光沢のあるジャケット。いかにも芸術家標準服のような着こなしだった。そして、いよいよ世界の「スーパースター」ヨーヨー・マが登場。 おい?ドブネズミ色の上下に白カッター、同じく黒めのネクタイに短く刈ったポマード頭丸メガネ。これって、もしチェロを持って無かったら、まるっきりそこらの標準サラリーマンじゃん?標準サラリーマンっていうけど、今どき大手企業の社員だったらカラーシャツくらいにはなってるぞ。ともあれ、マのベビーフェースのにこやかなあの笑顔。少しの威圧も邪気も孤高もない、気さくな笑顔である。うん、この人は悪いひとじゃない。チェロで食えなくなったら是非わが社の営業マンになって欲しい。
というわけで、登場していきなり聴衆の心をつかみ和ませしまう。これが万人に好感を抱かせる世界のヨーヨー・マの秘密だったのだ。

ところで、このプログラム、一体誰が決めたのか?オールベートベンだって?本気かね。誰だって、スーパースターの妙技に大喝采、やんやのブラヴォーコールの嵐で盛り上がりたいんだよ。サッカーのワールドカップの景気付だろ?ハデに発散しましょうよ、ハデに!何なら、私がフリーガンやってもいいんだぜ?と思うのだが、どうやったらベートーベンのチェロソナタ集で騒げるんじゃ!少なくとも曲の最後でブラヴォーを掛けるタイミングにはならない。まあ、第3番イ長調なら可能だろう。しかしその面ではおとなしい聴衆だったなぁ。むふふ。←伏線の含み笑い。

前半は2番、5番とソナタを聞く。曲から言えばこれはチェロ伴奏付きのピアノソナタに他ならない。「魔笛」による12の変奏曲も同じイメージだ。アンコールで演奏された有名な方じゃなくて、パパゲーノの最初のアリアの方のヤツね。これって注意して聞いていると、例えばすべての変奏でテーマを出すのは必ずピアノなんですね。で、チェロはオブリガート風に伴奏するだけ。うむ。世界のスーパースターが禁欲的この上なくピアノの伴奏に徹している。この場合、実際の禁欲を余儀なくさせられているのは聴衆で、実はマ自身はしごく楽しそうに伴奏をあい勤めているという感じである。
まったくこの人の演奏する姿はくったいがなくのびのびとしていて、なんというかけれん味がない。実際にはかなり大きなボディアクションがあり、特に音をぐーっと引っ張っていく時なんか、上体がイスの背をテコにしてぐっと反り返り目をつむり断末魔の姿勢にもなる。ただし、表情は笑っている。この笑顔。これが実にクセものなんですね。もし、目をつむり口をへの字形にした深刻な表情で感に耐えたような断末魔の痙攣をされたとすると、どうも聴衆としては、むむ、深遠なクラシックの真髄がここにあるわいと、やたら哲学的な感想を強要されるような気がし、遂についていけなくなるとその大げさな感情表現が逆にやたらと滑稽にもなる。高級そうなクラシックの音楽会で不謹慎とは思うものの、他人の葬式で深刻そうな顔をしつづけなければならないが噴出し寸前状態の笑いを背負った苦行にもなったりする。けれど、このチェリストの表情は実に気持ちよく音楽を媒介しているのである。ピアノのパートに大きく身を乗り出して目をつむって聞き入るときの表情が実に自然でイヤミがない。全身で気持ちよく音楽のシャワーを浴びているといったヨーヨー・マの表情からくるオーラに照射されたぼく達善男善女は、いつしか「音楽さえあれば幸せ」のトランス状態に移行していくのである。というような怪しげな感想を書きなぐっているのは、実は私は音楽そのもののことを書き渋っているのである。分る?

チェロソナタ第2番はピアノソナタ作品28ニ長調の田園と相通じる田舎風リズムや、大公トリオのシンコペーションの試みのような若いベートベンのリズムの時代の躍動があり、第五番では大きな物語のうねりが聞こえる。しかし、このような演奏会で聞くとどうしてもピアノで語っているという印象がぬぐえない。少なくともチェロとピアノは対等ではない。ヨーヨー・マを見に来た我々にとっては、いかにピアノが雄弁であったとしても何かしらの感覚的齟齬がある。音楽そのものに触ろうとしても上っ面しか見ていない。結局ぼくも音楽を聴きに来たのではなく、ヨーヨー・マを見に来たというワケだ。
最後にくるチェロソナタ第3番イ長調で初めてこちらの一方的なバランス感覚が平衡し、音楽に入っていく。これは明らかにチェロが語る音楽だ。ピアノよ、しばらく黙っておいてくれ、チェロから先ず語り始めるテーマがあるんだから。
雄大で充実したいかにも風ベートーベンである。しかも、トリッキーな遊びまで見せてくれる。ちょっとしたリズムと和声の小手調べ風のパッセージが、ふっと肩の力を抜いて聴衆の方を向きニヤリと笑う茶目っ気まで見せるようだ。人生で感じる全てのことを語ってしまわねば気がすまないドイツ教養主義の権化のようなヒトである。ソナタ、主題と展開そしてコーダ。音楽によるビルディングス・ロマン。だれがジョン・ウィリアムスなんかに負けるか、という意欲がこの時期のベートーベンにはある。

雄渾で長大な第一楽章のコーダが盛り上がり最後の和音が鳴り響き、ヨーヨー・マが高らかに弓を跳ね上げ大きく天井を指す、同時にヴァディム・サハロフも鍵盤から両手を離しコーダの勢いを上に向けた指先から天井に向けて解き放つ。もちろん、間髪をいれず盛大な拍手が続く。もちろん、この曲の構造を知っているぼくは手すりに肘をついたままだったが、一瞬「え?コレって1楽章形式のソナタだったっけ?」と自問したほどホールは拍手に満ちた。いや、べつに楽章の切れ目で拍手してもかまわないよ。それだけの勢いがあったんだから。しかし、誰かが拍手したからといって続いて拍手する必要は全くない。演奏者に立って答礼を促すような拍手は曲全体の構造感を損ねてしまう。タダでさえ今回の演奏会の楽章の切れ目の空咳は気になった。せっかく演奏者が次の楽章への気分を準備し、移行していこうとしているのに、そのままの姿勢で空咳が収まるまで待つという無様な回が多かった。で、やはり思わざるを得ないのだけれど、音楽を聴きに来たヒトよりヨーヨー・マを見に来たというヒトの方がはるかに多かったんだろうなぁ。そういうことで、ますますスーパースターの音楽に没入することから遠ざかってしまうのだ。
でも、まあ、ソナタ第三番はそこかしこにトリッキーな部分が隠されていて、この第一楽章の盛大なコーダも、もしかしたらベートーベンの企みであったのかもしれない。思わずにやりとする第2楽章のコーダや第3楽章とみせかけて実は終曲の序だったりという、嬉々として音楽の企みに没頭するベートーベン。なんだかんだといいながら、終曲のコーダまでたどり着くと結構こちらも乗せられて、頭がリズムを取って動いてしまっている。まあ、私自身も結構迷惑な聴衆だったりするのだが。

終演。拍手。あの憎めない人懐っこい笑顔でにこやかに答えるヨーヨー・マ。アンコールを始めるとき、楽譜を示し、静かになった客席に向かって身振りで何かを説明しようとする。「これも「『魔笛』による変奏曲」ですけど、プログラム中のとは違うヤツですよ。続けて全部演奏するので、拍手は全部終わるまで待ってください。」だったかな? すべてが終わり気さくに手を振るスーパースター。1、2階の客席はもう全てスタンディング・オベイションになってしまっている。少なからずの若い女性が手を振っている。うーむ。確かに圧倒されてしまう人気である。大変なものである。音楽はそれほどよく聴くことができなかったが、ま、いいか。とにかくこちらもヨーヨー・マは見たんだもんな。


2002.6.7(金)7:00pm いずみホール

サルビアゾリステンVol.7

井上智津子(m.sop)井岡潤子(sop)他
 pf:坂本朋子

関西の女性歌手達8名による歌曲・アリアの演奏会。精神の調子が悪い時にこの演奏会が重なってしまった。会社を終えてホールにたどり着くと疲労で体が重い。いづみホールの寄木細工のような空間に入り、開演前のざわめきを聞いていると感覚が鈍く沈んでいき、このまま眠り込んでしまいたいと思う。こんなときに華やかな女性歌手達がそれぞれ3曲くらいを歌って立ち去るという全体的に音楽的な求心力に欠ける舞台に付き合うのは無理というものである。周知のメゾ井上智津子が一番手として演じ終わると、後は眠りこけるとまではいかないが、音楽には関係の無い悪しき想念にとらわれている私の注意力は遠い場所に彷徨い出て行ってしまう。精神が昂揚しないままコンサート会場で音楽を聞いているということになってしまい、珍しく身動きできない苦痛を感じた。実力のある歌手がそれぞれの得意な歌を披露しているのだけれど、コンサート全体としてみれば中心のない、ただ音楽を並べているだけの散漫な演奏会といわざるを得ない。恐らく聴衆の大半も知り合いの歌手が出演するという関わりだけで来ているということでは無いだろうか。
地味な歌曲をゆっくり鑑賞する心理的な余裕は無い。音楽的な昂揚感を自発できないまま、歌手達のステージ衣装のことやピアニストの腕の筋肉のこと等音楽とは関係の無いことばかりが私の感覚器を通り過ぎていく。わずかに、華やかなオペラのアリアを歌った井岡潤子のステージで実際のオペラの熱気が伝わってくるのを感じた。技術も素晴らしかったが、フォルテの長音で垣間見えるきらきら輝く紗のようなイメージの声の質が魅力的だった。また、全ての歌手の伴奏をしたピアニストの安定感と肩の線の白さが強調される黒の清楚なドレスと演奏終了後のさわやかな笑顔が印象的だった。
出演者がコンサートに向かって体調を整えるのは当然だが、聴衆にも実は音楽を聞くための体調を整えることが必要だ。


2002.7.28(日)13:30 奈良文化会館国際ホール

奈良フロイデ合唱団第20回定期演奏会

福永吉宏指揮 Orc:京都バッハゾリステン(他)

とにかく一番暑い7月最後の日曜日の午後の演奏会。覚悟して家を出る。とたんに汗が吹き出る。うわ〜、あつぅ。奈良駅を出て奈良公園に向うと、真夏の緑の向こう側にうっすらと春日山がかすんでいる。夏でなければ味わえないこともある。圧倒的な日射しとせみ時雨の中の一瞬の静寂。
趣味で合唱を続けるというのも、この暑さの中では楽じゃないだろう。精神の高揚がなければとても姿勢を正してステージに立てるものではない。逆にいうと、何らかの心の張りがなければ、生活は弛緩し、ごろ寝して日曜日を過ごすということになるだろう。アマチュア合唱団の演奏会では音楽以外の要素が多くて閉口することもあるが、プロにはない良さがあるとすればステージに立つ人々の高揚が直に伝わってきやすいことだ。
さわやかな演奏会だった。樫原会場、奈良会場と2つの合唱団のステージがあるのも変化がついて良かったと思える。前回の演奏会でも思ったのだが、技術的には橿原会場が上なのだけど、奈良会場の演奏にはアマチュア合唱団の初々しさのようなものがあり、聞いていて楽しいのはこちらである。例えば3拍子の弱拍の手拍子を打つ箇所があり、微妙にノリの違う人がいて指揮者が一生懸命身振りでリズムを合わそうとしている光景自体が楽しい。アマチュア合唱団の声として妙にバランスがよく、常に素人的な初々しさが残っているのが返って魅力になっている。
メインプログラムはプッチーニのミサ・グローリア。合唱が活躍する大曲。あまり音楽以外の文句は言いたくないのだが、楽譜を追うのに必死なあまり、殆ど楽譜に首を突っ込んでいる状態の人が多いのはさすがに見ていて残念な気がする。暗譜は無理だとしても、堂々たる姿勢で顔は正面を向き、楽譜は下目視線だけで追うべきだ。しかし、演奏に破綻はなかった。阪哲郎の指揮は若々しさにあふれ、くっきりと歯切れがいい。プッチーニのミサは、情感の高揚を叙情的な管弦楽法で描くのが得意な作曲者が宗教的な高揚をどのように描くのが楽しみだったが、さすがにオペラの筆致のような自由奔放さは感じられず、古典的な劇音楽風の堅さから脱却できていない。構成的にも第一曲(第一部)がベートベン級のコーダが付き、いかにも盛大な拍手を誘うように終結するのに比べ、楽曲全体の終結は突然の弱奏の休止風に終わってしまう。聴衆としてはどこか割り切れないまま、終了の拍手を促されるといった感じなのだ。ううむ。演奏会の最後は盛大に盛り上がって爆発したい。その勢いでビールを飲みたいんだがなぁ。
ともあれ、音楽的には多少管楽器の音量が突出したところもあったが、全体にオーケストラと合唱団、ソリスト達のバランスはよく、この曲が要求する音楽性を過不足なく表現し得た。合唱団はプロに伍して演奏できる実力のあることを誇っていいと思う。
暑い日中だったけど、やはり出てきて良かったと思った。今回のスポンサー、石田さんに感謝。その勢いで、強烈な緑の誘惑に負けてなんと無謀にも奈良公園のほっつき歩きに向ったのである。


2002.9.15(日)16:00 ザ・シンフォニーホール

オーケストラ・アンサンブル金沢演奏会

指揮:岩城宏之
チャイコフスキー:憂鬱なセレナーゼ
ベートーベン:3重協奏曲
ベートーベン:交響曲第5番運命

ギドン・クレメールがバイオリンを弾く予定だったが、急病のためこのオーケストラのコンサートマスターが代演をした。ギドン・クレメールが用意した3ステージのバイオリンソロのプログラムをそのまま演奏した。この間の経緯をすっかり言語不明瞭になった岩城が最初に説明する。
ソリストの集まりといった雰囲気のこじんまりとした室内オーケストラ。女性のブルー系とエンジ系の深い色合いのドレスが素敵だった。
代演バイオリンは流石にソツなくこなしたという印象。その他にこれといって特色のない演奏だったのは事情によりしかたのないことかもしれない。
クレメールのために用意されたコンサートの主役がいないというのはなんとも気勢があがらない。クレメールの委嘱作品も、類型的な現代曲という印象でしかない。クレメールが出演するときには前座あつかいで第一曲におかれていた「運命」が最終ステージに変更になる。で、まったく久しぶりに「運命」を聞く。協奏曲では殆ど目立たなかった岩城が、さすが、というか運命ではドラマチックな精彩をオーケストラに与えている。30年前に当時の人気番組「題名の無い音楽界」で岩城が東フィルを相手に、「顔の表情だけで運命の冒頭を指揮する」という、いかにもアノ番組らしいことをしていた記憶が甦る。普段は細い目をこの時はらんらんとむき出して冒頭の緊張感を持続させていた。歩く姿に老いをかくせない岩城がこの「運命」は、そのような覇気を充分思い出させる演奏だった。
アンコールにベートーベンの「トルコ行進曲」(アテネの廃墟)を演奏する。岩城は受け取った花束を打楽器奏者に渡そうとでもするように舞台最後列に歩いていき、花束をイスに置き、代わりにトライアングルを取り上げていきなり叩きはじめる。アンコール、ベートーベンの「トルコ行進曲」(アテネの廃墟)が突然始まった。最後は弱奏になり、トライアングルを叩いたまま岩城は下手のドアから消えようとする。岩城の茶目っ気たっぷりな演出だった。


2002.9.23(月)15:00 アルカイック・ホール

バーミンガム市交響楽団演奏会

p:ダン・タイソン con:サカリ・オモラ
1. ワーグナー 「さまよえるオランダ人序曲」
2. ラフマニノフ 「パガニーニの主題による変奏曲」
3. チャイコフスキー 交響曲第4番
(アンコール)シベリウス 「フィンランディア」

体調と精神が蒙弱で座席に座り込んで吸い込まれるように眠ってしまった。 ときおり目覚めて分厚いオーケストラの音響を眺める。小柄なダン・タイソンが弾くラフマニノフの断片。しかしあまりに心が重い。音楽会を楽しむにはあまりに心が遠い。この指揮者とオーケストラは曲目からも判るように、吹奏楽的に明快な近代の管弦楽が持ち味のようだ。そしてイギリス人が大好きなシベリウス。本来だったら初秋の休日にふさわしい楽しい演奏会だったはずだった。しかし、このような哀しい聴衆もいる。


2002.9.23(月)19:00 NHK大阪ホール

中国フィルハーモニック・オーケストラ日本公演

Vcl:王健(ジャン・ワン) con:余隆(ロン・ユイ)
1.グオ・ウェンジン 「管弦楽団のための序曲」
2.ドボルザーク「チェロ協奏曲」
3.ブラームス、シェーンベルグ編曲「ピアノ4重奏曲No.1ト短調」

昼間のコンサートで少し眠ってしまったからか、夜になってやっと精神と頭がすっきりした。あまり期待しないで行ったのだけど、予想外に面白かった。
ドボルザークを弾いたジャン・ワンのチェロは充分に歌う曲想にふさわしく、最後まで自分の語りを貫いて聴衆をひきつけた。ただ、ステージが狭くオーケストラの音色がチェロを邪魔する部分があったのが惜しい。曲のポピュラーな性格も幸いしていると思うが、全くのクラシックフアンばかりではないと見えた会場が、この独奏者に対して心から熱狂した。ソリストは何回も舞台に呼び出され、2回バッハの無伴奏をアンコールに弾いた。このあたり、生真面目なチェリストである。
中国の交響楽団がブラームス=シェーンベルグの、いかにもドイツ・オーストリア的な曲を演奏するのは異例なことだと思う。本当はこのブラームスの原曲は、とくに第4楽章のロンドは破廉恥で無窮動であまり好きではないが、何か中国というイメージに引きずられてラーメン鉢の周りを無限に廻っている唐草模様を思い出してしまった。←なんちゅう(^^;)しかしそれなりに熱のこもった演奏だった。そして第一ステージやアンコールで演奏される祝典的な「明るく楽しい新中国クラシック」の数々。いやー、本当はこれが聞きたかった。おっと、最後に清瀬か小山かの日本民謡アレンジものまでサービスしてくれて。少なくとも、午後のバーミンガム市交響楽団には余裕で勝ってましたね。やっぱりコンサートは楽しくにぎやかに終わらなくっちゃ。


2002.11.04(月)15:00 ザ・シンフォニーホール

大友直人の神秘・京響演奏会

cond:大友直人 京都市交響楽団
1.レスピーギ:リュートのための古代舞曲とアリア第三
2.ストラビンスキー:火の鳥
3.ストラビンスキー:春の祭典
アンコール=チャイコフスキー:ワルツ(白鳥の湖)

木枯らしが吹き付ける休日の午後で空席が目立った。ストラビンスキー春の祭典を実際に見るのは初めてだが、「膨大な」といってもいい金管・木管・打楽器の数が舞台を席捲している。弦の奏者よりも数において勝っているのではないか?20分の休憩の間、久しぶりに吹くのかチューバ・ユーフォニュームの奏者の練習音がうるさい。そして腕に2本の笛類を携えて木管群も加わり、とてつもないカコフォニーになっていく。それがそのまま春の祭典を始めてしまった印象である。得体の知れないもぞもぞとした音楽以前のうごめきが突如バトンの一閃で強烈なリズムを刻みだす。火の鳥は充分古典的な音楽だ。しかし、この作曲者が春の祭典で切り開いた天才的な地平線はどうだろう。圧倒的なエネルギー。錯綜するリズム、強烈なハーモニー。明瞭な音楽として演奏するにはとてつもない難曲だ。京響のエキストラ達が休憩時間も舞台に上ったまま唇をあっためるのにずっと費やするのを見ていると、試験前の学生が必死にさらっているようなひたむきなさを感じたりする。大友の指揮はまともにこの曲のエネルギーをオーケストラに要求し、うまく引き出してきた。その割にはどこか端正な印象もある。小澤征爾や小林研一郎のようなあちらに行きっぱなしタイプではなく、こちらにちゃんと足がついているタイプのようである。とにかく、京響。よくやった、と言っておこう。空席があのように多くなければ、絶対に嵐のようなブラボーコールが起こっていい力のこもった演奏だった。


2003.05.22(木)19:00 ザ・シンフォニーホール

ギドン・クレーメルトリオ リサイタル

vn:ギドン・クレーメル va:ウーラ・ウリジョナ vc:マルタ・スドラバ
ドホナーニ:弦楽三重奏曲「セレナーデ」
シュニトケ:弦楽三重奏曲
モーツアルト:ディヴェルティメント変ホ長調k.563
(アンコール)デリヤーノフ:トリステ・ア・トレ
       ピアソラ:タンゴ(ウナ・セラ)

コンサートに行ける!半年ぶりに再会したコンサートがギドン・クレメールだったことを喜びたい。この才人はぼくが聞いたこともない音楽を快演し、音楽による刺激を与えてくれたのだ。この半年間、ぼくは音楽を聴いたことがなかった。その生活を止める決心をし、そしてまた音楽に再会した。音楽は身体に満ちた。ぼくは、あの人工的な狂騒の世界ではなく、今はこちらの世界にいることを選らんだことへの喜びが満ちた。
よく溶け合った弦の響きは紗の幕の内側の綾を見るようで、始まった瞬間には定かに捉えられない曲想が困惑させる瞬間がある。おや?と思うと既に第一曲が終わっている。すぐに第2曲が始まる。そしてまた曲想が変わり3曲となる・・。ああ、変奏曲なんだ。ぼくは形式を捕らえる。すると音楽は形になり、既知の言語に出会ったように自然に流れ始める。変奏曲と緩徐楽章、スケルッオと終楽章。ドホナーニの三重奏は実にチャーミングな曲だ。基本的には旋律。そして新味のある和声。終曲のクライマックスを形作る、タメとその後にくる太い合唱。久しぶりに聞いた音楽は実にお色気たっぷりだったのだ。きらきら輝く音色で音楽のメリハリのある輪郭を刻んでいくのがギドン・クレーメルの才か。
シュニトケは刺激的な音楽だ。挑発と歌への嘲笑。ふつふつと湧き上がる懐疑と苦しい断定。ヴァイオリンの弱音フラジオレットを転がせて、白骨が風に吹かれているカリカチュアが印象的だった。そしてどこかしら聞こえてくる土くさい民謡。最後のコーダでジグザク軌跡を描きながら、上昇しようとしてあがりきれない皮肉なドミナントモーションを、これ以上はないくらい明快にクレーメルは音で示す。難曲をぐいぐい追い詰めていくような演奏。現代曲に対する語法の共感。音楽の刺激。
もちろん、モーツアルトの演奏は完璧だ。しかし、デヴェルチメントとは弾く至福である。シュニトケの次としては聞き手にとっては音楽の情報量が非常に少ない、わかり切った語法である。演奏は端正でさわやかだけど、集中はできない。しかし、第4曲の変奏曲あたりから聞く側でのデヴェルチメントが始動する。変奏曲=聞く喜び。トリオ2つ付きの舞曲。そして、ノリノリの終曲。ここまでくるとデヴェルチメントは弾き手の快楽が聞き手に乗り移り、大きくうねりながら楽興の時を共有する。ギドン・クレーメルのような名前だけで既に興奮するような演奏家は、聴衆の方で熱狂しようと待ち構えているようなものだから後は簡単である。ただ嵐のような拍手と次第にエスカレートしてくる答礼の立ち返りごとに成功した演奏会を確信すればよい。
アンコールは地味でクレーメル好みの現代作品だった。一風変わった曲だけど、拍手したい聴衆は終わるのを待ちかねて元の嵐に持ち込む。2度3度呼び返され、そろそろ終りにしようかと半数が立ち、まばらになりかけたときもう一度クレーメル達が登場し、席に着くのだ。そして「ピアソラ・・」という。これですねぇ。ピアソラと聞いたとたんに会場がどよめき拍手が割り込む。そして、実にカッコいいピアソラのタンゴが3弦楽で奏でられる。チェロがピアソラ風にシンコペーションのリズムを刻み、ビオラが憂愁のモノローグを続けるとき、遠くの稲光のようなクレーメルのオブリガートが煌く。もう、ぼくは形式から音楽の枠を掴むことはしていない。ピアソラはあらゆる瞬間に実に豊富な音楽の情報を発散する。クレーメルが鮮やかに描こうとするのは、ぼくたちの感覚を刺激する音楽の情報を明確に浮き立たせることだろう。モーツアルトとシュニトケとピアソラ。彼らは確かに音楽に今までになかった新しい情報を注ぎ込んだ天才である。
半年間音楽を聴くことはなかった。失業して初めて聞いた音楽はこの世にまた別の確たる感覚世界があることを確信させる。ぼくはまたここに立ち返ってきたのだ。


2003.05.24(土)15:00 ザ・シンフォニーホール

クリスチャン・ツィンメルマン ピアノ・リサイタル

pf:クリスチャン・ツィンメルマン
1.ブラームス:6つの小品op118
2.ベートーベン:ピアノソナタNo.31
3. ブラームス:ピアノソナタNo.3

拍手が鳴り止むのも待たず、いきなりぐいと音楽を弾き始める。確かにブラームスの小品とベートーベンのソナタは旋律が絶えず主導権を握る音楽といえる。しかし、ショパンの軽やかな飛翔ではない。内面に沈潜する暗い情熱とまだ枯れない中途半端なロマン性を引きずったブラームス。ひたすら内なる音楽を追いかけ、厳格な形式は既に崩壊したモノマニアックなベートベン。会場を埋め尽くした女性客に迎合するそぶりは一切ない。
ブラームスの小品演奏中に椿事。第4曲の最初の4小節を弾きかけたが、突然演奏を中断、そのまま楽屋に引き込む。ツィンメルマンについて書かれた記事がプログラムを直前まで明らかにしないというような、エキセントリックな天才ピアニストのゴシップを引いていたのを思い出す。うむ。このような椿事さえピアニストの話題性を豊かに装飾しているのではないか。会場は唖然とするが、中には退場する演奏家を目にし、パブロフの犬のように拍手をしようとする方もいたのが妙にばかばかしい。多少ざわざわするが、大半はこの椿事を楽しんでいる気配もある。ぼくの感想では多分、弾き出してから予定曲とは違うのに気が付いた。あるいは気が変わったというような感じだった。5,6分後演奏家が再び登場して、ま、このときは拍手があり、おざなりの答礼をし再び弾き始めるが、同一の曲だったかは確信がない。
それにしても、ベートーベンのソナタとブラームスのソナタ。膨大な白昼夢の中の彷徨と言わせて欲しい。のめり込むか、まったく受け付けず傍観するだけかどちらかの音楽である。もっともベートーベンの終曲のフーガーはその部分としては見事で、バッハの上昇する劇的盛り上がりのテクニックを完璧に装備しているのだが。しかし、このフーガを配する構成の自由奔放さはどうだろう。バッハで完成してしまったフーガの力を、もう一度組み替えることで新たな武器とする最後の挑戦だったのか?
ブラームスの奔放さも、とりとめもない白昼夢の印象を強める。後期のブラームスであれば、一種の枯れや侘び・さびのような抑制が、とりとめもなく流れていく曲想を整え、静かに沈潜する情熱を感じさせるのだが。この大曲の終曲のコーダの、フォルテシモ、オーケストラで言えばツッティ全楽器の強奏で終わろうとする強引さは、若書きの叫びとしか思えない。そしてツィンメルマンのピアノもかなりウソくさいコーダになった。大団円にむかってエネルギーを徐々に加熱させていく配分がうまくいかなかった。
ベートーベンとブラームスへのこういう感想を抱かされるのは、ツィンメルマンの演奏そのものが、どこか自己沈潜的で聴衆への参加を拒んでいるような印象を与えている反映かもしれない。聴衆にこびることのない天才ピアニストは可能だろう。しかし、ぼくは会場の盛り上がりを自分の演奏の力にする演奏家のステージの方がやはり楽しいと思う。
ま、とにかくツィンメルマンの伝説がひとつ追加された今回の演奏会は、話題性という意味では、演奏会でしか味わえないステージであった。これも演奏会の楽しみの一つなのかも知れない。


2003.06.08(日)14:00 ザ・シンフォニーホール

ミハイリ・プレトニョフ リサイタル

pf:ミハイリ・プレトニョフ
ムソルグスキー:展覧会の絵
チャイコフスキー:ロシアン・スケルッツオ
チャイコフスキー:ドゥムカ-ロシアの農村風景
チャイコフスキー:眠りの森の美女(プレトニョフ編曲)

柔らかい髪の毛のロシア風に穏やかな顔つきをしたピアニストである。しかし繊細でピアニスティックなタッチを持つ演奏ではなく、どちらかといえば壮大でシンフォニックな響きを意図した演奏のように思える。ムソルグスキーは元よりピアノ曲というよりはオーケストラスコアというほうがふさわしい曲で、ダイナミックな音の氾濫が見せ所である。プレトニョフは壮大な響きとリズムの競演を、オーケストラを指揮するように弾く。立ちあがりの多少の破綻はあるが、圧倒的なテクニックがステージを舞う。逆に、テクニックが目立つので多少の破綻が感じられたと言えないこともない。
後半のステージも、色彩的な効果を狙った曲目である。しかし、当方、不覚にも前夜の疲れが出て意識が遠のく瞬間が多かった。とうとうと音楽は流れ、ふと気がつくと何も聞いてはいない。もちろん私の状態が良くないのだけど、破綻のない見事なテクニックで奏される情景音楽は眠りを誘う。それはそれで快い音楽会であるのかもしれないが、もうひとつ興奮させてくれる何かが無かったような気にもなる。
今回の来日の通しプログラムを見ると、東京ではベートーベンの協奏曲の全5曲を2日で弾く意欲的な日程になっている。大阪のコンサートはプレトニョフにしてみれば小手調べのような位置ずけだったのかも知れない。東京のベートーベンの全曲を聞かないと、この演奏家のピアノの本質は見えてこないのかもしれない。


2003.06.22 2:00pm ザ・シンフォーニーホール

ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団演奏会

小林研一郎指揮
ハンガリー国立フィルハーモニー管弦楽団

ベートーベン:交響曲第5番
チャイコフスキー:交響曲第5番
(アンコール曲)
アンコール:バッハG線上のアリア
スコットランド民謡:ダニーボーイ
ブラームス:ハンガリー舞曲第5番
ベルリオーズ:ラコッツイ行進曲

小林研一郎のチャイコフスキー第5番は昨年大フィルで聞いた。大変な熱演だった。最後の勝利のテーマ回帰部分マエストーソを、両腕を上に向けたまま微動だにせず、音楽の流れに任していた光景は記憶に新しい。今回は手勢のハンガリーフィルを率いての公演。正直に言って、小林研一郎のこの曲は昨年の印象が強いので再び聞きたくなかった。一回限りの名演ということで記憶しておきたかったのだ。
今回の演奏会も満員で、小林の絶大な人気を認識させられる。端正でスマートな若い指揮者が台頭する中で、髪を振り乱し膝をかがめた前傾姿勢で熱気あふれる演奏をする小林は確かにユニークな存在だろう。まるで絵にかいたようなロマン派好みの「音楽に対する情熱」を視覚的にも体現する稀有な指揮者というべきか。
メリハリのついた小林節は健在であったし、オーケストラもノリのいい演奏で応えていた。3本のトランペットがつや消しの未来的な感じのするくすんだ黄色で統一されていたのが印象に残っている。
国際的なコンクールで賞をとり演奏活動をしている音楽家は多数いるし、純粋な演奏上の技術はそれほどの大差があるわけではない。ステージで喝采を博するにはプラスアルファの魅力が必要なのだ。それは美女であったり、あるいは盲目であるということでもあったりする。そういう意味では小林は確かにプラスアルファを感じさせる個性である。
まだ第一ステージが終った時点なのに、答礼で律儀に各セクションを立たせて拍手を受けさせたり、各楽章が終わるごとにオーケストラに向かって感謝の合掌をしていたり、演奏会全体をひとつの心的な統一に導く術を心得ているといってもいい。
第2ステージが終わり、アンコールを求める拍手で多いに会場が沸いているとき、突然小林がとつとつと語り始める。このオーケストラとの30年の付き合い、や日本語とハンガリー語で似ている単語があって例えば、というようなトークショーになる。
これがスタンドプレーなく、いやみに聞こえないのがこの人の持ち味であろう。このあと小林はいちいち楽屋に下がらず、出ずっぱりでアンコールの4曲を語りとともに演奏する。会場はこのサービスに大いに沸くのである。最後のラコッツイ行進曲が終わると同時に、驚いたことに一階平土間の聴衆がもうし合わせたように立ちあがりスタンディングオベーションとなる。あまり見事に全員が立ちあがったので、天井桟敷で見ていた当方はなんとなくヘソを曲げ、座り続けていてやろうと決心させられた程だ。
ここまで来ると演奏そのもの、というよりも何か別の要素が会場を支配していると言わざるを得ない。昔、全日本プロレスの試合に国際プロレスの木村が殴り込んできて、結局はジャイアント馬場に負けるのだけど、そのあとマイクを奪い悪態をつくということをしていた。しかし、この木村の喋りは何となくユーモアがあり人気が出、終には木村のパフォーマンスとして毎試合の恒例となったことがあったのを思い出してしまった。
まあ、演奏そのものを鑑賞したければ会場でも売っているCDを聞けばいいわけで、演奏会というものは、そういうプラスアルファがあって初めて興行として成り立つものかもしれない。確かにこのような演奏会が終わると会場から出る聴衆の表情も何だか、わいわいと楽しげである。この高揚は演奏会に行く聴衆だけのもので、CDではどうしょうもないだろう。というわけで小林の演奏会は確かに高い集客力があるということを今更ながら実感したのである。


2003.10.04(土)17:00 秋篠音楽堂

トスティー歌曲国際コンクール日本予選大会
第三次公開審査・受賞セレモニー

ms:在田恭子 他、新人歌手12名
演奏曲:トスティの歌曲のみ

イタリアにおけるトスティー歌曲コンクールに派遣する3名を決めるコンクールで、イタリア本国以外の唯一の海外予選会場ということだ。
3次にまで勝ち進んだ12名がそれぞれ2曲ずつトスティの歌曲を歌う。コンクールなので、いきおい審査とは関係のない我々もてんで勝手に素人批評を始めたりして、単なるジョイントコンサートとは違った独特の盛り上がりがある。
ソプラノ8名メゾ2名とテナー、バス各1名。コンクールの最終予選に残る歌手の実力は伯仲しているので、大勢が出て、おなじような印象を与えるソプラノよりは、声質のちがうパートが出ると印象が強くなるという利点があるように思える。もっとも、歌手は特に声や技術という音楽的実力以外に容姿や身のこなし等ステージ上の見栄えも大きく印象を左右するのは否めない。結果は1位メゾ(在田恭子)2位ソプラノ3位テノールということになった。この3名がイタリアの本選に出場することができる権利と資金を得る。
別に阪神ファンというほどのことでもない私ではあるけれど、阪神が優勝した日のテレビを見ていると思わず当事者達の興奮が伝わってき、妙に心が高揚した経験を味わった。コンクールでの栄光を勝ち取る瞬間に立ち会うのは、やはりこれも高揚のおすそ分けをいただく気分になる。第一位がコールされるとき、誰でもがコールされた勝者の心を疑似体験しているのではないだろうか。
それにトスティは紛れもなくイタリアの作曲家で、シンプルなメロディと和声からオペラの陶酔がつむぎ出されてくる。うん、確かに不遇の晩年をかこっている私ではありますが、さすがにふわりとメロディに乗って心が飛翔する時もある。確かにコンクールは2度おいしい。


2003.10.5(日)2:00pm ザ・シンフォニーホール

フィンランド・ラハティ交響楽団

con.オスモ・ヴァンスカ
シベリウス:交響曲第2番ニ長調
シベリウス:フィンランディア
チャイコフスキー:交響曲第5番ホ短調
アンコール:シベリウス小品3曲

フィンランドのどこか初々しいオーケストラである。ベリウスの第2番からいきなりプログラムを始める。さわやかでクリアな音色と弦と管の程よいバランスはいかにもシベリウスにふさわしい。時々金管のファンファーレがそそり立つ白いフィヨルドを想わせるようにくっきりと浮き出すが、よく抑制の利いたアンサンブルでトロンボーンの音が割れるというようなこともない。最初の音響からシベリウスの世界に引き込まれてしまった。

シベリウスの第2番の演奏は数え切れないくらい聞いたし、バーンスタイン、カラヤン、ヴァルビローリ等のめぼしい指揮者のテープ・CDも持っているが、今回の指揮者オスモ・ヴァンスカの演奏が最高の解釈だと思える。特に第2楽章が特徴的だった。いままで聞いたどの演奏よりも、もっとゆっくりしたテンポで、抑制を利かし、しかも細部までくっきりとした朗々たる北欧的憂鬱の表出である。終曲も遅めのテンポで堂々と歌いきり見事な演奏だった。
そしてフィンランディアはもちろん「本場もの」の高揚があった。もちろんこの曲はどこがやっても見事な演奏効果が得られるシカケではあるけれど、フインランドのオーケストラが演奏すると多分特別な思い入れが入るハズである。やっぱり阿波踊りは徳島でみなきゃ、とか(^^;
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ここから後半ステージのチャイコフスキー第5番だが、残念なことにこの好演をつづけるオーケストラの感想とは関係のないことを書かねばならない。
まあ、前回に行ったオーケストラ好演も同一曲で少々食傷気味であったこともある。
実は指揮者の上方に見える舞台横の2階席に彼がいたのである。休憩時間から気になっていたが、絶えず両手で忙しく頭を掻き、後頭部をさすり右手を上下させる、という一連の動きを繰り返している。コンサートが終わるまでずーっとそのシーケンスを繰り返していたので、多分そのようなチックを持つ人かリタルデのようである。演奏中にもせわしなく動作を繰り返すのは本人の真意ではあるまい。もちろん、誰にでも演奏会を楽しみに行く権利はある。しかし、私はとうとう演奏を聞くことに集中することができなかった。
更に、彼に気がついた舞台正面前列の女性客が演奏中にもかかわらず隣の連れの男性に「あそこ見て」とばかり指さすのも目撃してしまった。指差すどころか、彼のチックのマネまでして隣人の注意を喚起する。隣人はといえば、50台の男性だが、終曲のマエストーソに酔いしれ座席の下で両手が浮き上がり指揮をしていて、まったくとりあわないのだが。そういえば、私が陣取る天井桟敷の1000円券席でいえば前の初老のカップル、横側の学生風の2,3名とも男性はシベリウス・チャイコフスキーの胸躍るオーケストラに目を輝かして食い入るように見つめている気配であるのだけど、しかし、連れの女性は演奏中にプログラムを読もうとしたり、い眠ってプログラムを落としそうになったりと、どうも退屈な様子である。私の隣にも第2楽章では必ず眠ってしまう女性がいた。
もちろん、コンサートで眠るのは自由だけど、眠っている観客を目撃したとたん、意識が音楽からはじき出されて醒めてしまう部分があるも事実だ。
昨夜のトスティコンクール予選では、観客の盛り上がりが音楽会全体にエネルギーを与えていた。客席の熱は確実に演奏者に伝わる。本当に退屈な演奏なら眠るのも仕方ないが、今日の演奏で眠られては演奏者が気の毒だ。もちろん私も体調が悪くて眠ってしまう演奏会もあるので、仕方のない現象ではあるのだけど。まあ、眠りこけている人を見るより、多少近所迷惑でも座席の下で指揮をしているおじさんを見るほうが気分は盛り上がる。
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クラシック音楽の演奏会では時々演奏中に咳き込む人がいる。ハンカチで押さえてなるべく、くぐもらせるのが礼儀だが、堂々と「えへん」とされる人も時たまいる。
曲の高揚のさなかに突然オーケストラが停止し、最後のコーダの盛り上がりを呼び込む一瞬の緊張をはらんだ静寂が意図されることもある。アスリートが神経を集中させ最後の跳躍を試みようとする、大変なエネルギーに満ちた静寂の瞬間である。この研ぎ澄まされた静寂の中でぼくはときどき狂気を抱く。今、この瞬間誰かが咳をする、いや、携帯電話のふやけた呼び出し音が鳴る、あるいは。
ある一瞬の偶然の手違いが、全体を壊滅的に破壊してしまう瞬間があるというのは、実に恐ろしいことだ。ぼくにはときどきこの瞬間の緊張が耐えられないと感じることがある。だから、何時もこう思ってしまうのだ。
まるでムンクの「叫び」のように、この瞬間に叫びだそうとしているのは、まさにぼくではないのかと。


2003/10/18(土)15:00 ザ・シンフォーニーホール

ジェームス・ゴールウェイ フルートリサイタル

P:フィリップ・モル
シューベルト:「しぼめる花」ヴァリエーション
モルラッツキ:スイスの羊飼い
ドップラー:ハンガリー田園幻想曲
ブリッツチャルディ:ヴェネツィアの謝肉祭
タファネル:「魔弾の射手」バリェーション
ドップラー:リゴレット幻想曲
ポルヌ:カルメン幻想曲
アンコール曲:サンサーンス「白鳥」他4曲

トランペットとくればモーリス・アンドレというように、各楽器の演奏家で別格の名人がいてその名前が楽器の代名詞のように使われるカリスマ達がいる。フルートとくればランパルだったなぁ。しかし、ホフリガーやランパル、あるいはフィッシャー・ディスカウはカリスマではあってもモーリス・アンドレのような名人芸を楽しませる演奏家という風ではなかった。あくまでも音楽の解釈の正統性や総合的な音楽性を含んだ理想の演奏家たちだった。ゴールウェイはモーリスアンドレ風の名人芸を楽しませてくれるタイプのカリスマである。プログラムもそのような名人芸を発揮するための超絶技巧曲ばかりである。弦楽器とは違って吹奏楽器の名人芸は本当にすごい。多分前者は単に指先だけのハナシだが、吹奏楽器にはもっと肉体の内蔵の仕組みくらいのところからくる動きが加算される。単にとてつもなく長いフレーズを弾くのはピアノ・バイオリンではなんでもないことだけど、吹奏楽器ではもう既に名人芸の世界なのである。
いや、とにかくすごいテクニックである。特にメロディを高音のスタッカートで聞かせ、細かい分散コード伴奏を低音部で支えているよくあるパターンの聞かせどころでは、完全にメロディーがつながっているように聞こえた。ホールの残響はあるにしても、通常の演奏家だとくっきりとスタッカートで吹かないとどうしょうもないところである。一体どのような息のコントロールをすれば物理的には大きく切れているメロディラインがつながって聞こえるように吹けるのか。低音のうなるようなボリュームにも圧倒的な力があった。まるでホルンのような存在感のある音色で第一スケールを吹いてしまう。このようなめくるましい名人芸が飛び交ったあと、アンコールで静かにサンサーンスの白鳥を嫋嫋と奏でたのにはさすがだった。

ここで、ぼくが最初にゴールウェイを見たときのことを書いておきたい。
20年前にぼくが学生をしていたフランス・ストラスブール市で夏の「音楽週間」があり、たまたま見に行った野外ステージでゴールウェイの舞台を見た。当時はアコーディオンの伴奏者と二人でコミカルなバラエティショウ風のプログラムをやっていたのだ。
たどたどしいフランス語で「次は、世界初15秒で演じるカルメン。」とか「バイオリンもオーケストラも使わないメンデルスゾーンのバイオリンとオーケストラのための協奏曲。」だとか、客席を沸かしていた。また、フルートも縦・横5・6本を駆使し、2本の縦笛を口にくわえて同時に演奏するというようなこともしていた。とにかく大変なエンターテナーだったわけだ。
彼らのステージが終わったので当日はそこで会場から引き上げた。翌日当時所属していたストラスブール大学合唱団のメンバーにぱったり会った。いきなり「昨日どうして演奏会に来なかったの?」と問われた。また、なれないフランス語のアナウンスを聞き逃してたのだ。実は、ぼく達の合唱団はゴールウェイの舞台の次のステージで演奏する予定だったのだ。前日、あのままゴールウェイの演奏で立ち去らなかったら、ぼくはステージにあわてて駆け上り仲間とビットーリアのミサを演奏していたハズだった。
つまり、本来だったらゴールウェイ氏はぼくの前座を勤めた演奏家だったというわけだ。


2003.10.24(金)7:00pm ザ・シンフォニーホール

佐渡裕の世界・京響演奏会

Cnd:佐渡裕
Vcl:古川展生
京都市交響楽団

ドヴォルザーク:チェロ協奏曲
ベートーヴェン:交響曲第7番
(アンコール)チャイコフスキー:アンダンテ・カンタービレ

ソリストには気の毒だが、当方の座席の位置が非常に悪く、チェロの音が充分届いてこなかった。最終楽章のコーダ近くのソロ・バイオリンとのデュエットではバイオリンの音しか聞こえず、この座席でこのチェリストの評価をするのはいかにも気の毒である。京響のバランスも良くなく、管楽器の粗さが目立ち、とても評価に値する演奏ではなかったのだ。多分低調なオーケストラに影響されてだと思うが、この曲の持つ土俗性を表現するにはチェロの粘りが足りず、どこか散漫な演奏で、音程の不安さえ感じさせた。あまり充分なリハーサルをしなかったのではないだろうか?そう思うのは、休憩を挟んで演奏されたベートーヴェンのオーケストラは緊密でドラマチックな第一級の出来だったからだ。

ソリストが抜け、弦がかたまり、管の配置も変わりどこか散漫だったオーケストラが視覚にまとまる。指揮台がとり除かれ、指揮者の譜面立はあるが、第7交響曲の総譜はない。佐渡裕が楽員と同じ床に立ち、指揮棒も持たず楽譜も開けず両手で最初の音を引き出す。なんということか、オーケストラは生き返り、音楽の緊張感がみなぎる交響楽がほとばしる。なんという浅ましい変身なんだろう。あまりにもソリストが気の毒だと思うばかりだ。あんなに悪かった管・弦のバランスも問題なく、管楽器奏者がコントロールの利いた素晴らしい音で支えている。第2楽章葬送行進曲の導入から葬列たけなわに至る緊張感の持続と高揚は佐渡の指揮が絶妙で、常に張り詰める力を感じさせた。ピアニッシモの内側の、外には見えないはずのエネルギーを感じさせるのは大変な力量である。この交響曲は佐渡にとって細部まで知り尽くし、徹底的にコントロールができる自分の持ちネタというところか。ドボルザークではおとなしかった客席には、ベートーベンの嵐のような第4楽章が終わった瞬間ブラボーコールがこだました。それはそうだろう。聴衆にはちゃんと聞こえているのだ。オーケストラは、ステージで常に最高の演奏ができるようにリハーサルを重ねて欲しい。


2003.10.29(水)7:00pm フェスティバルホール

ザールブリュッケン放送交響楽団

cnd:スタニスラフ・スクロバチェフスキ
orc:ザールブリュッケン放送交響楽団

ブルックナー:交響曲第8番

30年ほど前、朝比奈隆が大フィルの定期演奏会でブルックナーチクルスをやっていた。前座の小品もアンコールもなく一晩にたった一曲ブルックナーの交響曲だけを演奏するのである。演奏が終わってから、グリコのおまけみたいにアンコールをサービスするのが通例だった当時、(あ、今もそうか)非常に新鮮ですっきりとしていて、胸のすくような印象があった。それにブルックナーの交響曲を一曲演奏して後、どんなエネルギーが指揮者に残ってるというのか。当時だって朝比奈隆さんはもう高齢だったし。
ブルックナーの8番は、ぼくの記憶の中で「雨にけぶる遠くの山」の光景と結びついている。憂鬱で荘厳で、抑えられた憧れが北ドイツの曇り空の下にそびえる山々を彷彿とさせる。まあ、実際の光景としては、雨に煙る大阪泉南地方の山だったんだけど、この程度の昇華はアリとしておこう。で、このザールブリュッケン。そう。ザール・ルール地方ですね。石炭産業が有名で、なんとなく灰色の重苦しいイメージがある。曇り空の憂鬱がべったり染み込んでいるとでもいうような。昔住んでいたアルザスの北隣というわけで、一度日帰りで行ったことがある。いや、正確に言えば、日帰りでカール・マルクスの生地・トリアーまで行って、帰りの列車のタイミングを間違え、途中のザールブリュッケンからフランスに戻れず、駅前で一晩過ごしたことがあるのだ。駅前のバーからは午前2時で追い出され、夏だというのに震える寒さの中を、駅構内で朝5時の始発をまった。
ザールブリュッケン。明るく軽やかな印象はまったくない。ヨーロッパの得体の知れない暗闇がそこに迫っている。だから、ぼくのなかではザールブリュッケンとブルックナーは、どこかで人知れず秘密のつながりを持っているという気がする。
なんぞと、まったく根拠もなく、勝手にザールブリュッケンのオーケストラにブルックナーの好演を期待してしまうのである。で、この指揮者も地味ではあるが、ブルックナーの演奏では高い評価を得ているという、いかにも真面目そーなヒトである。もちろん、今夜はブルックナーの第8番一曲だけがプログラムだ。卑しいどこかの出稼ぎオーケストラのように、必ず客が入る「3大交響曲」、鳴り物・飛び道具入りの協奏曲、拍手喝采アンコール定番なんとか行進曲なんてのの影もカタチもない。地味なオーケストラ、地味な指揮者、あえて言えば地味なプログラムで、このけれんみのない真面目さに、いやおうもなくぼくの期待は高まってしまう。

白髪の細身のスクロバチェフスキが登場し、譜面台なしで腕を曲に差し入れ、以降1時間半のブルックナーの世界をたっぷりと引き出してきてくれるのだ。うむ。これはなんという贅沢な時間だったのか。
後期ロマン派様式のオーケストラはフル装備でハープ2本を含み、チューバを含む分厚い金管がオーケストラの最後尾をとりまく。総勢100名近くの分厚い大オーケストラから自在に響きを作り出すブルックナーの、ハマればもうでてこれないような音響と感覚の企み。例えば、深い弦のアンサンブル、ありきたりに言えば「心をかきむしるような」バイオリンの低音のヴィブラートが持続し、それに追いかぶさって、どっしりとした低音が入ってくる絶妙なタイミングのシカケ。また、まるで峻厳な山脈自体が歌っているような分厚い金管のコラール。妙に胸を打つテインパニーが刻む葬送行進曲のリズム。なんという贅沢な音響に満ち溢れた、なんという贅沢な時間だっただろう。いや、ぼくはこの曲が好きで、何回も聞いているけれど、ブルックナーの交響曲こそ実際の演奏会で聞かねば、その真価がわからないものはないのではないか。少なくとも我が家ではこの集中した1時間3,40分を持つことなんぞとてもできない。
スクロヴァチェフスキの指揮は丹念で、細部に至るまでしっかりとしたコントロールが利いていた。この曲の指揮の肝要は、音色と音量とリズムの精妙なコントロールに尽きるのではないだろうか。膨大な人数のオーケストラそれぞれが放出する数億個の音符達。そのすべてを、まるでたった一人のオルガニストが弾く、たった一台のオルガンから発した音であるかのように。オーケストラの響きは理想的だった。もちろん、細部でトゥッテイの出だしが多少ずれたりはするのだが、何よりも音量のコントロールが完璧だった。分厚い金管と豊かな弦が組み合って比類のない豊穣な響きがホールに満ちる。そしてティンパニーの音量が全体からはみ出さず、いかにも適切だ。こうして書いていても昨夜の見せ場の各場面の響きがよみがえってくる。ブルックナーの音楽は適正なコントロールさえ施せば、後はずうっと流れていく。豊かな色彩とリズム、あらゆる感情が圧縮され、目の前を通過していく。ブルックナーの音にハマると2度と出てこれない。死ぬまで止まらない人生みたいに。
不思議なことに、この豊穣で贅沢なブルックナーの音楽は、振り返ってみるとまるで水墨画のような枯れが支配しているとさえ見える。細部は結構小うるさいのに、全体はどっしりとしたある種の人生観が支配しているというような。結局この交響曲は、その長大さ自体がひとつの音楽効果ではないのか。まるで時間がすべてを飲み込んでしまうとでもいうように。

コーダの弦のざわめきが始まってから胸の動悸がはっきりしてきた。おう、久しぶりに興奮してきたじゃないか。第4楽章のコーダが盛り上がっていき、最後の結論にむかってすべてが高揚していく。弦が掻き立て、金管が咆哮する。最後に、最後にすべての楽器がユニゾンで言う「こうだ!」。まさに、「どうだ!」というばかりの演奏。うむ。思わず「そうだったんだ。そうなんだなぁ。」と、結論を受け入れてしまう圧倒的な説得力。いやー、堪能しましたよ。この充実感。人生のフルコースを味わわせていただいたような達成感。
で結局、指揮者の体力だとか、演奏時間の問題だとかではなく、この圧倒的充実感にはもう何も付け足すことはないのである。というわけで、今回のブルックナーもアンコールなんぞというオマケは一切ない。無くてよかった。その「ない」ということに妙に得した気分になったのである。


2003.11.09(日)2:00pm ザ・シンフォーニーホール

千住真理子の「ロマンス」

Vn:千住真理子
con:ハインツ・シュンク
ベルリン室内管弦楽団(Berliner Kammnerrorchester-Heinz Schunk)

モーツアルト:デヴェルティメントニ長調
ベートーベン:ロマンスNo.1(ト長調)、No.2(へ長調)
モーツアルト:Vn協奏曲No.5イ長調(トルコ風)
モーツアルト:交響曲No.40ト短調
(アンコール)
バーバー:弦楽のためのアダージオ
バッハ:G線上のアリア

第一、第二バイオリン、ビオラ各4、チェロ2、コントラバス1の弦に最小の2管が付いた室内オーケストラ。音色と音量のバランスが非常にいいし、モーツアルトのディベルティメントの演奏には最適な編成だと思える。また、ソロヴァイオリンとの競演でも、ソロを引き立たせるには最良の音量だった。
千住真理子はヴィブラートをたっぷり聞かせて、よく歌うバイオリンである。このプログラムのような名曲コンサートにふさわしいポピュラリティのある好演で、バイオリンの音色の鈍い金属的な輝きが印象的だった。落ち着いた華やかさのある民族衣装風のドレスやステージでの表情もある種の品があって好感が持てた。
しかし、会場は最低だった。このようなステージは、小じんまりとしたサロンで楽しむべきものだ。

<本日の観客評>
千住真理子は昨年ストラディバリウスを借与されたとか何とかで話題になり、テレビの主題歌を演奏したりもして高いポピュラリティを得、コンサートも多量に企画されているとのこと。なるほど今回のコンサートのスケジュールも東京や九州等を精力的に巡業しているようである。今回のザ・シンフォニーホールもほぼ満員で、いつになく団体客が目立つ。私の席の前列も高年男女のグループで、演奏中に何かと落ち着きがない。更に会場全体でも演奏中にプログラムを広げて膝の上に置き、緩徐楽章ではページを繰っている人も目立つ。とうとうバサリと膝の上のプログラムやパンフレットを演奏中に落としてしまう音も2度程響きわたった。明らかに音楽会のマナーを心得ず、あの千住真理子をただ見に来たというグループが目立つのだ。
演奏中にプログラムその他を読むことはもちろん観客個人の自由だろう。しかし、その姿は「この音楽は退屈だ」と言ってるように見える。実際に退屈なら次のステージには出て行けばいいのに、最後までコンサートには居続けるのである。結局、この人たちは別に「あなたの演奏は私には退屈だよ」という主張をしているわけではなく、ただ周囲の人や演奏者に対する配慮が欠けているだけなのだ。せめて演奏中の退屈しのぎには、目でページを追うくらいにして、次のページを開けるというよう大きな動作はやめて欲しい。
私の席の左後ろの客はスキーウエアのような生地の上着を着、絶えずザワザワと音を立てている。ゆっくり動けば音もしないと思えるのに、絶えず身動きをして音を発散している。まあ、自宅ではそのように身じろぎしているんだろうけど、周りの人への配慮があれば動作をゆっくりすることはできるはずだ。いかにもわがままな御仁だと思える。
演奏中に咳が出るのはしかたがないが、咳が出るな、と思えばハンカチで口を押さえればそんなには響かない。しかし、この配慮が出来ない人も多い。
前のグループの高齢者男性は膝の上に置いた手の指で拍子をとっている。音楽によって高揚した挙句の動作だったらいいが、このおじさんの拍子は明らかに異質のものだった。4拍子の曲をユックリと2拍に動かしている。あの、それって民謡の手拍子じゃ?「えいとこ、どっこい」というような?結局この方も横の同行者に「これ、このとおり、ワシゃモーツアルトが好きでなぁ」と誇示している目的だとしか思えないのだ。それとも単に眠気覚ましなのか。まあ、いずれにしても目の前であんまり動かないで欲しいのだ。じゃまで仕方ない。しかし、動かないといえば、コチコチに固まってしまって息さえ満足に吸わず、楽章の切れ目にあわてて酸素を補給するみたいに一斉に咳き込んだり、ぎしぎしと身じろぎする人も相変わらず多い。もう、何で普通に音楽が聴けないの?と情けなくなる。
拍手にも勘所がある。演奏が終了して即わーっと来る拍手もあれば、しばらく余韻にしたってから沸き起こってくる拍手もある。例えば歌舞伎の屋号かけのように、観客も流れに合った拍手やブラボーコールでコンサートに参加しているのだ。オーケストラが入場してきただけで、威勢良く盛大に拍手する兄ちゃんがいて、それに釣られて会場全体が拍手を続けたのに、第一ステージの演奏が終わり、ソリストが舞台から見えなくなったとたん拍手を止めてしまったりする。ゆっくり答礼に戻ろうとした千住真理子があわてて拍手の切れないうちに舞台に舞い戻り、ゆっくりしている指揮者を呼ぶ。
音楽はやっぱり好きな人同士だけで聴きたい。金さえ払えばどこに行こうが勝手だろう、という人には、あなたとの感覚とは違う人もいるので、せめて、その場にあった配慮を心がけて欲しい、とお願いする以外にない。しかし、これがそのまま通用する昨今ではないのは、帰りの車内で悩まされた携帯電話通話の例を挙げるまでもなく、明らかなことだ。やれやれ。


2003.11.29(土)7:00pm ザ・シンフォニーホール

ズービン・メータ/イスラエル・フィル

Con:ズービン・メータ
イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団

シューベルト:交響曲第6番
マーラー:交響曲第6番

普段のザ・シンフォニーホールでの演奏会とは違い、客席入り口に「リハーサル中」の札がかかり、開演15分前まで客席に立ち入ることが出来なかった。もしやテロ警戒のためかとも思った。開演してみると、テレビカメラが舞台上に数台入り全ての演奏を収録していた。「新春クラシックコンサート」なる番組の収録だそうである。リハーサルは多分そのカメラリハーサルだったのだろう。狭いステージいっぱいにマーラー用の大オーケストラとその飛び道具がぎっしりと場所取りしている。ティンパニー2組ハープ2台その他ドラ・小太鼓・木琴・鉄琴、と舞台上で振りかざす大ハンマー等。指揮台はまったく客席と接していて、左右のヴァイオリン・ビオラ席も同様である。空いたわずかな舞台袖にテレビカメラが3台、このうち2台は可動式で、操作するカメラマンとコードを支える助手が各1名づつ。それに、マーラーの演奏中は打楽器奏者が頻繁に舞台裏に下がりカウベルを裏から響かせる。そのたびにしゃがんでいるカメラマン助手をまたいで通行するのである。いやはや・・・見てるだけで楽しいというか。
シューベルトの第6番交響曲はかなりマイナーな曲で以前に聞いた覚えは無い。ベートベン的なパッセージと常に途絶えることの無いメロディで構成された、いかにもシューベルトらしい中途半端な曲で、まだ第7番のような独自の世界には行っていない。メータとイスラエル・フィルはくっきりとした音色で端正に演奏し、このコンビが完璧な音色のコントロールが出来ていることを示す。第4楽章の軽快な第一主題が多少印象的だったが、この曲はこのメータの演奏でもう充分だ。後の私の余生でもう2度と聞くこともなかろう。
マーラーの第6番への幕間の休憩にもイスラエル・フィルの楽員はそこかしこに居残り、てんでにウォーミングアップに余念が無い。シューベルトの時もそのままだった残りの楽員席もだんだん詰まっていき、このばかばかしい程大掛かりな大曲への期待と興奮への予感を客席にも感染させていく。人数からいえば合唱入りの第8番の方が多い理屈だが、純器楽曲としてはこの曲が音楽史上の最右翼ではなかろうか。その事前のウォーミングアップもすさまじい喧騒である。
そしてふてぶてしい風貌のメータが登場し、この110名の無法者たちの喧騒をピタリと静める。もちろん、この表現はウソだけど、確かにこれだけの雑多なオーケストラという怪物を制御するには、メータのようなビッグネームの存在感がどうしても必要だと思えてくるのである。
そして終にティンパニーがとどろき狂気の第6番が始まる。
そしてぼく達はマーラーのこの交響曲に対峙する。メータが制御するイスラエル・フィルは一瞬たりともぼく達の意識を曲から逸らすことはなく、舞台袖で動くテレビカメラ、頻繁に出入りする打楽器奏者の雑多な動きさえもあらかじめ曲内にとりこまれていた出来事であり、すべてがメータにコントロールされたマーラーの世界の中でのことのように思える。正直に言って、ぼくはマーラーの交響曲は大好きなんだけど、この第6番はニガ手である。狂気に髪一重の象徴性・思い入れのアクが強く、幻想性や叙情性に行こうとする心を打ち砕いてしまう。それにあの第4楽章の冒頭やコーダーの開始部に出てくる、宇宙や神のあからさまな暗示はどうだろうか。ベトナム麺料理のアクの強い香草をかみ砕いた時のように、音楽とは別種の強烈な違和感がある。そして偏執狂のごとく繰り返される運命のリズム。脈絡も無くと言わねばならないほど飛び回る楽想と、現実にあらゆる音を取り込もうとする打楽器群。これは紛れも無く一つの独立した音楽の宇宙で、一人の天才が自分の頭脳の極限まで酷使して作り上げた人工の楽園である。豊穣で雑多な音の宇宙。確かに、この恐ろしい110名の音響の氾濫でぶつかってくるマーラーの狂気に対峙するのには、とてつもなく強烈な意思をもったリーダーが必要である。だからメータである。
要するに、ぼくはこの音楽には何か割り切れない、ついていけない違和感を絶えず抱きながら、メータの集中力の呪縛から逃れだせず、常にマーラーのこの狂気に最後まで直面させられたのだ。マーラー・メータ・イスラエル・フィル。なんという三位一体か。ここまでくると、どうしてもマーラー・バーンシュタイン・イスラエル・フィルも急に聞きたくなってくるのは、怖いもの見たさというか(^^;
ぼくの違和感はこの曲のメインテーマともいえる管の長和音→短和音のファンファーレにもある。この単純で暗喩はあまりに直截でついていけない。リヒャルト・シュトラウスの例の「ツアラトウストラ」の冒頭との深い共通性を感じる。多分、この2曲には共通のグノーシス風メタフォールが隠されているに違いない。と、こちらまでなんだかよくわからない感慨に捕らわれていくのである。
今回の第6番のプログラムには、別刷りのコーションが配布されていて従来の第二・第三楽章の並びとは逆に、古典的な緩除楽章→スケルッツオ→フィナーレと演奏する旨が記されている。メータの最近の研究による解釈だそうである。確かにこの演奏で、いかにも唐突に宇宙が切れ込んでくる第4楽章の冒頭がわずかに緩和された印象は持った。全体の座りは良くなったのではないか。しかし、この曲に座りの良さが似つかわしいのかは疑問である。
人間の生活と宇宙のあらゆるフェノメナをマーラー流に運命のリズムに乗って鳥瞰させ、徐々に沈黙に収まっていったコーダを突然打ち破る、最後の結論としてのフォルティッシモの強烈なファンファーレ。そしてメータがマーラの構築した宇宙論に関する問いを今度は聴衆に投げる。ぼくはうむ、と唸り、確かにそうだが、と頭の中で反芻する。

<本日の観客評>
・・・ここで、いままで完璧に主導しコントロールしてきたメータが今回の演奏会で、初めて制御できなかったものが露呈するのである。最後の和音が消えていった方向に向かってメータは指揮棒を固定させ、後に残される深い沈黙の緊張を持続させているのだが、まったくばかげたことに、心無い聴衆が「やれやれ、やっと終わった」とばかり、まったく腑抜けた拍手を始めるのである。 これには、ぼくもまともに怒る。まだ指揮者が指揮棒をおろしていないのに拍手をしてはいけない。演奏妨害である。この最初に拍手する連中は「オレはこの曲の最後を知っている、どうだ、エライだろ」と言っているとしか思えない。いや、単に「音楽が終わったようなので拍手した」ということか。この曲の場合、最後の沈黙も曲のうちではないか。どうしてクラシック音楽が好きでもないのにコンサートに来る連中がいるのか。そういえば、シューベルトのいかにも古典的なドミナントモーションで終わった第4楽章でも、まだ最後の音が残っているのに拍手が響いていた。いい加減にしてくれよ。なんという無作法な。
心無い拍手は続く。しかしメータは目を瞑ったまま静止し指揮棒をおろさない。その意志をさすがに感じたのか、なんと拍手が収まってしまったのである。なんという情けない聴衆か、君らは。拍手したいのなら最後まで叩き続けろ。それならメータも内心「お、やるな!」と苦笑するだろう。拍手しだして途中でやめたのなら、まったく間違えて拍手しました、ということになってしまう。メータが沈黙していようが、本当に喝采したいのであれば負けずに叩き返しブラボーコールで追い討ちをかけても良い。少なくとも、最初に拍手をする者にはそこまでの覚悟が必要だ。まあ、この情けない拍手は1月3日朝日放送系で早朝放映されるハズで、ビデオにとって是非とも反芻してもらいたい。君らのようなヒトが居るから、日本の政治はいつまでも良くならんのだ。ぼくは本当に怒っているのだぞ。


2003.12.23(火・祝)2:00pm 神戸朝日ホール

西村志保チェロリサイタル

Vc:西村志保
Pf:高木洋子

ベートーベン:「魔笛」の主題による変奏曲
カサド:無伴奏チェロ組曲
マルティヌー:ロッシーニの主題による変奏曲
R.シュトラウス:チェロソナタヘ長調
(アンコール)
カサド:パブロ・カザルスに捧げるレクイエム
シューベルト:アベマリア

前日まで厳しい寒さだったが、神戸に来たら暖かくいいお天気だった。コンサートは2時からなので、お昼を元町の南京町で食べることにして歩き出すと、もう大変な人出だった。豚マン、チャーシュー麺、割包、ゴマ団子。これは、ちょっと子供に返って縁日の屋台での買い食いをしているというイメージですね。というわけで、久しぶりに神戸に来て、休日の楽しさを味わい、ちょっとコーヒーを飲んでコンサートに行った。
神戸朝日ホールは三宮と本町の間にある、目立つビルの4階にあるこじんまりとしたホールで、休日のコンサートにやってきた知人や友人達や、ソリスト西村の親父さんがロビーで談笑していたりして、大ホールにはない家庭的な雰囲気があふれていた。 ベートベン以外のプログラムはいずれも近代以降の曲で初めて聞くものばかりだ。3年前のリサイタルと同様、若いチェリストの力量を問う大変意欲的、野心的な内容と思わせたのだ。
最初のベートーベンでは、西村は演奏前に執拗にピアノと音あわせを行い、かなり神経質になっている印象だった。カサドの無伴奏組曲の演奏前には舞台裏での調弦の音がいつまでも続き、なかなか舞台に現れず、客席にも大曲の前の緊張が伝染する。
舞台に現れた西村は、先ず目をつむり意識を統一する。そして鋭い緊張に満ちたカサドの前奏曲の第一音が鳴り響く。ぼくにとってそれ今日のコンサートの始まりだった。 聞く者の意識を一瞬で掴み取り、激しい感情が渦巻くその源泉に一気に連れ込んでしまう深い、なにか人間の本能的な部分に共鳴するような音色。ああ、これがチェロの音なんだ、とぼくは思う。コトバのない、限りなく人間にちかい声。
作曲家としてのカサドは初めて聞くが、その時代の書法を完璧に自分のものとした、完成した作曲家との印象を受けた。後でアンコールで小品も演奏されるが、なかなか色彩あふれる才能のある作曲家である。しかし、もちろんこの曲はスペイン的な大衆性を残しながらも、演奏家としての技巧を網羅し、バッハの創出した「無伴奏」という純化された精神性を継承しようとする難曲だ。フラジオレットの連続や、旋律の上側で跳ね上がる逆アルペジオ、etc。巨匠演奏家としての技巧と、完成した作曲家としての音楽性がせめぎあう刺激的な音楽である。しかし、演奏上の技巧の部分に目が行ってしまい、音楽的な全体の印象をまとめることはできなかった。
この難曲の後、それまであった、どこか神経質な印象が消え、いかにもチェロリサイタルにふさわしい豊穣な音色の、音楽の楽しみに満ちた曲が続く演奏会となった。
マルティヌーの曲は、現代的な書法が軽いアクセントになっている、トリッキーな演奏の快感が前面にでた楽しい曲である。そしてR.シュトラウスのチエロソナタも、近代和声とロマンチックな感覚が主題のさわやかな曲だった。後年になると、いろいろ音楽以外の理屈をこねはじめるシュトラウスも、18歳の作品ではごくまともで、素直な作風である。 演奏とは関係ないが、シュトラウスがブラームスのような「純音楽」路線を歩んでくれたら、今日の演奏会はもっと豊かになったろうにと思わずにはいられない。「アルプス」交響曲」や「家庭」交響曲というような、どうしょうもない表題音楽や、「ツアラトウストラ」「英雄の生涯」のような、今日ではどうしても辟易としてしまう思い入れ過多の感覚的滑稽さのことを言っているのだけど。結局、音楽に音楽以外のことを盛り込んでしまうと、その部分は必ず時間とともに陳腐化していく。音楽は音楽だけで完結しているのが、結局は永遠の生命を持つのだ。
と、演奏とは関係の無いことをぐたぐた言ってますが、実際にマルティーヌもシュトラウスも音楽を聴くという楽しみがホールに満ちて、休日の午後にふさわしい雰囲気になった。演奏者が弾く喜びを感じれば、聞く者にはその喜びが直に伝わってくる。3年前の西村のリサイタルは、ショスタコビッチのソナタがメインの大変意欲的なものだったが、言ってみれば若者の問題意識が先行した、かなり求道的と言ってもいい演奏会だったような気がする。今回のリサイタルでは、どちらかといえば音楽の喜びや、楽しみが前面に出た演奏だったといってもいい。もちろん、鋭く聴衆を挑発する刺激的な音楽会も魅力的だが、基本的には音楽を楽しみたいので我々は音楽会に行くのだ。若い演奏家が難曲に挑戦する姿は感動的だが、巨匠がそのとんでもない技巧の冴えを、ソレとは感じさせずに純粋に音楽だけが満ちているような演奏をする、というような光景はなんて魅力的なんだろう。西村がドイツでどのような研鑽を積んできたのかは想像するしかないが、もう若手演奏家ではなく、音楽の喜びを伝えられる中堅の演奏家となったといえるのではないか。以前は自分のためにチェロを弾いていた印象があるが、今回は聴衆のためにチェロを弾ける演奏家になっていたのだ。
アンコールでは雰囲気がもりあがり「ルミナリエもありますので、シューベルトのアベマリアを・・」と、よく考えると意味の通じないようなアドリブもあって、嫋嫋とチェロの典雅で奥行きのある音色の歌が流れ、客席に音楽を堪能した満足の笑顔が満ちる。

南京街で立ち食いを楽しみ、休日の午後にふさわしい充実した演奏会を聞き、ホールを出ると明るいビルの立ち並ぶ神戸の街並みにそろそろ夕刻が近づく気配である。さて、これから初めて例の神戸ルミナリエの見物に行こうと思うのである。休日ってのはこうこなくっちゃ。


2004.2.14(土)2:00pm ザ・シンフォニーホール

イリーナ・メジューエワ バレンタイン・リサイタル/月の光

Pf:イリーナ・メジューエワ
バッハ:「人の望みの喜びよ」ケンプ編曲他
シューベルト:即興曲変ホ長調他
ウェーバー:舞踏への勧誘
ショパン:幻想即興曲・ノクターン変ホ長調・スケルッツオNo.2
メンデルスゾーン:無言歌op.19-1他
リスト:愛の夢No.3他
ドビュッシー:月の光
メトネル:4つのおとぎ話op.26
(アンコール)ショパン:ワルツ2曲とノクターン(遺作)

タイトルと曲目から分かるとおり、これはサロン風コンサートで別に演奏がどうのとか批評するものではない。黒い細身のドレスに身を包んだ優雅なピアニストが、白い腕を鍵盤に躍らせて甘い名曲を弾くのを眺めて楽しむという趣向である。メロディはあくまでクリアに立ち上がり、低音は控えめな伴奏に徹している。もう20年もヘタなアマチュアのピアニストをしている当方にとっても、懐かしい曲ばかりである。だからこういったメロディのはっきりした曲をクリアに演奏することがいかに難しいかも知っているつもりである。バッハのコラールの線が中音域で出てくる音量のコントロールや、メンデルスゾーンの無言歌のメロディのつなぎ方。そういう意味ではお手本のようなといいたいような演奏だった。
このピアニストは全曲を特製の譜面台紙に貼り付けて視譜で弾く。「おいおい、そんな曲だったらぼくだって暗譜してるよ!」というようなものだが、プログラムを見るとちゃんと視譜の理由が書いてある。作曲家の意図を絶えず確認する為、ということらしい。でもまあ、ショパンのノクターンとか、作曲家自身も適当にテンポ・ルバートで弾いていたと思うよ。楽譜をめくるタイミングは絶妙。自分で楽譜をコピーし、ちゃんと編集して台紙に貼り付ければ、どんな曲でも楽譜めくりのアシスタントをわずらわさせなくとも弾けるのだ。そういう意味では、楽譜めくりを雇っているピアニストはこのことをもう一度考えてもいいと思う。それも含めて、ちょっとあまりにお手本的すぎるよーな気もする。しかし、それも個性のウチではあるでしょう。
なんだいコレというのはメトネルの曲。曲自体は20世紀前半後期ロマン派のサロン風ピアノ曲でそう面白くもない普通の曲である。そういえば、ウチにメトネルのCDが一枚あったのを思い出した。ピアノ協奏曲No.2とピアノ5重奏曲ハ長調。タイトルは「Romantic Piano Concerts」(NAXOS版)ラフマニノフ級の怒級ロマンチシズムに至る前の、節度ある軽い情緒の曲である。別に悪くはないんだけど、とにかくショパンとかラフマニノフとかの大天才達に隠れてしまって、なかなかわれわれが聞く機会がない。こういう作曲家も多いのに、演奏会ではついぞ聞けないのだ。だから一時はNAXOS版で聞いたことのない名前の作曲家のCDを買って帰って聞くのを楽しみにしていたなぁ。そういや、通勤しなくなったので最近CDは買ってない。その代わり、ADSL常時接続のインターネットラジオのアメリカのたとえばIOWA大学のクラシックチャネルをよく聞くようになった。担当者が自分の好みで勝手に選曲しているようで、絶対にビッグネームの作曲家を取り上げない音楽専門局もある。こういう局の個性は好きだね。
というわけで、このイリーナさんも、うんざりするようなポピュラーな名曲の数々のにこのメトネルの曲を忍ばせる。うんうん、それでいい。いくら「バレンタイン・コンサート」でも、そのくらいの自己主張はしなきゃね。


2004.9.10(金)7:00pm ザ・シンフォニーホール

大阪フィルハーモニー交響楽団第381回定期演奏会

ヘンリク・シェーファー指揮 vn:黄蒙拉(ホァン・モンラ)
シベリウス 交響詩「ポヒョラの娘」
シベリウス バイオリン協奏曲
ショスタコービッチ 交響曲第10番

ここ半年は職業に心が定まらず鬱々としていた。コンサートに行くことはなかった。先週、今の勤め先の上司に退職する旨を伝えた。帰りに地下鉄構内で大フィル定期のポスターを見た。ああ、コンサートに行こう、と思った。ザ・シンフォニーホールのエントランスや通路、ホールの晴れやかだが、どこか押さえた空気を思い出した。森の奥から響いてくる不思議な世界からのざわめき。ぼくはオーケストラの響きが好きだ。シベリウスとショスタコービッチ。まるで昔見知った友人達のように、懐かしい顔と彼らのしゃべり方を思い出した。久しぶりだったね、といってるように思えた。

長身の若い指揮者である。そういえば、ドイツ人の若い指揮者を最近見たことが無かった。しかし演奏するのはドイツ音楽ではなく、シベリウスとショスタコービッチである。若者好みの選曲と言えるのかもしれない。オーケストラの響きを自在に使いこなして本領を発揮した作曲家達だ。どのような音色を聞かせてくれるのか。
シベリウスの「ポヒョラの娘」は、もう何十年も聞いていない。しかし、曲想は鮮明に覚えている。糸を紡ぐ娘と壮大な船を作ろうとする英雄のイメージが、弦と管でくっきりと浮かび上がってくる絵画的な作品だった。 しかし、大フィルの響きはぼくの頭の中にあった記憶よりはぼやけている。娘の糸の紡ぎはもっと細かく、船は朝霧を切り裂くように壮麗ではなかったか? 大フィルの管楽器のボリュームから弦が浮き出てこない。この若者の解釈では、ぼくの思っていた糸紡ぎにはならない。もう少し弦の細かい基調音の速度を上げなきゃ。全体に管と弦のバランスが悪いと感じた。まるでモノラル録音のような平板な響きのように思えたのだ。
ヴァイオリン協奏曲を弾いたホァン・モンラも若い中国の演奏家である。ぼくの好みから言えば、是非とも若い女性奏者にこの曲を弾いてもらいたかった。昔、だれだっけ?やはり大フィルの定期で外山雄三さんの指揮でこの曲を弾いたフィンランドの女流バイオリニストを思い出した。彼女はなんと裸足で登場して演奏したのである。この曲には裸足の美女がふさわしい。あの繊細な出だしを語り始めるには、是非裸足の女性であって欲しい、と実は勝手なイメージを抱いていたりするのである。
この若者のヴァイオリンはもちろん破綻のない演奏で、演奏には文句は言わないのだが、第一に思ったのは、ちょとガニ股気味の姿勢が当方の勝手な曲のイメージと違うな、という非音楽的なことである。第一楽章では、無難にテンポ通りという印象があり、これも勝手に中国系の派手な感情移入を期待していた当方には少し肩すかしを喰った気がした。しかし、このシベリウスの音楽は絶品で、楽譜どおりに演奏しても音楽が勝手に高揚してくれるのだ。あえて感情移入をやテンポ・ルバートを控えた方がいいのかもしれない。しかし、2、3楽章と進むにつれて、この若者の熱が高揚してきた印象がある。最後には、なかなかいいんじゃない?という印象になっていた。しかし、大フィルのバランスは相変わらずもうひとつ良くなかった。特に弦が管に負けてしまっているので、うるさいだけみたいな部分があった。

以前ショスタコービッチの交響曲を系統的に聴いていた時期がある。1980年に「ショスタコビッチの証言」が出版された時、朝比奈隆の「大フィルの定期演奏会で演奏する予定の交響曲第五番の解釈を考えなおす必要がある。」との談話が新聞に載った。さっそく件の演奏会を聞きに行った覚えがある。しかし、実を言うとどのように解釈が変更されたのかよく分からなかった。実際にあの明快な交響曲をどう料理したら皮肉の利いた味になるというのだろう?むしろ、ぼくからすれば最後の交響曲第15番に込めたショスタコービッチの明らかなメッセージを聞き取ったのが、この作曲家を再認識するきっかけになった。ウィリアムテル序曲のパロディーで始まった皮相なこの世の生業が、最後の最後に人を食った、こっけいな骸骨踊りで消えていくのである。「メメント・モリ」。偉大な今世紀最大の作曲家が時代に翻弄された自分の人生を笑っている。ショスタコービッチの交響曲は発表の度に物議をかもし出してきた。時の為政者や批評家に批判されれば、勇ましくも革命を描き、スターリングラード攻防戦を鼓舞したりする。しかしながら、「それでも地球は回っている」と懲りずに自分の書きたい曲をちゃっかり発表してしまうのである。9番では、完全に運命を茶化して、批評家や「大衆」に肩透かしを食らわした。この10番では、いかにしたら「社会主義リアリズム」の大問題主義を、ウィンナワルツで表現するか?というばかばかしいテーマに取り組んでいる。というのは冗談だが、深刻で思わせぶりなテーマと、軽く飛翔しようとする本来の音楽の楽しみが渾然となった、いかにもショスタコービッチの音楽になっているのだ。社会主義リアリズムの時代を知っているとは思えない、この若い指揮者がどのような解釈を見せてくれるのか楽しみである。

20分の休憩時間にティンパニー奏者は入念にピッチを調整しているが、他の管弦のメンバーの数人は舞台に残り、ショスタコービッチの難所をさらっている。本番前のカコフォニーもコンサートの雰囲気を盛り上げる要素ではある、とは思っているのだが、プロにしてはちょっと素人くさい振る舞いではないだろうか?ウォーミングアップをするなら、次の演奏曲のパッセージは避けて欲しい。新鮮な耳でこの、あまり演奏会にはかからない交響曲と対面したかったのに、すっかり曲中のフレーズを予告してしまっている。特徴のあるホルンの呪文や第4楽章の行進曲を予告するクラリネットの音頭取り等。いかんぞ、君ら。推理小説のトリックを読む前に喋るなよ!
大編成のオーケストラが舞台に広がり、ショスタコービッチの交響曲が始まる。ここで、あっけにとられてしまう。先ほどのシベリウスのステージとはまるで別のオーケストラのように、音が違うのだ。ブラスや打楽器の音響が高揚しても、弦はしっかりと響いている。そうだよ、そうこなくっちゃ!やればできるじゃないか。一昨年に聞いた大フィルのコンサートでも同じような印象を持ったのを思い出した。コンチェルトの伴奏の時はまったく冴えなかったのに、自分達のメインの交響曲のプログラムになると突然別人のような集中力で演奏してしまうのだ。幕間の素人っぽい練習も、実はこのようなステージへの意気込みの反映なのかもしれない。しかしなぁ。本気で集中すれば完璧な響きになる、というのはどうもアマチュアのノリのような気もするが。まあ、いい。とにかくショスタコービッチは集中力のある見事な演奏になった。深い森の奥から聞こえてくる、ぞくぞくするような未知の世界の響きが聞こえてくる。見事なオーケストラというものは、音だけで興奮させるものだ。

ヘンリク・シェーファーの指揮は明確で、オーケストラからのびやかな音を引き出していると思えた。第一楽章の緩-急-緩のショスタコービッチ形式も、構造くっきりと造形され、視覚化されていた。実は、この演奏でこの曲を支配しているのが3拍子というリズムであると知ったのだ。もちろんウィンナワルツではないにしても、3拍子とは踊りの音楽である。この若者の解釈からは、この曲の流れるようなリズムを畳み掛けていく側面が浮き出てきたと思えた。それでは、執拗に繰り返される思わせぶりなホルンの音形に象徴される、深刻そうな意味=主題=教訓(lesson)はどう解釈され、表現されるのか?おっと、実はこの辺りの、何やら政治的文学的な意味を聞き取ろうとするばかばかしい事大主義を、実はショスタコービッチは笑いとばそうとしたのかもしれない。皮肉なヒトなんだよ、コロリとひっかからないよう気をつけなきゃ。実は、深刻な意味も何もなくて単にフィナーレの全員の踊りを引き立たせるだけの黒子だけなのかもしれない。少なくとも、この演奏は、無理やり深刻な意味をつけようということではなかった。執拗なテーマの繰り返しに管は良く耐えた。よくコントロールされた音色が持続すれば、曲全体の緊張感も持続する。そして、どこかクラシックへのノスタルジーも感じさせるフィナーレの群舞につないでいく。そして、ド派手なコーダに向かって高揚させていく、実に素直ですっきりとした演奏である。政治的主張なんて必要ない。ただ音楽自体のダイナミズムが感覚を高揚させていくのだ。それでいい。それにしても、ショスタコービッチの交響曲を聴くといのは、いつでもスリリングな体験である。演奏家と聞き手が各人各様な思いや解釈を闘わせ、作曲者の意図を探ろうとする。作曲者はといえば、地下でにやにや笑いながら見ているのである。そういう意味でも稀有な作曲家というべきだろう。

大フィルは、朝比奈隆の薫陶を受けたからか、どうも難曲・大曲になるとやたらと名演をやらかしてくれる。まあ、日ごろ学校回りとか、地方の公民館のこけら落としなんかの景気付けなんかに駆り出されるので、こういうときに異常に力が入ってしまう、ということなのかもしれない。とにかく熱の入った演奏が聴けるのはいいことだ。そして、聞きたいと思った時に、いつでも恰好なコンサートが開催されているということが都市の文化というものだろう。
いろいろ言ったけど、ぼくは基本的には大フィルのフアンだし、聞きたくなったらまたチケット買わせていただきます。意欲的なプログラムの企画をお願いいたします>大フィル御中


2004.12.11(土)6:00pm ザ・シンフォニーホール

渡辺貞夫クリスマスライブ!2004

a.sax:渡辺貞夫
pf ドン・グルーシン他 g、b、ds、perx2

全渡辺貞夫オリジナル
Driving Safari他全13set

普段クラシックのコンサートを聴きなれているので、アンプで増幅した楽器の音には抵抗がある。音量への要求が音質をうすっぺらく膨らませたハリボテのコピー音にしてしまうのだ。しかし、3人のエネルギッシュなパーカッショニスト(うちドラムス1)の圧倒的な音量に対抗するためには、電気的増幅をしなければピアノは何も聞こえないだろう。かくて、まるでピッコロの音色のようなピアノが聞こえたりする。ギター(ベース・ソロ)の増幅した音色には色気もクソもない。このアンプ過用音量主義は前世紀の悪しきロックバンドの影響であろう。打楽器はいい。電気に頼るなんぞという姑息な手段に拠らなくとも迫力のサンバを叩きだせる。ドラムスやボンゴの繰り出す律動は生理的なレベルでの快感を呼び込む。渡辺貞夫リーダーも、曲を盛り上げるのには3人のパーカッションの饗宴に任しておけばいい、という感じで放置して自分はスポットライトの影に回るのである。打の3人がカーニバルの盛り上がりを刻んでいるとすれば、弦の3人は、アンプのせいで何となくざわざわしているだけの群集のような位置と聞こえてしまう。
だから、そこに突然颯爽とスターが割り込んでくる余地が生まれるのだ。 アルトサックスの音色はたとえ増幅されていたとしても、つややかで全体をつつみこむような輝く伸びがある。やはり主役はあんた。ナベサダ貫禄の君臨という構図である。ステージの曲はすべて渡辺のオリジナル。あくまで軽い、ちょっとした鼻歌的で日本人好みの起承転結もあるメロディーを、ラテン系のパーカッションに小粋に艶っぽく乗せる。次に2コーラス分の多少トリッキーなアドリブ。しかし、ナベサダらしい品位のような姿勢は維持している。後2コーラスほどのアドリブのウケをピアノかギターが受け持ってまた最後にサックスが締めくくるという構図だ。そして時々圧倒的なパーカッション群のアドリブの饗宴にコントロールを譲ってステージ上のカタストロフに持ち込むシカケだった。うーん。確かに圧倒されるのだが、パーカッションで盛り上げるのは、ちと邪道ではなかろうか?アルトサックスの音色の色気をぼくらは聞きに来ているんだから。
というわけで、どちらかというとスローバラード調の曲の方が強烈なサンバのリズムよりもぼくは楽しめた。そして、全ステージが終了した後最後の最後に、初めてピアノとのデュオで嫋々と奏でた、さすがのナベサダ節。この最後のわずか2コーラスには、比重としては残りの全ステージと対等の存在感が確かにあったのだ。
コンサートの帰りにウメダの某所で地下にあるジャズ喫茶を見つけた。
寒空に肩を狭めてドアを押すと、立ち込める分厚い空気に取り囲まれるような、薄暗くて胎内回帰的にあったかいジャズ喫茶の光景を、冬になると突然思い出すことがある。
今度、2,3時間何もしなくてもいい暇ができたらあそこに行って見よう。


2005.01.03(月)2:00pm ザ・シンフォニーホール

五嶋みどり&ロバート・マクドナルド デュオ・リサイタル

[ヴァイオリン]五嶋みどり
[ピアノ]ロバート・マクドナルド

ジュディス・ウィア : 247本の弦のための音楽
イサン・ユン : ヴァイオリン・ソナタ 第1番
アレキサンダー・ゲール : ヴァイオリンとピアノのための組曲
ジェルジ・クルターク : ヴァイオリンとピアノのための3つの断章 作品14e
ヴィトルト・ルトスワフスキ : パルティータ

なんというプログラムなんだろう。1920年から50年代に生まれた作曲家の作品ばかりである。紛れもない現代音楽のみの構成である。ちなみに前日に行われた<プログラムA>では、ベートーベンやドビュッシー、ブラームスのバイオリンソナタという定番が演奏されている。そして、同じ演奏者であるのに、各席の料金ランクがそれぞれ3000円程違うのだ。このプログラムを突きつけられては、私としてはどうしても聞きに行かざるを得ない。いっとくけど、料金が割安であるという理由ではない。どのような名手の演奏であっても、例えばベートーベンの「スプリングソナタ」をわざわざ聞きに行く気にはならない。私はバイオリンの音色の細やかなつやや輝き、あるいは演奏の解釈の微妙な違い、技術の巧劣を目ざとく聞き分け、それを自分の鑑賞眼の証とするような高度な耳を持ってはいない。ベートーベンの名演なら、自宅で寝転んでCDを聞いている方がよほど楽しいと思う。それでも演奏会に行きたいと思うのは、一回限りの生の演奏に立ち会うとき、奏者の気配や緊張に感応して思わぬ高揚を感じることがあること、また、そういう高揚を準備してくれるホールや、聴衆というお膳立てがあるということだろう。それと、あとひとつの理由として、日頃聞くことのない珍しい曲目が聴けるという興味がある。私は演奏を楽しむタイプの聴衆ではない。音楽に自分の精神を活性してくれる何らかの刺激を求めている、心の貧しい聞き手である。だから、あまりマスメディアでの放送には取り上げられない現代音楽というジャンルが好きである。時として、あまりに実験的な作品では作家の意図が分からないことも多いが、総じて「クラシック」な和声的調和に慣れた耳に新鮮な音響を響かせて刺激してくれるような作品には目がないのだ。
そこで、このプログラムの挑発。ルトスワフスキの作品はCDを一枚、イサン・ユンは以前室内オーケストラの演奏会で聴いたことがある。しかし、後はすべて初めての作家の名前である。いったいどんな音の試みを聞かせてくれるのか、是非行って聞きたい演奏会だった。
五嶋みどりは小柄で、くりくりした目が印象的な、どことなく子供のような雰囲気がある。舞台衣装も他の若いスターバイオリニストのような華やかなドレスではなく、地味な印象のまるで学生風とでもいったようなものだった。しかし、演奏歴23年の堂々たるキャリアの持ち主である。このプログラムは若いスター演奏家に企画できるものではない。よくわからんが、さすが、といっておこう。

第一ステージのジュディス・ウィアの作品は退屈だった。とりわけ新鮮に響く耳新しい音響はなく、比較的軽い構成の音楽で、当方には音楽的な情報が少なすぎた。 次のイサン・ユンの作品から、こちらの精神が目覚めてくる。饒舌ではなく無駄のない音の組み合わせで緊迫感のある時間を構成し、内包しているある種の情感を聞くものに与える、高い質感のある音楽である。五嶋みどりはまるで演歌歌手が声を振り絞るような派手な動作で、一気に曲の中心にある情念に切り込んだ印象を与えた。作曲家の意図に演奏家がどこまで迫れるのか、というような真摯な表現者が発する熱があった。

第2ステージの3曲は全体で大きなセットを構成するように配置されていた。いわば、ゲールの作品がテーマの提示、クルタークが間奏曲でルトスワフスキが終曲のコーダという位置付けのようだ。この3曲はイサン・ユンの作品が持つ完結したひとつのミクロコスモスではなく、音楽のそれぞれの局面を捉えたものだという印象がある。ゲールの作品は、私に言わせればメシアンの影響が非常に強い和声であり、リズムである。ほとんど古典的といってもいい。これは音響の楽しみを提示する音楽である。対してクルタークの作品はゆったりとした弱奏だけで構成されている不思議な作風だった。弱奏ではあるが、針先が落ちる音にも神経に響くというような緊張感を強いる曲ではなく、水墨画のような趣がある絵画風な曲である。といっても、ほとんど聞こえるか聞こえないかという弱奏での演奏には高度な技巧が必要なことはいうまでもない。この演奏の安定感は場数を踏んだ演奏家でなければ望めない絶妙のコントロールというものだろう。そして、最後。リトスワススキのエネルギッシュで奔放なリズムの支配する曲が、快適なスピード感で盛り上げ、全体のコーダとなっている。やはり、この曲あたりが典型的な「現代の音楽」を体現しているといえる。和声感と形式美が支配していた古典音楽と対応する、先鋭的な和声とリズムの自在な組み合わせが、安定した古典的様式美に安住しようとする意識を絶えず刺激する。「現代」がその芸術表現のおおきな拠り所としていたのは「自由」という概念だった。これが20世紀全体のキーワードだったのだ。まあ、しかし音楽における私の「現代」は50年くらいのタイムラグは有にある。これ以降の作品は私の守備範囲からは逸脱してしまうのである。特にジョンケージ一派のような音楽の破壊はごめんこうむりたい。まあ、アレは音楽というよりもイベント芸術と呼びたいような範疇の表現というものだろう。

とにかく、歳は若いが演奏家として油の乗り切った五嶋の安定した表現力と技術、それに興行的集客力を持ってして始めて可能な演奏会であったといえる。
さて、この意欲的なプログラムをこなした五嶋は、ロビーに出てなんとサイン会を始めるのである。挑発的なプログラムとこの融和的サービスの取り合わせがなんとなく面白い。しかし、あまりサイン待ちの列が長いので、サインはもらい損なってしまったのだ。


2005.1.16(日)15:00 フェスティバルホール

ソフィア国立オペレッタ劇場「こうもり」

指揮:イーゴル・ボグダノフ
ソフィア国立オペレッタ劇場管弦楽団・合唱団・バレエ団

ヨハン・シュトラウスII: 喜歌劇こうもり

毎年正月になるとなんとなくヨハン・シュトラウスの「美しき蒼きドナウ」をピアノで弾きたくなる。多分、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートの影響だろう。1月2日に放送されるウィーン楽友協会ホールからの中継は、花に囲まれたステージ、着飾った紳士淑女が満載でとにかくめでたい。ついでにいうと、ヨーロッパからの衛星中継番組のおなじみのファンファーレが、アンリ・シャルパンティエの作曲だと最近判明した。昔、フランスでテレビを見ていた記憶では、アレはRTL(Radio Television Luxenbourg)のテーマ曲だったような記憶があるのだが、仔細は不明。華やかで祝祭的だが、どことなく品位があり、ヨーロッパの王宮の映像のバックに流れると、実に典雅な雰囲気になる。この、シャルパンティエという名の作曲家も実は二人が有名だけど、これはバロックに近い方の人。どことなく陰影のある作風で、なかなか魅力的な作曲家だ。
今更「美しき蒼きドナウ」でもあるまいと思うが、どうして、ピアノで弾いてみると実に巧妙で小気味のいい構成のワルツである。とりわけ、効果的な調性のワルツを組み合わせることで、転調によるはつらつとした気分が持続する。さすが、ヨハン・シュトラウス、喧伝される理由はある、とここにして思うのである。しかし、まあ、このくらいの超有名曲になると、いつかどこかで聞いているので、「おふくろの味」的な無条件の懐かしさが染み付いているのが普通だ。そして、ほのかな記憶をくすぐったり、追体験させたりもする。だから名曲といわれるし、みんなが輪をかけて個人的思い入れをたくし込んでいやおうなく名曲にしてしまっている。高校時代に始めて歌ったのがコレだったなぁ。そのときのピアニストが前奏部分苦手そうに弾いていたなぁ。しかし、なんといってもキューブリックが「2001スペースオデッセイ」で、回転する宇宙ステーションに合わせてスペース・シャトルに踊らせたのが圧巻だった。美しき蒼き古典的宇宙。あの画面と音楽の組み合わせが多幸感を生む。稀有な才能だ。キューブリック。もっとも、世間で喧伝されたのはもう一人のシュトラウスの方だった。「ツァラトゥストラはかく語りき」。アレですねぇ。
ところで「こうもり」。序曲から既にウィーンのワルツの気分でもりあがる。華やかで期待に満ちた時空への招待。モーリス・ラベルが憧れに憧れた雲の上で踊る光の音楽。かつて存在したが今はない、ウィーンという現象への憧れ。既にマーラーがいて、ココーシュカやエゴン・シーレにフロイト先生が怪しげな想念にふけっていた時代。しかし、このウィンナ・ワルツのノリはどうだろう。密かに世紀末ウィーンのおどろおどろしい退廃と狂気が進行しているというのに、この粋なリズムのタメと軽みの利いた和声の饗宴には唖然とする。一方の文化の精髄というべきだろう。先ず経済の発達があり、富裕階級が出現し、日々の労働をしない有閑階級を形成する。ウィーンの貴族達が情熱を傾けるのが舞踏会と恋愛遊戯である。この文明・文化のアポジーに至ってしまえば、後は倦怠と退廃しかない。正にウィーンのヨハン・シュトラウスは人間の文化の極北を代表して、今日もウィーン市立公園でバイオリンを片手に、誇らしげに彫像しているのだ。
このソフィア国立オペレッタ劇場に関して私は何も知らない。ブルガリアという国はあまりピンとこない。男性合唱団が有名だったかな?別にハプスブルグ家の所領であったこともなかろう。しかし、EU加盟国ではないとはいえ、流石はヨーロッパに国を構える民族である。ウィーンの雰囲気と早口のドイツ語は気分ですね。20名くらいのオーケストラの家庭的な響き(って、どんなん?)、玉石混交の歌手と月並みな踊りだが、美女そろいのバレー団。時に田舎芝居っぽく、ウィーンの黄金時代の精髄を見せてくれる。いや、私は堪能しましたよ。別に批評をするような催しものではない。新春の縁起ものですからね。少なくとも劇団四季のまがい物のミュージカルよりも余程マシであるといっておこう。
ところで、3幕が終了し、カーテンコールになると、2幕の舞踏会の場でもバレー付で上演されたラデッキー行進曲が演奏され、この曲のルールにしたがって会場からの拍手が手拍子に誘導される。最後がこの曲で会場の手拍子を求めるというのも、例のウィーンフィルニューイヤーコンサートのノリですね。手拍子拝借というのは古典的な盛り上げ方である。ラデッキーマーチもめでたく正月の季語に昇格するのかもしれない。
ところで、ラデッキーの作曲者はヨハン・シュトラウスだけど、「こうもり」のシュトラウスではない。父親のシュトラウス1世の作。もちろん、そんなことは知ってるよねぇ?


2005.2.20(日)16:00 大阪城ホール

スペクタクル・ミュージカル 十戒

音楽:パスカル・オビスポ
演出:エリ・シュラキ
出演:セルジオ・モスケット他オリジナル公演メンバー

広い大阪城ホールの40メートルの間合いいっぱいに、古代エジプトをイメージした石柱とスフインクスの巨大な顔が配置され、館内の空間に漂っている霧のような気体にかすんでいる。スペクタクル、見世物である。派手な舞台装置は、いったい何がはじまるのかな、という期待を盛り上げる。大阪城ホールも、静かなコンサート会場というよりは体育館的どよめきが似つかわしい空間である。
「スペクタクル・ミュージカル」と銘打ち、フランスで300万人が鑑賞したと謳っているからには、何か胸のすくような見ものを見せてくれるものとの期待は高まるのだが。
舞台美術と派手な照明効果、エジプト風薄物を着た女性群像、鋼のような引き締まった筋肉の男性群像は、まあ、それなりの見ものだったのだが。
単調な4ビートロックのリズムが支配する音楽に感情移入することが出来なかった。フランス語の歌詞も、とおり一遍の「愛」や「運命」のステレオタイプ直喩から一歩も出ていない。楽しければ「楽しい」といい、悲しければ「悲しい」というだけで、深みも味もけれんも奥も含みもなにもない。各楽器のニュアンス、生の声の空気の張り、その他音楽という情報の豊かな暗喩の部分をスピーカーの大音量がすべて飛ばし去り、ただベースギターのピックのトリガーが妙に生々しくアンプで増幅されているだけの音楽。つまり、私は元来ロックという音楽のメッセージのあまりにも押し付けがましい直截性が受け付けられない聞き手なのである。このミュージカルの喚起しようとする情感は、「地方のヘルスセンター回りの何とか一座の歌謡ショー」(そんなものがいまどきあるとして)とまったく同系のものである。こんなモノでは、私は感動することができないのである。
ここで、どうしてもかつてのハリウッド料理されたミュージカルの名作を懐かしんでしまう。マイフェア・レディとかサウンド・オブ・ミュージカルとか。同じ単純な話でも、しかるべく演出すれば、たわいもなくころりと感動できてしまうのだ。比してこのミュージカルのプロットはといえば、せっかく感動したいと思っている観客の期待を、単なるオムニバス様の旧約聖書名場面集の無意味な羅列で醒ましてしまう。一応のクライマックス、出エジプト記の紅海割りの段で盛り上がろうという観客に、まったく無意味なラムセスとの個人的和解場面と、それこそ無意味な十戒の各戒律の解説場面につなぎ、見事な盛下げをしてくれるのだ。「汝殺すなかれ」と訓戒されて、どう盛り上がればいいんじゃ!
盛り下がったところで唐突に終わり、主役モーゼが「愛こそすべて」とノー天気な主題歌を歌い、観客に手拍子を強要し、舞台下に来るように手招きする。ばかばかし。
あれれ、それでも舞台下に駆け寄り、あるいはスタンディング・オベーションを始める皆さんもいる。うーむ。こんなもので感動できる人々は幸いなり。心が貧しいにちがいない。
と、さんざんけなすのは、この席が1万3千円だからである。日ごろ1000円の天井桟敷で、それなりに興奮している私メには、この落差はおおきいのだ。金をかければ興奮できるとは限らない。しかし、金をかけたからには興奮せずには帰れない。私メは心から本当に貧しい人なのだ。


2005.4.07(木)19:00 フェステイバルホール

パリ管弦楽団演奏会・第47回大阪国際フェスティバル ガラ・プレミェール

指揮:ミシェル・ブラッソン
パリ国立管弦楽団

ラヴェル:高雅で感傷的なワルツ
ルーセル:バッカスとアリアーヌ 第2組曲
ラヴェル:ラ・ヴァルス
ムソルグスキー(ラヴェル編曲):展覧会の絵
(アンコール)ラベル:マメール・ロア「妖精の園」他2曲

大阪国際フェスティバルの開幕式典が始まる。ステージ横に吹奏バンドが並び、フェステイバル・ファンファーレ(団伊球磨)を吹奏し、華やかな色彩の衣装をまとった雅楽バンドが越天楽を奏でる。アンコール演奏と同じく、「もうけもの」といった類のエクストラ・ステージである。式典の間、当方は回想に浸ることとする。
1964年4月当時高校生だった私は小遣いを貯め、初めて大阪国際フェスティバルのチケットを買ってフェスティバルホールに行った。アンドレ・クリュイタンス指揮のパリ音楽院管弦楽団演奏会。演奏終了後クリュイタンスの楽屋に行き、生まれて初めてフランス語の挨拶をしプログラムにサインをもらうということをする。しかし、ここでヘマをした。他の公演者だったソビエト国立管弦楽団指揮者イワーノフの写真の載っているページを差し出してサインさせてしまったのだ。困惑し、苦笑しているクリュイタンス氏を思い出す。まあ、いいか。(しかし、越天楽というのは黒田節とそっくりじゃないか。)

パリ管弦楽団はパリ音楽院管弦楽団の後継であるらしい。曲目はラベル、ルーセルのオール・フランスもの。パリのオーケストラにパリジャンの指揮者、オールフランス音楽というのがこの演奏会の売りである。女性の多いオーケストラである。ひところついぞ女性がいなかったコントラバスやホルン、打楽器というようなセクションにも女性がいる。 ブラッソンは職人的な風合いの指揮者だった。ひょうひょう登場し、あまり演出過剰になることもなく、的確にアンサンブルをコントロールしている。カリスマ的でちょっと近寄りがたいオーラを放つようなタイプではない。なんとなく、どこかのフランス料理店の年季のはいったシェフといったイメージを抱かせる。コック帽をかむったブラッソンが仕事台にかがみ込んで、デザートのケーキのデコレーションを仕上げていく。仕事は淡々と進行していくのだが、長年の手練の業で寸分の狂いもない見事な出来だ。さすがはたたき上げの職人だね、とでもいうか。
演奏されたプログラムはラベルとルーセル、重い思索や激しい主張とは無縁で、華やかで色彩豊かなオーケストラの音響の楽しみが前面にくる音楽である。たとえばラベルのラ:ヴァルス。ウィーンナワルツへの憧れが、夢想のなかからたち現れ、次第に華やかな舞踏の気分が充満し、豊かな音響に集約されていくプロセスが生理的な快感を引き起こす。デリケートな風合いのある砂糖菓子の淡いデコレーションを、コック帽をかぶったブラッソンが仕事台にかがみこんで、わき目もふらず一心に仕上げているとでもいったイメージが浮かぶ。ふくよかで色彩的、そして要所はきちっと押さえてあるメリハリのある演奏だ。ルーセルの作品も快適なスピード感に溢れ、音響とリズムの楽しみがつまってる。いい素材を的確に料理することだけでいい。オーケストラも指揮者も、その職人芸に徹すれば自ずと快適な音楽がホールに満ちる。

第2部になった。ムソルグスキー、ラベル編曲の大曲「禿山の一夜」。演奏がまずかったわけでもはない。隣のおじさんがのべつまくなしにオペラグラスでオーケストラを覗いている所作が左腕を刺激し、左目の視野に夢とは関係のない動きを映しこんで、絶えず意識に違和感を送り込む。仕方がなく、目を瞑る。しかし、音楽が次第に空疎になっていく。この曲の無骨なユニゾンが心を脅かす。大げさで内容のない音楽。いくらラベルの編曲とはいえ、退屈な曲をいくら飾り立てても高揚はやってこない。コンサートに行くとたまにこんな惨めな時間がやってくる。自分だけが完全に音楽から疎外されている。音楽を聴いているようには見えない隣のおじさんでもオーケストラの女性を眺め、それなりに楽しんでいるのに。忌まわしい生活の時間の光景が頭の中で暴れているのが見える。無理やり連れ込まれた無縁の世界。無縁の他人達に無理やり自分を合わせていくしかない、毎日の通勤や勤務時間。親しい友人でさえ、見知らぬ他人同様まったく心がかみ合っていないということがわかってしまう。重苦しい曇天だけが拡がっているパリの光景。ぼくと膨大な青春の時間を共有しながら、行く先も告げずに異国の首都の気の遠くなるような人々の生活の中に消えていった人。はるか昔、生活を共にしながら自分を無にすることが出来ず、別れてしまった人々への自責。粗野な音楽が精神を痛めつける。コンサートに行くとこのような悲しい時間も時にはある。コンサートホールを埋める膨大な他人達。早く逃げ帰って、自分の部屋に閉じこもってしまいたい。・・・

演奏が終わりブラッソンが飄々とアンコールに登場する。ラベル、マメール・ロア「妖精の園」。慰めに満ちたやさしい音楽である。先ほどのパリの曇天のイメージが薄れていく。音楽が人の情緒に作用し、苦しみを思い出させたり慰めを与えたりする。考えてみれば恐ろしいことだ。今は楽しみのための音楽だけを聞いていたい。


2006.1.9(月・祝)14:00 兵庫県立芸術文化センター大ホール

ハンガリー国立ブダペスト・オペレッタ劇場ニューイヤーコンサート2006

指揮:マクラーリ・ラースロー
オーケストラ・歌手・バレー:ハンガリー国立ブダペスト・オペレッタ劇場+ウィーン・フォルクスオーパーソリスト

レハール・ヨハンシュトラウス・カールマン他のオペレッタアンソロジー

2005年10月オープンの新しいホール。ウチからは遠いので今更新しいホールが出来てもなぁ、と思う。しかし、足回りの良さは格別で、阪急西宮北口駅から回廊伝いに直接ホールに歩いて入場できる。大ホールは木の風合いを意識させる機能的な空間。平土間の上に3層の客席がある。奥行きはそんなに深くなく、ステージへの死角はない。座席は木製の背もたれが一体型になった、どことなく「小学校の教室においてあったイス」を思い出させる四角形のちょっとノスタルジックなもの。両翼の席は3,4階になると1列しかなく、かなりの独立感がある。すべてがステージ中央に向かうように斜め放射状に角度がつけられている。両翼でも首を回さずに観覧できるかなと思ったが、実際は前の手すりがステージ方向に垂直に走っていて、それにもたれるとやはり首を回すハメになる。小編成のオーケストラのコンサートに良い広さという印象だ。
出し物のブダペストオペレッタ劇場のオーケストラ楽員が30名くらい。ちょうどこのホールにぴったりの人数である。プログラムはコンサート形式のオペレッタのアリアや重唱のアンソロジーで、レハールのメリーウィドウ・ワルツから始まる、にぎやかめでたい正月用の公演。なんとなく古き良きウィーン情緒にしたるのが正しい正月の過ごし方となってしまった。本当はその当時のウィーンも、世紀末を予感させるエゴン・シーレの線のような社会不安が水面下でうごめいていたのだ。だから舞台の上での絵空ごとの恋物語が涙がでるほど冴え渡るのである。だから、われわれも正月だけは世過ぎの憂さを忘れることにしよう。華やかなバレーときらびやかなソリスト達。遠く日本まで巡業にやってくる縁起もののオペレッタ一座。20名くらいの歌手・踊り手が一曲ごとに違う趣向で演じるので、ヨーロッパのカフェ・テアトルでのボードビルショウを見ているような雰囲気にもなる。美男美女が歌って踊る正月。Dein ist main ganzes Herz. 舞台の上の絵空ごと。例えばレハールは両親はドイツ人だが、ハンガリー生まれで、当日のプログラムにはちゃっかりハンガリーの作曲家となっている。レハールの妻はユダヤ人だったがナチスに迫害されることはなかった。これはヒットラーが「メリーウィドウ」の大フアンだったからということらしい。ね、そうだろう?舞台の裏では人類の悲惨がうごめいている。
第2部は衣装をハンガリー風に換え、チャールダッシュ系の歌と踊りで盛り上がろうという趣向だ。しかし、にぎやかなのはいいが、ウィーン情緒とは明らかな落差がある。もともとチャールダッシュは民族舞踊で舞台の表も裏もない。皆で輪になってさわぐ、ただそれだけのための音楽である。ウィーンのオペレッタのような、のめりこむような絵空ごとの純粋な陶酔は望めない。その軽味は、舞台裏のおぞましい悲惨に支えられて飛翔するのだから。とまれ、ソリスト達は踊りながら歌える芸達者である。ここからは直接ハリウッドのミュージカルに連なっているのである。ウィーンの天才作曲家コルンゴールドが、ハリウッドの人気映画音楽作家になっていったように。
ハンガリー出身のエメリッヒ・カールマンの「チャールダッシュの女王」。1915年の作。限りなく歌と踊りのミュージカルに近い。音楽は空疎、というか完全に現在のありふれたリズムと和声感になり、私の耳には何らの音楽的情報も聞こえてこない。もちろん、ヨハン・シュトラウス2世の音楽も、ありふれた和声感とリズムには違いない。しかし、文化そのものとでもいうべき強烈な様式美がある。ハンガリー生まれのレハールでいうなら、冒頭に奏された「金と銀」序曲の、華やかだが抑えた序が終止し、やがておもむろに立ち現れてくるテーマの、紛れも無い予定調和的な思い入れはどうだろう?何が始まるか、我々は確実に知っている。新しい情報なんて何にも無いのだが、その知っているカタチにピタリとはまっていく快感は、様式美とでも言うほかはない。歌舞伎役者が見えを切り、客席から屋号が飛ぶ呼吸。伝統というか、文化というか、その時代の美意識が繰り返し演じられて、次第にひとつの型に煮詰められていくのである。そのカタチを演ずれば、暗黙の了解というように背後にある膨大な伝統なり文化なりの総体がいやおうなく感知される。レハールのワルツは紛れも無くウィーン情緒という膨大な色とにおいを暗示する、ひとつのカタチである。かくして、ウィンナ・ワルツは正月にふさわしい伝統を暗示する季語となるのである。
類型的だけど、それはそれでかなり御めでたい気分となり、改装後初めて来た西宮北口駅近辺を見て歩き、また県立芸術文化会館に戻り、館内、ホールの向かい側にあるフランス料理店イグレック・テアトルでキールから始める。
ホールでもらったパンフレットに目を通すと、それなりに面白そうな公演がならんでいる。足回りのいいホールで、いい企画があれば奈良から2時間以上かけて出てきてもいいか、とふと思う。オペレッタを見、食事をして休日を過ごす。まあ、中くらいだが、めでたい春といっておく。


2006.6.3(土)15:00 かやぶき音楽堂(京都府南丹市日吉町)

ザイラーピアノデュオ演奏会

p:エルンスト・ザイラー/カズコ・ザイラー

ベートーベン
 行進曲op45
 8つの変奏曲
 エグモント序曲op84
 大フーガop134
 七重奏曲op20

丹波の山間の静かで、のどかな農村に時ならぬ観光バスが出現、善男善女がぞろぞろと大かやぶき屋根の下に吸い込まれていく。うーん、なんという光景だろう。さっそく会場の外側では仮設テントが張られ、地元産の手作り羊羹を売っている。
なるほど、大きなかやぶき屋根である。桟敷の座布団の向こうに2台のグランドピアノ。客席は三層まであり、周囲に沿って一列分の板が渡してある3階に陣取ると後ろは屋根の萱が直接背中にあたる。乾燥した草っぽい萱のにおいと、ひんやりと外から木漏れてくる山の風に収まって、意外と胎内回帰的心地よさもある空間だった。
しかし、かやぶき大屋根をささえる図太い梁にじゃまされて、ピアニストはよく見えない。広くとられた舞台後ろの開口部から緑にまみれた明るい光が差し込み、譜面めくり担当の若い女性の胸元と首筋の透明な白さを際立たせ、鎖骨の起伏の微妙な影を艶やかに縁取っている。休憩では手作りケーキと大関酒造提供の発泡果実酒がふるまわれ、なんとも不思議なコンサートの舞台である。で、この雰囲気でオールベートーベンプログラム?なんか、ショパンの軽めのワルツとかにして、サロンコンサートを決め込めばいいのに、なんて思う。もっとも、演奏が始まれば瞬時に眠りこける聴衆には何だって同じかも、と少々いじわるく毒づいてみる。ま、でもかやぶきにショパンはやっぱり合わないだろう。無骨なベートーベンの肖像が田舎風の実直な建物にはやはりふさわしいのかもしれない。と、勝手にコンサートの企画意図をいじくりまわす。

ベートーベンが始まって聴衆がすぐ居眠るのも、七重奏曲の各楽章が終わるたびに拍手が入るのも、予想通りだった。隣の善女が演奏中にプログラムと一緒に配られた「日吉町観光案内」を拡げてしげしげと眺めているのも予想はしていた。残響のない木造家屋で、しかもピアノの弦の真上に陣取っている耳には、何らのゴマカシもないピアノのタッチが直接伝わり、多少ごつごつした響きになることも当然である。
しかし、この奏者は演奏会の中央にベートーベンの「大フーガ」を置き、観客の長い忍耐にもいっこうに頓着なく、極めて純粋に音楽に没入していくのである。
エグモント序曲でのピアノ連弾による音響はオーケストラの模倣以上にはならず、楽しみのための音楽である七重奏曲も、オリジナルの管弦のきらめきの華やかさがなく、ピアノの音響バージョンで聞くという興味の他は、音楽的にはいささか冗長な気もした。
ただ、大フーガのことを何とかして表現しておきたい。できれば、敬遠しておきたい曲だった。整合した形式や規則的なリズム、あるいは覚えやすいメロディーさえあれば喜ぶ聴衆のことを一切考慮せず、自分の内面に生起する想念を自分が納得する音の組み合わせだけで作り上げた、自分の内部の音楽にのめりこんでいく音楽である。聴衆のことも意識しなくなった晩年のベートーベンだけが世に出せる音楽である。
これをフーガというか?バッハの堂々としたフーガの入りと完結した図太い結尾はない。ただ、低音にフーガという形式への憧れのような痕跡があるだけだ。これは、あるいはラベルがウィンナワルツに対しておこなった「ラ・バルス」のような、バッハのフーガに対する独自のオマージュであるのかもしれない。自由な形式と渦巻くリズムがある。様式美を目指すのではなく、様式を打ち破り、ただ自分の意思が導く音楽だけがある。これは他のどの音楽にも似ていない、しかし独自の宇宙という他はない。ザイラーデュオの演奏に沿って音楽的なアイデアをたどっていくと、かすかにこの常軌を逸した天才が音楽として目指していた境地がほのかに見えてくる。和声やリズムや形式に拠りかかって仕上げる音楽ではない。少なくとも和声とリズムはある。フーガの入りもある。しかし、これは先に意思があり、後で和声とリズムに翻訳した音楽的企画にほかならない。べトーベンのその企みがほのかに見えたとき、生理的な律動の快感が背中を這いのぼって発汗する。

それにしても、何という破格の演奏会なんだろうか。初夏の一日の観光気分で繰り出してくる浮かれた聴衆に対し、ケーキと発泡ワインといささかの媚もない大フーガを振舞うとは。新聞にとりあげられ、丹波の観光スポットとなってしまった感のあるこの夫妻の演奏会は今後どのような展開を見せるんだろうか?
アンコールに演奏された同じく大フーガの前楽章のカンタービレを朗々と奏するザイラー氏には自分の納得のいく音楽を演奏してきたし、これからもしていくというしたたかな意思が感じられた。願わくは、本当に音楽が好きで心から演奏を楽しみにしている人たちだけの少人数の音楽会として存続すればいいと思う。でも、待てよ。実は多分、そのような本来の演奏活動はもちろん継続しているハズだ。マスコミを通じて広報する、年2期のこのような観光ツアー向けコンサートは、そのための資金集めと割り切って企画しているに違いない。まあ、そういうことだろう。あの聴衆に媚びるハズもないというイメージのベートーベンさんだって、資金集め目的の大衆向けの曲の出版を結構してるもんね、あのスカみたいな「戦争交響曲・ウエリントンの勝利」とか(笑)


2006.10.5(木)19:00pm フェニックスホール

東京藝術大学音楽学部卒業生による同声会大阪支部演奏会

藤井美希(pf)
 ラベル 「鏡」より4曲

木村華子(pf)
  ベートーベン ピアノソナタ第31番変イ長調
泉貴子(sp)
 プッチーニ 「ある晴れた日に」他オペラアリア4曲
伊藤あさぎ(as)
 吉松隆  ファジーバードソナタ(for as/pf)
奈良希愛(pf)
 ショパン ピアノソナタNo.2

東京芸大卒の新人達によるジョイントリサイタル。ピアノ3、ソプラノ1、アルトサックス1というステージ構成である。これまでフェニックスホールに足を運んだ演奏会はすべて奏者が顔なじみの、いわば仲間うちでの和気藹々としたコンサートばかりだった。ステージと客席が同じフロアにあり、こじんまりとしたサロン風のホールはそうした親密な演奏会にふさわしい場であるようだ。考えてみれば、演奏の合間の客席での交流もコンサートホールの文化的機能であったはずだ。昔いたヨーロッパの地方都市のオペラ座でも幕間に談笑する為のサロンが併設されていたのを思い出した。そういう意味では、幕間に久しぶりに会った知人と歓談したり、演奏後に出演者を囲んで談笑するような光景も本来的にはコンサートの楽しみに含まれるのかもしれない。
いずれも演奏家としては新人の初々しいステージである。

ラベルの「鏡」から4曲を弾いた藤井美希(pf)の演奏では、ラベルのピアノ曲の音響の豊かさが表現され、つやのあるピアノの音色の美しさが感じられた。もう少し繊細でソフトな表現を極めれば全体としての演奏のメリハリが出来てくると思われる。

木村華子(pf)はベートーベンの後期の大曲、31番のソナタを弾いた。意欲的で真摯な演奏であり、かなり自由な幻想にのめりこんでいるような後期のベートーベンの難曲を確かな造形力で演奏し切った。解釈にあいまいな点はなく、いわゆる真剣勝負のような気迫も感じられ、演奏姿勢に好感を持った。最終楽章のフーガーのクライマックスの力のタメへの心理的タイミングがわずかに早く、ドミナントの最終結尾が多少息切れした印象だったのも、ストレートな音楽解釈の追及故という感があり、ネガティブな感じにはならなかった。ただ曲自体の性格にもよるが、あまりにも演奏者の作品への取り組みに遊びがなく、まあ、客席に媚を売るということではないものの、演奏に「華」を感じさせる資質ではないようである。演奏家としては今後、客席をどう意識するかが課題となるようだ。

一方、泉貴子(sp)はイタリアオペラのアリア(プッチーニ「ある晴れた日に」他)を歌い、前ステージとは対照的なサロン風の楽しむ演奏会を演出した。ドラマチックな声量がある豊かなソプラノで舞台に映える容姿もあり、イタリアオペラの高揚のさわりを客席に感応させた。今回のステージでは演技力は未知数であるが、安定した歌唱力でオペラの中堅的な歌手として通用するのは間違いない。おしむらくは、発声してからの声ののびは豊かだが、声の出始めの一瞬から音楽的な声に達するまでに若干のズレがあるようだ。最初のトリガー自体からすでに磨き上げられた音色であれば、もっと素敵なのにと思えた。

伊藤あさぎ(as)は軽快な黒のノースリーブ姿で登場し、そのままジャズのセッションが始まるのか、と思わせる高揚への期待を抱かせた。考えてみればアルトサクソフォーンのクラシックのソナタのステージは初めての体験だ。前回に行ったアルトサックスの演奏会は渡辺貞夫だった。ジャズの豊かなメロディー楽器としてのイメージしかないので、伊藤がどのような、そしてどのようにソナタを演奏するのかの期待が高まるワケである。今回の演奏会では新人の演奏を比較する機会になったが、ステージでは音楽そのものにプラスした何かが必要であると思える。それを先にも使った「華」という言葉で表現しても間違ってはいまい。分析すればいわゆる「聴かせる」演奏であったり、美貌であったり、カリスマ性であったりするのだが、このことを最初から意識した新人は稀有な存在であるはずだ。伊藤がサクソフォーンを持ってスラリとステージに立ったとき、意図せずこのような「華」を感じさせたのは、サクソフォーンという未知の楽器の奏者であることの副次的効用であるのかも知れない。
吉松隆のファジーバードソナタはこの楽器の多様な可能性を効果的に引き出した魅力的な曲だった。ダイナミックなリズムを刻むかと思えば、尺八風のほのぼのとした音色を奏で、メカニックな現代性とポピュラーな音楽の楽しみが適度に組み合わされ、面白く聞けるソナタだった。この巧妙な曲を伊藤は安定した技術と音楽性で演じきり、サクソフォーンという楽器の表現力に目を開かされた思いである。
元来クラシックのオーケストラ楽器としては新参のサクソフォーンは、フルート、オーボエ、クラリネットという純「木管」楽器ではなく、最初から「金管」の「木管」楽器である。このため音楽史的な先輩に比べ圧倒的な音量と、広い音域を手に入れている。特筆すべきは低音から高音にいたる広い音域でも音色の一貫性が保たれていることだろう。高音になるとすぐやせ細るフルートや、倍音的にクセのある音色になるクラリネットにはない特徴である。まるで人声のような柔和さと自然なビブラートが可能なので、歌うようなメロディには最適だ。しかし、意外とオーケストラで使用されている例が少なく、ビゼーやラベル以外には思いつかない。今回の演奏を聞きながらしきりにこの楽器の可能性について考えさせられた。
幅広い音域で親和性のある音色を維持できること自体が問題なのかもしれない。クラリネットやオーボエの音色にはクセがありすぎ、他の楽器との親和性がない。しかし、このことはオーケストラの中では、他の楽器とのアンサンブル中でも音色が際立って聞こえてくるという利点にもなる。サクソフォーンの「ふくよかで、甘い」という月並みな形容詞がついてしまうような音では、いくら音量があってもオーケストラ中では内声として埋もれてしまうのではないか。アンサンブル中で存在を誇示する楽器ではないのだ。もちろん、弦を含まないブラスアンサンブルではバイオリン一族に優に匹敵する幅広い音域での楽器セット(ベース・テナー・アルト・ソプラノ、とソプラニーノも確かあったな)が可能なので、音楽のコア部分を形成する重要な位置を占めるのだが。伊藤はこのブラスアンサンブルの出身であると聞く。ブラスアンサンブルの生理的な快感を伊藤は自分の音楽のコアとして持っているようである。
繰り返すが、アルトサクソフォーンの音域は人間の声域をほとんどカバーしているし、自然なビブラートをかけた柔和な音色もかなり人声に近い。この楽器で自在に表現できるということは、古今に現存するすべての歌謡を唱歌することができるという風に言い換えてもよかろう。ピアノのようなメカ二ズムで広域をカバーするのではない。自分の息と指で作音するのである。音楽の演奏以前の、音色を奏すること自体に生理的な快感がある。楽器を奏する愉悦とは自己拡大感に他ならない。伊藤の演奏からはこの楽器を自在に操作する表現の喜びがあり、この愉悦が聴衆の生理面に感応させ、音楽の楽しみを肉体の方からから支える構図が出来上がる。ピアノ演奏にはない吹奏楽器の特権といってもよい。
演奏が終わり拍手が静まると、ざわざわとした客席の会話が耳に入ってくる。「すごい肺活量だったね」というような声も聞こえる。そうなのだ、すごい指の動きというよりも、この肺活量という表現が聞くものの、より肉体的な感応を呼び起こす。管楽器奏者はこの意味で鍵盤や弦の演奏家よりも明らかに優位である。このこともあって、伊藤の演奏は客席に快い音楽の興奮を常に与え続けていた。この楽器の演奏をじっくり聴きたい、という意欲を刺激された演奏だった。当日のピアノ共奏者(羽石道代)も、かなり真っ黒な楽譜をエネルギッシュに好演していたことを付け加えておく。

さて、トリは奈良希愛(pf)のショパンのソナタNO.2が組まれていた。ピアノではもっともポピュラーな耳慣れた曲で、アマチュアやプロのピアニストも混じっている客席の耳を意識するとステージで演奏するには新人ならば躊躇する気にもなるところである。しかしいざ演奏が始まると明らかにこの人は並の新人ではないことがすぐに明らかになる。図太く、クリアにドラマが進行するショパンが提示されたのだ。例えば、第一楽章の葛藤が終結すると、一瞬の息を吸い込む間を置いただけで、第2楽章のリズムがするどく切り込む。楽章間のとぼけた客席の身じろぎでドラマが中断されることを避けたのかもしれない。しかし、何よりもこの劇的で強烈な連打の迫ってくるリズムをたたみかけ、客席にぴんと張った緊張感を維持させるのが意図だろう。その効果は見事に客席を支配する。逆に、重い葬送行進曲のトリオ、回想的メロディのテンポでは悠揚迫らざるテンポで、聴衆の葬送行進曲へ回帰へと逸る心を押しとどめる。奏者は演奏空間の状況に対応し、臨機にテンポをコントロールする。奈良は聞き入る聴衆の無言の心理と対決し、自分の表現へとコントロールするのである。ステージとは聴衆との対決でもある。この悠然たる確信に満ちたテンポを聴衆との一切の妥協なく奏しきって初めて、その後にとうとうと流れ出る終章の無窮動が全てを包み込んだカタルシスが見事に活きるのだ。見事な演出がある。音楽的企みといってもいい。解釈するだけでは演奏家ではない。もっと積極的な演出が演奏家には必要だ。奈良の演奏からは明確なメッセージが読み取れる。
ドラマが語られ、演奏が終わる。音楽の魔術から醒めた聴衆の拍手が続き、奈良が再び舞台すそから現れ答礼する。ここで、改めて思い出すのだが、このステージの前に演奏した新人達の答礼はかなり素っ気ないものだった。音楽を演奏し終わってもコンサートはまだ続いているのである。答礼の作法は音楽には直接関係しないのかもしれない。しかし、この儀式は大事なコンサートの要素でもある。新人演奏家達の後で奈良のステージを聴く時、伝えたいメッセージを聴衆に具体的に提示できる者が演奏家なのだと再認識した。「具体的に」とはもちろん視覚による情報も含むとの謂いである。

全体として新人演奏家のそれぞれの個性が見え、演奏家とはどういう音楽家なのかがほの見えたコンサートだった。伊藤あさぎ評がちと長くなったが、当方の縁者でもあったりするので、まあその辺はご容赦^^。


2006.11.18(土)7:00pm ザ・シンフォニーホール

ラファウ・ブレハッチ ピアノ・リサイタル

p:ラファウ・ブレハッチ

《オール・ショパン・プログラム》
 バラード 第3番
 24の前奏曲 第1番〜第12番 op.28-1〜12
 ポロネーズ 第7番「幻想ポロネーズ」
 3つのマズルカ op.50
 ピアノ・ソナタ 第3番
アンコール:ワルツ1、マズルカ2

ショパンコンクール優勝のポーランド新鋭ピアニストでルックスも可。賑々しくも華やかなオールショパンプログラムのコンサート。若い女性も多い。・・と書くと少しイヤミに聞こえる?
久しぶりにコンサートホールに行き、ロビーに座って客層を見ていると夏に行ったコンサートのトラウマがぶり返す。座席近くに絶えずガサガサと動いている観客が居、音楽を聴こうとしている当方の視神経と聴覚にさまざまな違和感を運んでくる。異物を放射している隣人は周囲の人のことには無頓着で、ただ悦にいっているのである。こちらは音楽に入ることが出来ず、そのこと自体が少しずつ怒りを蓄積させていく。そしてついに制御可能な閾値を越えてしまう。演奏中のホールから逃げるように退席。どうしても周囲への配慮が出来ない隣人への怒りにまかせてのあてつけという衝動もある。ロビーに逃れてこの世とのかかわり方のどうしても調停しきれぬ部分を思いやり暗澹としていると、追いかけて出てきた同行者が報告してくれる。違和感の発信者がホールを途中退席した私を「なんていう非常識な人だ」と非難していたと。あなたの幸せは私の不幸に直結し、私の抗議はあなたを不快にさせるだけ。どういう構造なんだ、この世というシステムは。

ブレハッチの演奏が始まっているのに、狭い通路を挟んだ隣席の男がボールペンをぱちりといわせ何かを書き込んだり、プログラムやパンフレットを取り出し、顔面に近づけて読んだりページを繰ったりしている。つまり絶えずがさがさと動いているのだ。うわぁ、やめてくれ。また当たってしまった。私の神経はずたずたになりもう音楽どころではない。たまらず身振りで「もう少しおとなしくしていてくれませんか」と合図するのだが、本人は何事かよくわからない様子である。そうなのだ。実際は私の方が他人の行動に過敏に反応してしまう性癖があるということらしいのだ。目を瞑ればいい。がさがさ音が気になるなら耳栓をすればいいと?まさか!しかしコンサート会場で耳栓をすればいい、と本気で忠告するような人も居たりする。ことほど左様に人は違っている。普段は職場や店で、場の雰囲気や多勢に合わせて最低限の定型会話を成立させているが、ルールが違う場面ではどういうコミュニケーションが可能なんだろうか?「話せば分かる」という言い方がある。が、それは違うだろ。「話せば『違うことが』分かる」じゃないか?だからなるべくお互いに個人の領域には踏み込まないで生活していきたい。「表」に出るときには最低限のその場のルールは守ろう。それでやっと理解ができる。たとえ納得はできないにしろ。
うっと。トラウマは消えない。演奏会には演奏会のルールがある。演奏が途切れても曲が終わったと思って勝手に拍手しない、とか。退屈だったらアンケートを書いたり、パンフレットを読んだりしないで、静かに眠るとか。つまり、あなたの都合に周囲の他人を巻き込まないこと。

ソナタ第三番の第一楽章が派手に終わると機械的に拍手をする人がいた。ま、いいでしょう。その人は感動し本当にそこで拍手したかったとしよう。けれどもその拍手を聞いてつられて会場全体に拍手が始まってしまった。ええい、ばかばかしい!自分が良かったと思ったら拍手すればいい。他人が拍手しているから、といって拍手することはない。あのぅ、もしかして、この人たちはショパンのソナタ第三番を今までお聞きになったことがないんでは?いや、ソナタ自体何モノであるのかご存知ないのでは?
で、大曲のソナタ第三番が終わると、ひときわ盛大な拍手が巻き起こる。
言わせていただければ、ブレハッチにしてもソナタもよく知らない人達に盛大な拍手をしてもらってもあんまり本気になれないと思うが。しかし、会場はアンコール、アンコールの拍手。3曲もサービスし、それでも拍手は鳴り止まない。まったく。

云々、とこれだけイヤミを書かねば当方の感覚のバランスが回復しない。いや、また思い出してしまった。私の人生って常にこういう風だった。どのようにしたらこの世のありさまを全肯定し、のほほんと惚けていけるのか。

ブレハッチのバラード第三番は限りなく幻想曲風に始まった。終始特徴的なリズムの線に沿って直行する以外にないと思っていた当方には意外な切り込み方だった。しかし、別段あらたな展開が読み取れるわけではないが、感性の優しさが仄見える。ポロネーズやソナタはけれんみなく、過剰な演出のない、いわば優等生的な演奏である。派手に湧かせるタイプのピアニストではなく、どちらかというと内向的な表現に向いているのではないか、とも思わせる。
何よりもこの人のマズルカが面白かった。というか、マズルカで初めてこの人が自分の独自性を出してきたという感じである。プログラム中3曲とアンコールの2曲。いづれも特異な情感を内包している小宇宙である。うがった言い方をすれば、ポロネーズやソナタでは未だ踏み出せてはいないが、比較的自由で即興的なマズルカでは自在に自分の音楽を表現し切っていると見えた。華やかなコンサートピアニストとしてキャリアを踏み出した期待の新人だが、本当はマズルカを小さな個人的なサークルで地味に弾いているのが彼のピアノのスタイルであるはずだ。

偉大なサロンピアニストだったショパンはバラードやポロネーズ、あるいはソナタをひっさげ喝采を得ていた。しかし、どう見てもマズルカはサロンで喝采をあびるための曲ではない。ショパンはかなり病的な神経症だったらしい。なるほど、華麗で情熱的な大曲もショパンの一面であるが、誰もいない部屋では本当は一人でマズルカを弾いていたのではないだろうか?もちろん、無難にただまとめただけの無内容な曲もあるが、マズルカの中にはコンサート用としては無骨で、洗練されていないナマの音形が露出し、不安定な調性感をそのまま提示しているものも多い。ブレハッチがアンコールの最後に弾いたOP17、No4の終止はどうだろう。イ短調が基調なのに中途半端なFの長和音が最後に置かれている。半終止ではない、未終止。ふと、あきらめた、というように終わっていく音楽。「子犬のワルツ」では割れんばかりの拍手をした会場なのに、誰も拍手をしようとはしない。ん?みなさん、どうしたん?
「子犬のワルツ」で迎合し、盛大にコンサートを閉じる気にはなれず、拍手を取れそうにもない地味なマズルカを最後に演奏したブレハッチ。そだよね。「子犬のワルツ」で終わるのは卑怯なゴマカシだもんね。表にでればイヤでもみんなに合わせるけど、それでもちょっと言っとかないと。自分のバランスが保てないよ。

図書館で「現代のエスプリ」のバックナンバー「アスペルガー症候群を究めるI,II」を耽読。


2006.11.23(木)2:00pm ザ・シンフォニーホール

京都市交響楽団創立50周年記念 大阪公演

大友直人指揮
趙静(チェロ)
京都市交響楽団

ドボルザーク:チェロ協奏曲ロ短調
マーラー:交響曲第一番「巨人」
(アンコール)ブラームス:ハンガリー舞曲第一番

京響の木管・金管のメンバーが唇ならしで思い思いに音を出している。ドボルザークやマーラーの断片が聞こえてくる。それはそうなんだけど、やはり当日のプログラム中の曲の引用はあまり事前に聞きたくはない。例えばド:チェロ協奏曲第一楽章の第二主題なんてホルンの最初の2音符が聞こえれば、ほとんど全曲が引きずり出てくるくらいの暗示性がある。ノスタルジックなこの曲の真髄。曲の進行に従って森の奥から響いてくる遠い呼びかけ。当方は、初めてこの声を聞く時の新鮮な懐かしさへと導入されるよう意識を用意したかった。しかし、事前にもうネタが割れてしまったのだ。うーん、困りまっせ、練習熱心なのはわかるけど。
とか、それでも華やかなオーケストラを予告する幕前のざわめきと聞き、意識をこの贅沢な音響の楽しみに向かって高揚させていく効果もあるかな、とも思ったり。思いつく勝手なことを喋りあう多少軽薄な会話自体も久しぶりのオーケストラ公演に既に軽く興奮している所為かもしれない、なんて。

チェロの趙静は中国系の若い女性奏者である。新進気鋭という年齢だが、もちろんテクニックは完璧で最初の音から音楽に入って行けた。さて、なんとなく(^^)注目の第一楽章第二主題。ホルンの呼びかけに応じ朗々とチェロが入って来る。実に悠然としたテンポである。オーケストラのざわめきを相手に十分に意識をため、ねばりがある音色でたっぷりと歌っている。ねばるといってもビブラート過剰の感情過多に陥ることはない。張りと艶がある堂々とした歌いぶりだ。しかし、残念なことにオーケストラの無骨さがここで気になってしまう。趙の音楽性に伴奏部分が呼応してはいない。微妙な音量やテンポのゆれで表現される音楽的な表現力がチェロの域には達していない。だから、どことなくオーケストラの進行にチェロが「ため」ているような印象がある。ちょっと待って、もう少し歌いましょうよ、とか。
この部分で明らだが、趙は歌うことの出来るチェリストである。第二楽章や第三楽章の最後でも実に自然な歌い方である。ドボルザークは演出過剰感情過多になると、音楽自体が安っぽく下品に聞こえてしまう場合がある。だから、歌うのはチェロだけで、オーケストラは冷静に音楽を刻んでいく、というスタイルも可能か、と思う。しかし、どうみたって趙のチェロの方が自分の音楽を主張しているのに、オーケストラは無機的に聞こえる。ま、いいか。ここは趙のチェロの統一した音楽性にブラボーを快哉しておきたい。 久しぶりの自家製ブラボーコールは、ちょっと待て、この場合は彼女だけにだから「ブラバー」と活用すべきか、とイタリア語文法意識が途中で邪魔をし、サマにならなかった。すんません。
オーケストラにはマーラーの「巨人」の快演の期待が高まる。マーラーにしては若書きで、以降の交響曲のようにたっぷりとマーラー的情念へののめりこみがなく、リストの交響詩からあまり出ていない曲である。しかし、てらいを恐れない若さゆえの馬力がある。一度誰だっけ(ジェームズ・コンロン指揮ドレスデン歌劇場管弦楽団2002.04.10)の演奏を聴いてそれはそれで非常に面白い曲であると再認識した覚えがある。
そして、最初の夜明け前の部分が始まる。夜のかすかな星の輝きを暗示する弦の高音の弱奏。しずかに森のざわめきの気配が満ちてくる。・・・しかし、どうしてもバランスが良くない。当方としてはこの曲に嵌りたくて最適な額縁を用意していたのに、なにか違う。デリケートな弱奏がどうもしっくり馴染んでくれない。曲は高揚し、若者が目覚め人生の戦いが始まのだが、うむ、戦いの音楽はよく聞こえた。大友の指揮で京響はよく戦っていた。しかし、強いだけじゃん?という思いは消えない。挫折や夢想の、いわば後期のマーラーがはまり込む狂気の夜のイメージにつながる執拗な強迫観念が聞こえてこない。いさましいだけの音楽との印象。
こともあろうに(!)最終楽章では視覚的な演出があった。木管奏者が管の下部を正面に誇らしげに持ち上げ高奏する。エキストラも含め(ウチ3名若い女性)8名二列のホルン奏者が立ち上がり、金管の輝きを会場に照射する。しかし、わからん。その部分でも木管もホルンも内声だし、座っているトランペット、トロンボーンの方が派手に聞こえてるんじゃ?第一楽章でトランペット奏者が曲の始まりよりずいぶん遅れて登場するのは、別にトイレで時間がかかってしまったのではなく、マーラーの指示で楽屋でアルバイトしていたのだけど、ここの演出は大友さんでしょう?
と、どこか腑におちないまま演奏が終わってしまった。
盛大なブラボーコールがホールを満たす。大友が各パートの楽員を個別に指示し答礼をさせている。うむ。そこまでするほどの快演でもなかったような。あ、今回は50周年記念の顔見世口上なんか。そうか。と私自身は少々醒めてしまい、拍手もおざなりでした。すいません。


2006.11.25(土)3:00pm ザ・シンフォニーホール

スタニスラフ・ブーニン ピアノリサイタル

p:スタニスラフ・ブーニン

ヘンデル:調子のよい鍛冶屋
J.S.バッハ:イタリア協奏曲
D.スカルラッティ:ソナタ L.366, L.171, L.422, L.465
シューベルト:即興曲変ロ長調
シューマン:Bunte Blatter No.1, No.2, No.3, No.11, No.12
ショパン:幻想ポロネーズ
(アンコール)
 ショパン:ワルツ嬰ハ単調
 スカルラッテイ:ソナタニ長調

会場は7割方の入り。嘗てのブーニンブームの熱気はもうない。カリスマ型ではなくアイドル型の超人気ピアニストだった、あのブーニンは今どんなピアニストになっているんだろう。このプログラムを見てもいったい何が弾きたいのか良く分からない。まあ、ベートーベンやモーツアルト弾きではないんだろう、というだけか。ピアノを習っている人が一度は弾くような曲を集め、模範演奏して見せるような趣旨かも、なんて意地悪い見方もできてしまう。
実のところ私は初めてブーニンを見る。長身で知的な紳士で少し病的な印象。頭を心持かしげて歩いている。ピアノに向かい演奏を始める前には常に胸ポケットから取り出す布で鍵盤を拭く。ときには「クリン」と打弦音がするくらいごしごしやったりする。ついでに汗をふく。演奏スタイルも颯爽という印象ではない。だいたい頭を鍵盤に傾けていて、思い入れたっぷりと大げさに正面をにらんだりはしないのである。
ヘンデル・バッハ・スカルラッテイ、シューベルト、シューマン、ショパン。一体何が弾きたいの?と疑問を持っ選曲だが、それはそれで、いわばソツなく、もっといえば、ショパンの幻想ポロネーズはさすがにツボを心得た小気よい演奏だった。それだけなら天才ピアニストの栄光とその後のアンチクライマックスの物語を捏造でもするつもりだった。しかし、私はスカルラッテイのソナタの演奏に目を奪われた。
よく見れば前半のステージのプログラムはすべてピアノ以前の楽器のための曲だった。しかし、ヘンデルやバッハの曲は通常のピアノへのアダプテーションの域で終始し、特に、たとえばグレングールドのような強烈なピアノ化への意図はない。しかし、スカルラッティの4曲のソナタでは、極限までピアノという近代の武器の性能をぶつけ、壮麗な音響を引き出した印象がある。この響きからはクラシックやロマン派という理屈っぽく、しちめんどくさい経過を飛び越え、一直線に現代音楽の音響へとつらなる感性がある。クラシック音楽はこれ以降ドイツ系の作曲家によって限りなく思弁的な、あるいは文学的な芸術へと傾斜していくのだが、もしスカルラッティの方向性が主流になっていたとしたら音楽史はどうだっただろう。少なくとも100年は早くビートルズやロックンロールが生まれていたのではないか。そしてミニマルミュージックも。単純で特徴的なメロディラインとリズムの即興的な繰り返し。後のモーツアルトやベートーベンでは考えられない和声と形式。理論ではなく、感性だけで即興していく音楽である。ブーニンの演奏はこの時代にはとても実現できなかった音響のダイナミズムに満ちていた。スカルラッティの音楽には大脳皮質ではなく、小脳を直撃するスリリングな音の試みが溢れている。バッハで見せたような古典的「模範演奏」ではない。音響の現代性を表現することでブーニンはスカルラッティ演奏の新しい可能性を見せてくれたのだ。
と、まあ、私一人が悦にいっているのだが、天才といわれたピアニストが今どういう演奏家になっているのかというちょっとした懐疑に私なりの得心がいった思いがある。あまり熱狂的とはいえない会場の雰囲気の中で、最後にブーニンはアンコールにスカルラッテイの、これは古典的に清涼でおとなしいニ長調のソナタを弾き演奏会を閉めた。アンコールで最後に何を弾くのか?演奏家が自分が本当に弾きたいものを、口直しというような意味も込めて淡々と演奏することもあるだろう。ブーニンだって嘗ての熱狂した満員のホールのことを忘れているわけではあるまい。自分の演奏家としてのスタイルを確立する為には、超人気ピアニストであったという事実に縛られ、難しい局面もあったに違いないと勝手に思うのだ。うむ。本当の自分と他人に見せなければならない自分。おっと、最近どうもそのような感慨が多いな。

トーマスマン「トニオクレーゲル」を再読。


2006.12.2(土)2:00pm ザ・シンフォニーホール

レニングラード歌劇場管弦楽団演奏会

アンドレイ・アニハーノフ指揮
ピアノ:ウラジミル・ミシュク
レニングラード歌劇場管弦楽団

チャイコフスキー:交響曲第六番「悲愴」
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第二番
ボロディン:韃靼人の踊り
(アンコール)
ショパン:ノクターンNo.20(ピアノ)
グラズーノフ:バレエ音楽「」より
チャイコフスキー:バレエ音楽「白雪姫」よりロシア舞曲

最近のオーケストラではいつも見かける東洋人風メンバーが見当たらない。いかにも古典的舶来オーケストラで、かえってそれがマイナーな印象になるのは時代の皮肉か?
プログラムの順序が通常のオーケストラコンサートとは逆。交響曲が前座のステージ、協奏曲と同じステージで最後に簡単な管弦楽で閉じる。結局、アンコールも含めて派手な舞曲のドンちゃん騒ぎで閉幕するのが華やかさを演出する歌劇場オーケストラらしくはあった。

通常は40人規模と思える歌劇場楽団に6本ものホルンを備えるという大所帯を集めて、チャイコフスキーの「悲愴」を熱演するのだが、やはり管の質とバランスが悪い印象がある。しかし、音楽的には仕掛けたっぷりなこの曲をうまく演出していて、華やかなオーケストラの響きを楽しめたのだ。ここまでは私はコンサートの楽しみを味わっていた。世の幸福のひとつを味わっていたといえる。

いつものことだが聴衆が悪すぎる。格別なスターがいるわけでもなく、世界のトップランクのブランドでもないこのクラスのオーケストラを聴きに来るのは、管弦の響きが好きな、オタクとまではいかなくともそれなりの音楽フアンだと思っていた。「悲愴」の第三楽章のたっぷりとした大オーケストラの派手な演出が雰囲気を煽り上げ、どうだというばかりに終止する。本来ならばここの高揚を持続したまま間髪を入れずに最終楽章の緊張感に移行していくべきだったのだ。しかし、ウラジミール・ミシュクは汗を拭き、次の緊張に移行する多少の間をおいてしまった。つまりは、そこに心無い聴衆がつけいるスキを与えてしまったのだ。これで終わったのだと理解した誰かが拍手を始める。と、どうだ。会場の大半が「つられて」あるいは「ああ、終わったんだ」とばかり盛大な拍手を始めるのだ。思わず我を忘れ「まだ終わってない!」と周囲に向かって叫んでしまった。
情けない光景である。一体、このポピュラーな交響曲も知らないでこのクラスのオーケストラを聴きに来る聴衆の大半の正体が私には見当がつかない。この曲の第四楽章の緊張感を腑抜けた拍手で台無しにするのは明らかに演奏妨害である。自分が演奏を妨害しているということを知らない無邪気な拍手である。

「作法」という言葉がある。それぞれの場にはそれぞれの作法がある。海外に行けばそれぞれの国の作法がある。歌舞伎には歌舞伎の、能には能の聴衆の作法がある。もし、作法を心得ていなければ、最低減「場」の雰囲気を尊重する、それを損なわないように行動するという謙虚さを心得るべきである。しかし、「金を払えば」自分もここに一個のメンバーとして参加し、自分の行動様式を押し通す権利があると心得る人が多すぎはしないか?パリのノートルダム寺院でミサ中にもかかわらず大声で仲間を呼ぶ観光団、ブティックで買うつもりもないのに品物を素手で触りまくる買い物客。少しでも注文した品物が出てくるのが遅いと「早くしてよ!」と日本語でののしる食事客。公共図書館で騒ぐ子供を放任している親達。自習禁止という張り紙があっても全ての閲覧席を占拠して、問題集に取り付いている高校生達。駐輪禁止の立て札の前に放置している自転車。きりがないが、ここでの連想を呼び込んでいるのは「無作法」という言葉である。
作法を心得よ。知らなければその場の雰囲気を尊重し、慎重に行動せよ。

本当に気持ちのよいコンサートに遭遇することがめっきり減ってしまった。書くのもイヤなので前回は省略したが、やはり咳がでてもハンカチで押さえる配慮ができない客、絶えずがさがさと動き回る客、演奏中に平気でパンフレットをばさばさと閲覧する客に神経をずたずたにされていた。
一体どうしたというのだろう。どうしてこのような無作法な客がここまで増えてしまったのだろう。月並みではしょりきった言い方だが、結局、この国では経済が文化を駆逐しきってしまった、と言う以外にない。無念なことだ。さりとて、私が自分で文化を擁護することはできない。私だって生きている基盤は文化ではなく経済でしかないのだ。思わず叫んでしまった自分を「場違い」と逆規定し、何も言わずただこのコンサートを最後まで見ていよう。少なくとも、「金を出して」見に来ている善良で無邪気な大半の人たちをことさら不快にする権利も、「この金満ブタどもめ」と心中冷ややかに聴衆を見下している指揮者・演奏者に弁明する義務も義理も私にはない。この国の現在に多少の責任を感じたとしても、もう私は排除されてしまった人間である。何らの共通点もない人たちにはできるだけ関わらず、言いたいことがあっても、共通理解がなされるという虚しい期待を持たず、ただ目をそらせておこう。

こんな状態でコンサートに熱中できるわけはないが、とにかく最後まで着席し見極める。どのみち、逃げ切ることはできない。最後まで見続ける人生。
ラフマニノフのピアノ協奏曲。ピアニストは好演していたと思う。最初はオーケストラとのテンポの齟齬があったが、この曲ではそのようなことより聞かせ場の演出が出来ていれば可なのだ。壮大で空疎な協奏曲。それでも私は管弦の響きが好きだ。いつだって管弦とピアノとの掛け合いは心を高揚させてくれる。「この人たち」さえいなければ。
ピアニストは数回のカーテンコールの後、ショパンの感傷的なノクターンを、それこそロシア的哀愁たっぷりに嫋嫋と演奏する。そして、中間部のちょっとした終止でさえ、すきあれば拍手をしようとする無作法な「人たち」が待ち構えている。ええい!うるさいハエのごとき、この!

ボロディンの「韃靼人の踊り」からそのまま盛大なオーケストラのアンコール演奏にはいりグラズノフやチャイコフスキーの華やかなバレエ音楽のさわりが披露され、このオーケストラや指揮者が、そういうスペクタクルのスペシャリストなんだなと思わされる。華やかで盛大な管弦の響き。熱狂する聴衆。それでいい。それでいいのだが、この馬鹿騒ぎの中で完全に冷め切っている自分が無念で惨めである。

屈原漁夫辞を心に嘯いてみる。


2007.1.7(日)2:00pm ザ・シンフォニーホール

21世紀の新世界

金聖響 指揮
大阪センチュリー交響楽団
ヴァイオリン:佐藤俊介

チャイコフスキー:エフゲニー・オネーギンのポロネーズ
チャイコフスキー:ヴァイオリン協奏曲ニ長調
ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」
(アンコール)
 バッハ:無伴奏vnパルティータ(佐藤)
 ヨハン・シュトラウス:ピッチカートポルカ

年末に千円の廉価版で昔のレコードの復刻版を買った。アンタル・ドラティ指揮ロンドン交響楽団でヤーノッシュ・スタルケルの弾くドヴォルザークのチェロ協奏曲。1962年の録音である。何を隠そう、当時この新譜レコードを買ったことが私のクラシック音楽の聞き手としての出発点になったのだ。ヨーロッパを見たこともない高校生だというのに、ボヘミアへのむせ返るような圧倒的なノスタルジーに引きずり込まれてしまったのだ。ここで自分の内なる性向の核の部分の何かが摺りこまれ、この胎内回帰的無明の悦楽に浸るため文字通りレコード盤が擦り切れるくらい毎日聞いていた。特に第一楽章の第二主題あたりを何回もかけたので明らかに盤上でその部分の色が変っているのを発見し、恐怖した。よく聞けばこの部分に針音の雑音が湧き出している。なんせレコードを一緒に聞いたハズもない母の鼻歌にもこの部分のメロディが登場してしまうくらいである。
廉価版のCDで往年のシュタルケルのドヴォルザークを発見した時、もう一度聞いてみたいということよりも、40年前の高校生である自分に「もうこれで擦り切れることはない」という安心感を与えるために買ったのに違いない。
ところで、そういった狂おしい若年の熱中は当然のように反動を呼ぶ。チャイコフスキーやドヴォルザークの音楽の感情過多風の音楽が受け付けられない状態がこの後永くつづいた。生クリームたっぷりのケーキを食べ過ぎたか。でも最近やっと人並みに結婚し、チャイコフスキーとドボルザークの演奏会でもホイホイと行くようになった。ま、加齢効果ですね。つまり赤瀬川源平の言う老人力というか。ちなみに私の連れ合いは演奏が始まると同時に意識を非現実方向に飛翔させ、終わるまで過不足なく居眠るというコンサートの達人である。どうやら加齢効果のおかげで割りとふつーの人生にかろうじて滑り込めそうである。
ん?「21世紀の新世界」と?
19世紀がロマン派感情過多の時代であるとしたら、20世紀は機能主義的であり、社会的には生産や経済の効率が優先されてきた。21世紀では大量生産と経済主導の世界への反省から、質朴だが多様な価値が並存する世界になるべきだと当方は想定しているが、このタイトルを見、そういったイデオロギーの問題を提起してはもちろんいけない。単にこの楽団の「センチュリー」を見て思いついただけ、じゃない?

大阪センチュリー交響楽団はよくまとまった手堅いオーケストラである。人数を抑えたヴァイオリン協奏曲の演奏では、管楽器が独奏ヴァイオリンのコン・ソルディーノの弱奏につりあうだけの音量に抑えることができず、弦にくらべて管楽セクションが多少無骨な印象を与えた。その他目立った特徴はないが、安定した水準の演奏力があり指揮者を得れば好演が期待できるだろう。21世紀への展望からいえば、このような軽快な楽団もあり、重厚な老舗オーケストラもあり、という多様な選択が可能な世界が望ましいのである。

金聖響は指揮棒を持たず、両手の表情が豊かなカッコいいスタイルの指揮者のようだ。さわやかなマスクもあり、ステージでは視覚的に颯爽としてひきたつ。スター性は十分と見た。
チャイコフスキーの協奏曲で独奏した佐藤の音色は清新でいかにも若くはつらつとした演奏で、小気味よい。チャイコフスキーでは粘っこい演歌風のアクの強いガシガシした演奏もアリだと思うが、つまり19世紀ビルトオーゾ風ってヤツね、それはこの人のスタイルではない。アンコールにバッハの無伴奏ソナタを端正に、真面目にといってもいいが、弾いていたことでもこの人の資質はあきらかだ。実を言うと私は弦楽器では大げさでビブラート過剰気味の演奏も楽しくていいと思うのだが。←おいおい^^;
そんなに技巧を見せびらかすような受けねらいの演奏ではないが、第三楽章ではオーケストラと16分音符の音型の掛け合いがあり、ソロで合いの手を入れる部分では肩を突き出してヴァイオリンをさっと持ち上げ、オーケストラに割り込むというようなアクションも出る。オーケストラとのやり取りを楽しんでいる雰囲気があり、気持良くステージを盛り上げた。なかなか余裕のある演奏ぶりである。

金聖響の「新世界」は21世紀風にスマートな演奏だった。なに?よく分からん?そか。
つまり感情過多でもなく、機能的即物主義でもなく、ほどほどに抑制された演奏である。それでいて細部の聞かせどころはきちっと伝わってくる、ゴマカシのない明確な印象。スマートな演奏という評でいいんじゃない?
前日にNHKの深夜番組でエサ・ペッカ・サロネンの指揮(サンフランシスコ響・展覧会の絵)を見た。この指揮棒はくっきりと精密で、比較的早めのテンポでたたみ掛けるようないきいきとした生命力を曲から引き出していた。鋭角的で新鮮なリズム。唖然とするくらい曲の印象が違っていた。指揮棒の動きの視覚的な効果は圧倒的だ。
指揮棒の威力は斯くのごとしである。あえてそれを使わないということが、金がどういう音楽を目指しているのかを暗示していると考えるべきだろう。

今回オーケストラのコンサートマスター(川崎洋介?)のアクションが際だっていたことを付け加えておきたい。曲のメリハリに感応し、弓の上げ下げの所作や表情にじつに小気よい気迫があふれ、音楽の内包するエネルギーを形に見せていた。普段は指揮者の動きに目が行くのだが、今回は完全にコンマスのステージ姿を見ていると、つられて盛り上がる楽しい体験をした。そういえば、オーケストラの団員ってのは比較的無表情に弾くのがマナーになっているような気がする。曲によってはもっとソロの気分で表情を演じてもいいと思う。だが、そういう気恥ずかしいマネが出来ないのでオーケストラに混じっている方もいるのかも。


2007.1.27(土)2:00pm ザ・シンフォニーホール

及川浩治 ショパンの旅2007

pn:及川浩治
ショパン
 ノクターン・マズルカ・練習曲・ワルツ・スケルッツオ
 ソナタ2番第3・第4楽章・バラードNo4
アンコール:
 ノクターン(1)前奏曲(3)

ソナタの一部だけを演奏するなんて、どういうコンセプトのコンサートだろう?あまり期待できるような雰囲気ではないが、土曜午後の演奏会はいろいろ都合もいいし、まあ、ピアノを聴くからにはショパンだろう、ってわけでぶつくさいいつつもシンフォニーホールにママチャリ(防寒ハンドルカバー付き、サドルカバー用ジャスコポリ袋装備・傘付け台未装備)で乗り着ける。拙宅の奈良からはバイクで阪奈道路を爆走してきたハズだが、一体どこでママチャリに化けちゃったのか?ま、シンフォニーホール西側歩道に放置するにはママチャリが一番(^^)。客層はマチマチ、年配夫人から革ジャンのリッターバイク・ライダー風のお兄さん達まで見かける。満席である。A席3000円だから、という声もある。結構ではないか。

及川はしゃっきっと背を伸ばし、すたすたと登場すると、ざわめきも完全に静まらないまま弾き始める。曲の線がはっきりとしたショパンである。メロディがくっきりと浮かび上がり、高揚すると気合を入れるピアニストのうなり声が聞こえる。高揚するショパンが得意な人なんだろう。ピアノに情熱をぶつけるとでもいうような姿勢と見え、それ、もっとやれ!という掛け声もでようというものだ。2,3のミスタッチがある。演奏の勢いが強すぎて思わずコントロールを失う瞬間が生じる。スピードに酔いすぎてコーナーを曲がりきれず、ちょっと中央車線を越えてしまったのだ。気になるミスではないが、力一杯弾き倒すような力技を印象づける。高校生の私だってショパンの情熱のダイナミズムの上をジェットコースターに乗って振り落とされそうになりながら何回も走行したものだ。その力強いショパン像だって嫌いではない。しかし、及川の提示したショパンと私の中の像とは多少違っていた。特にマズルカNo.27ホ短調での鐘の音色は鐘ではなかったし、バラードNo.4へ単調のうずまく回想と激情の高揚は、あまり意味のある構図や演出は聞こえなかった。違和感。どこか違う。突っ走るライダーには見えない、空気のよどみのような翳りか。
ソナタNo.2の後半楽章だけを演奏するアイデアは聞いてみると意味がなくもない。及川はこの曲を「葬送行進曲とコーダ」と見なしたのだ。それはそれで明快な解釈といえる。しかし実際に聞くとやはり無理が見えてしまう。葬送行進曲の中間部のゆったりとした回想は全体のコンテクストがないので、冗長で無意味な時間にしか見えなかったのだ。特にこの部分は最近聞いた奈良希愛の完璧なテンポのコントロール、つまり心理のコントロールが印象的だったので、及川の解釈は安直に過ぎると思える。だからといって、このピアニストの情熱的な演奏スタイルはそんなに不快ではないのだが。

さて、アンコールである。アンコールの選曲でピアニストの個性を占うのが最近の楽しみになってる。ノクターンNo.8の後、最後にというようなタイミングで前奏曲No.4を弾き出した時、おや、なかなか!と感嘆したのだ。ショパンの全作品の中でも一番簡易で短いといっても間違いではない。こんな平易な曲で淡々とコンサートを閉めるとは!今まで爆音をあげて疾走していた及川が、ひよっこりママチャリで登場したような・・とかなり個人的な理由で興奮しかかったのは私一人だけだったのだろう。しかし、その態度に私は盛大な拍手、なんならブラボー砲を一発お見舞してもいい、とさえ思った。曲が静かに終わり余韻が引くていくのを待ち、拍手体勢に入り最初の破裂をさせようとした瞬間、及川は間髪を入れず別の賑やかな前奏曲を軽快に弾きだしたのだ。ん?なんなのそれ?「ほい、しまった、この曲じゃ盛りあがらんなぁ」と変に反省し、初心を貫徹し得なかったと見えた。実に無念じゃ。当方としては。

というわけでコンサート自体は楽しんだのだが、及川のショパン像は当方のものとは違っていたというわけだ。最近はヒマになったので、好んでショパンの膨大なマズルカ集を弾く。どこか異常な調性とモノマニアックな音形が神経を病んだショパンを彷彿とさせる。どこかにその血ばしった目が感じられないとそれはショパンではない。とママチャリを漕ぎながら勝手なことをほざく。もう一度いうが、しかしコンサートは楽しかったよ。


2007.2.11(日)2:00pm ザ・シンフォニーホール

レ・ヴァン・フランセ Les Vants Francais

FL:エマニュエル・パユ
OB:フランソワ・ルルー
CL:ポール・メイエ
HR:ラドヴァン・フラトコヴィチ
Bsoon:ジルベール・アダン
Pf:エリック・ル・サージュ

ジョン・ケージ:管楽器のための音楽
ハイドン:ロンドン・トリオト長調
T.エスケシュ:メカニック・ソング(日本初演)
ヴェートーヴェン:5重奏曲変ホ長調
プーランク:6重奏曲
(アンコール)
チュテレ:ガボット
ルーセル:リヴェルティスマン

高名なエマニュエル・パユはじめ管楽器の名手達による3重奏から6重奏のステージ。曲目はハイドンから1965年産のエスケシュまでの古典ドイツと近・現代フランスもの。連休中日で天気もよく、なにより管楽アンサンブルを聴きに行く気分は少し華やかである。いつものようにホール横に自転車を置き、いつもの席に着く。おっと、しまった。今日はハズレの予感。私の座席に荷物が置いてある。横の中年の御夫人があわてて広げてあった荷物を自分の膝に乗せる。でもしっかりとバッグやパンフレットを安定させる風でもなく、そのまま片手でパンフレット類を入れた袋と広げたパンフレットを支え、右手でなにやらボールペンを持ってガサガサと走らせている。どことなく場違いな挙動に心中問題アリと黄色い警鐘が点滅する。パンフレットを閉じ、しまう動作があったのは演奏が始まってからだった。でもまあ、とりあえずコンサートに集中しよう。

<第一部 演奏会評・フランス形而上学>
このグループはメンバーは固定せず、演奏会や曲に合わせて出演者を決めているようである。この日のプログラムも3人からピアノを含め6名まで夫々の編成の音楽を奏し、演奏形態も円陣に座ったり立奏したりだった。ジョン・ケージは立ち姿で軽快に始まった。意外と"古典的"な現代曲で、この作曲家の名を見た時に思わず期待してしまう舞台の上での大立ち回りは無かったのだ。つまりしごくまともに楽音だけで出来ている曲である。しかも12音とは言え耳慣れた和声。「やれば出来るんじゃん?」と思わず失礼なセリフをつぶやいたりする。木管の軽快さと幾分の諧謔味が感じられる軽い音楽。コーダもそれなりについていて拍手のタイミングもちゃんと取れる曲である。
同じく立奏でハイドン。わずか三本の管で奏される組曲。管楽アンサンブル用の平易なピースは当時の素人音楽家達用に量産されたものだろう。あるいは、プロの奏者に素人道楽者が加わって楽しむ音楽。ポツダムのフリードリッヒ大王のようなセミプロからの需要も多かったろう。しかし、さすがパパ・ハイドン。和声の流れと低音の骨格はしっかりと音楽していて、編成の割りには充実した音響である。エマニュエル・パユのフリュートは中低音に粘りがあり、腰の強さを感じたがそれ以上は私の評が及ぶところではない。低音の力強さはプロなら当然だし、未だに耳底に残っているランパルの金色の低音に比すこともない。それよりも、奏者達の絡み合って演奏する掛け合いの楽しみを共有すればよい。ランパルの名が出たので思い出したが、フランスは昔から管楽の名手が多い国だった。以前、ウチの会社にアルバイトに来ていたちょっと冴えないO君が、60万円のオーボエを持ってパリ音楽院に留学したと聞いて「へ!」と思ったことを思い出した。それに、もう一人アルバイト2日目に「バークレー音楽院に入学が決まりました」と告げに来て颯爽と退社していった若者もいた。うむ、東大阪布施公園裏の零細印刷工場からも晴れがましい舞台に連なる若者が世界に向かって輩出した時代もあったのだ。当方はといえばアノ会社からボテっと別の汚辱に排出されてしまったのだが。ま、ともかくこのアンサンブルの名はそのフランス管楽の誇りを示しているのである。

T.エスケシュはパリの現役バリバリの作曲家らしく、日本初演として演奏された曲はこのグループのために書かれた由である。少し扇情的なメロドラマ風の曲想がピアノから出、管楽がその残滓を空中に散らすような光景で始まり、次第に音楽が集約されていき、圧倒的なリズムによるクライマクスまで突き進む。管楽とは異質なピアノの音から打楽器的のようなエネルギーを引き出し、ノートルダム寺院の空中のガーゴイルのように身をくねらせるた管楽器共が空中を飛び跳ねるような、視覚的なまでにくっきりした音像を与える作風だった。深くは無いが音響とリズムの面白さは抜群。思わず「深くは無い」と言ってしまうが、音楽に文学的・あるいは哲学的深みを封じこめようとしたのはベートーベン一派の陰謀であったことは現在では定説になっている。私はこの1965年産まれの作曲家の音を聞き、実に爽やかな印象を持った。これは現在の映画で多用されているCGの効果のように、少しのあいまい性もない、くっきりとした影像をただちに想起させる。この作曲家が生まれた時代に音楽が陥りかけていた理論倒れのような不毛な「現代音楽」論とは無縁な世代が、このようなすっきりとした音楽を書いていることを知って安堵を覚える。何より音楽とは楽しみのことなのだ。
演奏のことを言えば、特にホルンのヴラトコヴィチが印象に残った。ホルンという金管楽器が一ダースにもわたる鍵を持った木管に伍して複雑なパッセージを吹奏し、内声として裏から支え、時として金管独自の輝きを音楽全体に与えるのを見るのは感動的だ。ホルンのパートをまともに演奏することのできるメンバーを持っているオーケストラが実に少ないことを考えると、この人のテクニックは神業という他はない。

ベートーベンの5重奏曲では椅子に座ったメンバーが200年前の素人音楽家のサロンの光景を再現していると見てしまう。管楽アンサンブルといえば素人音楽家を連想してしまうのは申し訳ないとは思うが、決して悪い意味ではなく、素人とは音楽を演奏することを楽しみにしている層のことであると言っていると理解してください。

最終ステージはもちろんプーランク。私がいかにもフランス音楽の代表と思っているのはドビュッシーではなくてプーランクである。ドビュッシーはいかにもフランスの音であるのかもしれないが、フランス的精神はプーランクの自在なしゃべくりにあると思っているのだ。またこれは精神という漢字ではなくエスプリというカタカナがふさわしい。冗談を言ったり、真面目に恋愛を語ってみたり、プーランクの音楽は今世紀初頭のパリのカフェで、とんでもなく早口の男にウソかマコトかわからんが、とんでもない話を吹き込まれている情景を思い描かせる。時々男がちらりと目配せしたり、急にニタリと笑うので話の大半は今即興で捏造しているな、とわかるのである。いや、話は面白ければそれでいい。深い思想性なんて、向こうの席でむっつりとコーヒーをすすっているサルトルに任せておけばいい。フランス系の名人達が寄ってたかって奏するプーランク。これが面白くない訳が無い。・・・


<第2部 演奏会場評・存在の不安と自同律の考究>
そこで、フランス音楽にはふさわしくないライトモチーフに回帰しよう。隣のご夫人は第一ステージではコロリと手すりにもたれて眠りコケてしまい、時折寝息よりも多少大きめのいびきも混じって聞こえる。しかし、客席の拍手には機敏に反応し、間髪をいれず盛大に手を叩いていた。まあ、このあたりは同行者とちらりと苦笑を交わせば処理できたことだ。
第2ステージから様相が一変した。この方は少し咳き込み、演奏中ではあるが持参のペットボトルを取り出し、喉をうるおし始めた。そして、しばらくすると飲んだ水を噴出す勢いで猛烈な咳をし始めたのだ。いや、本人は咳き込むのを懸命にこらえているのだが、隣の席では胃や喉から発するグッとかブッとかいう異音がはっきり聞こえ、ひとしきりやって収まると横を向いてポケットティシュで鼻を抑えている風である。しかし、また咳き込みが始まり、こらえるのだが漏れてしまう。漏れるときにハンカチで押さえるというアイデアはない。この時点では気の毒に思う気もあり、おりしも皮肉で軽いユーモアのあるプーランクの音楽が奥に聞こえ、深刻な映画の上映中にくしゃみを我慢し、百面相をするというようなよくあるコミカルな芸を見ているようで、うんざり・にやりとう状態だった。楽章の切れ目に退出して廊下でしばらく休憩するだろうと思っていたのだ。とにかく我々の列のすぐ後ろの扉を出ればソファーのある廊下である。しかし、このご夫人は退席せずがんばった。
次の演奏が始まれば間髪をいれずくぐもった咳込みを始め、間歇的に最後まで続ける。おさまればティシュペーパー。そのゲボッという音が生理的に気味悪くなり、さすがに非難の目を向けてしまうが、ご当人は自分との戦いに懸命で気がつく気配はない。
このあたりで、ご夫人とよぶにはあまりに感覚的乖離がおおきく、呼称をオバハンと変更させていただく。プーランクの終わりには、咳の市民権が認められたと本人が錯覚したのか、かなり前向きに破裂音を発してひるむことがない。そして演奏が終わると間髪をいれず拍手を始めるのだ。とても演奏をまともに聴いていたとは思えないので、オバハンのこのサービス精神には感嘆した。
しかし真に驚嘆したのはそのことではない。このオバハンはそのまま間歇的に咳こみながらも自席をたたず、アンコールを待つ気配なのだ。そして演奏が始まると私の真横で盛大に咳き込む。こちらはイヤミともなく、本気ともなく自分のハンカチを2度に渡って横に手渡す仕草をするが、オバハンはそんな微妙な動きにはトンと無頓着で自分の内なる宇宙との対話に忙しい。咳き込み音で近隣では音楽に入れないというのに、この人は会場とはちゃんとつじつまを合わせ、演奏終了と見るや盛大な拍手を送る。一向に廊下に退出する気も無いらしく、アンコールの2曲目が始まるとまた咳をし始める。さすがに私と同行者は気分が悪くなり、拍手が続く中オバハンの横の席を立ち廊下に逃れた。
ついにオバハンとの戦いに完敗してしまったのだ。

当代きっての名人達が奏でる舞台上のきらびやかな幻影と、そして薄暗い舞台下の実情。今世紀初頭のパリのカフェのエスプリと大阪市福島区の精神の実態。奇妙なアマルガムが自分のいる世界の不条理を際だてる。
人の心の中の不可能性の暗闇。

どうしてもオバハンが客席にい続けた心理を分析し切ることができない。苦しそうだった。それでも退席することはなかった。それどころか、演奏をこの上なく楽しんだというように盛大な拍手をしていた。近隣に自分の咳き込みが聞こえていなかったとは思っていなかったはずだ。演奏前の静寂中は懸命にこらえ、演奏が始まる第一音のタイミングで咳を始めていたのだから。だから、アンコール演奏を望んでいたとは思えない。音楽に没入できていたとは思えないし、咳き込まねばいびきをかいて寝ていた人である。早く終了して外に出たかったに違いないのだ。しかし、途中であきらめた我々とは違い、最後まで舞台を見届けようとしていた。オバハンにとって横に存在する人間とは何なのか?宇宙のチリのごとき質量もなく絶対的に不可視な存在なのか?人生不可解。

理解不能の世界は存在論的不安を投げかけて私を脅かす。断じてアスベルガー症候群的ではあり得ないハズの同行者にまでこの世の不条理は暗い影を投げかけている。このオバハンの心理を何とか理解しなくては世界が崩壊してしまうのだ。

このような不安定な世界に自分が居るという状況を認識する恐怖。圧倒的な不条理に満ちたブラックホールの内側から、何も逃れることは出来ないというのに、かすかに聞こえてくる不可能性のセイレーンの歌声。実は破滅するためにだけ存在させられている自分あるいは世界ということを認識してしまった宇宙物理の悲しみ。
このように書き、認識を客観し、自分を相対化することによってしか精神に取り付く存在論的不安の不気味な増殖の気配を逸らせることは出来ない。のしかかる圧倒的な恐怖を表現し、お前は誰かと名指さねばならない。恐怖を表現し得た時、わずかに不安の増大は停止し表現されたディメンジョンで静止する。

私が最後に到達した結論はこういうことだ。
この人にとってクラシックの音楽会というのはある種の修行の場だったのではなかったろうか?例えば学校で退屈な授業を最後まで聞くというように。そこは苦しみを通じ偉大な精神を鍛える実践の場なのだ。クラシック音楽は我慢して聴くものである。我慢していれば薬のように身体にしみわたり、精神を高尚させていく実にありがたいものなのだ。ありがたいお経は得てして退屈なもので、我慢して実践するからこそありがた味も実感できるのである。
違う?
そのように仮定して始めてあのオバハンが最後まで咳をこらえつつ退席もせずがんばりとおした理由を論理として得心することができる。確かに、昔ある種のクラシックフアンと称する層はベートーベンの音楽をそのように聴き、偉大な精神を培っていたということを耳にした。
だから、他人も当然そうであるハズで、皆そのような苦しい精神修養に来ているのであるから、咳き込みが聞こえることは修養の課題である担うべき負荷を富ませることにはなっても損ねていることにはならない。ちゃうかぁ?
まあ、そこまでの論理性は無いとは思うが、この他人も自分とまったく同じ感覚で行動していると同定する強烈な絶対的矛盾的自己同一は「大阪のオバハン」と存在論哲学のホウで定義している通りである。

我何も思わず、故に我アリ。
ん?何か文句あんのか、ワレ?

デカルト以来のフランス哲学では終にこれ以上の真理を見出すことはなかった。極限の存在論である。おや、向こうでコーヒーを飲んでいたサルトルはどうやら裸足で逃げ出してしまったようだ。

プーランクが皮肉な笑いで逸らさねばならなかったのは時代の不安であったのかもしれない。私は決定的にベートーベンではあり得ない。懸命にこうでしかない自分から逸脱する道を探るのみである。ぷふい!


2007.3.11(日)2:00pm ザ・シンフォニーホール

樫本大進 無伴奏ヴァイオリン・リサイタル

Vn:樫本大進

バッハ:無伴奏パルティータNo.3
イザイ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタNo.2
ジェミニアーニ:12の無伴奏ヴァイオリン・ソナタより
バルトーク:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ
(アンコール)バッハ:無伴奏バイオリンソナタよりルール、ガボット

若手のスター演奏家にしては空席が目立ち寂しい。さすがに無伴奏ソナタのみ、というのは興行的冒険に過ぎるのかも。無伴奏ならサロン風のちいさな会場が似つかわしい。さして広くもないシンフォニーホールのステージだが、さすがに譜面たてひとつないというすっきり加減は客席の空席具合とともに清涼な気分さえ漂う。このところシンフォニーホールではとんでもない客層に出くわすことが多く、今回も雑多な人間模様の観察を密かに楽しみにしていたのだが、この粛々とした会場の雰囲気、アテがはずれたか^^;
集客力の点ではあきらかに不利な無伴奏での企画の意欲は買うべきだろう。とにかく、有名なバッハのパルティータはさておき、後は長年の聞き手である私にも初めての作品ばかりである。バルトークくらいなら一度は聞いたかな、とは思うが思い出せない。
金曜日から大阪に泊まり込み、前日は宝塚方面のツーリング、梅田NOVAのフランス語VOICE等に出歩いて来ての演奏会で、演奏が始まると次第に意識のレベルが下がっていく。イザイの作品なんかは、かなりの重音奏の連続でダイナミックな音響が満ち溢れているのだが、一台のヴァイオリンの音響のイベントとしては、意識は次第にモノトーンという認識まで低下していく。今回は演奏評はできそうにない。ひょっとして、前回のようなステージ外の猥雑なイベントも、実は演奏会に相対する当方の意識の活性化には役立っていたりしていたのかもとか。
ジェミニアーニのふくよかな重音旋律を聴き、曲想を確認していこうとするのだが、意識は快い夢幻の方向へと拡散していく。会場睡眠の達人の同行者にも、いつもとは逆に当方の無意識状態を視認されてしまう。ま、それでもいいのだが。

バルトークの開始は印象的な確固とした問いかけの2音で始まった。そして、さらに3音に拡大し、壮大な音響での思弁に誘導されていく。いきなり核心から語り始めるのは、ある意味ではバルトークの常套手法でもある。ああ、そういえばバルトークをよく聞いていた時代もあったなぁ。なんだったっけ?やはりバイオリン協奏曲第二だったか。盛り上がりと軽妙なリズム感。第一はあまりに音楽的に性急直截で荒削りだったか。
弦楽四重奏とか。これは骨のある音楽だった。求道的な高校生時代の真摯な音楽に対する憧れがなければ聴きとおせないような。いつか上本町の教育会館かどこかで東京芸大系の学生アンサンブルの演奏会があり、当時通っていた高校の音楽教師・野村文治氏が私にくれた招待券で聞きにいった。20人ほどの聴衆が地味なNo2だったかの四重奏を聞いていたが、最後の2和音が静かに終始しても誰も拍手しない。あ、ここで終わらせてあげねば、と高校生の私は多少の知ったかぶりもあり、誇らしげにひとり拍手しはじめたという記憶。
おっと、この無伴奏ソナタも最初の2音が唐突に回帰した。問いかけ直して終わるバルトークの手法だ。拍手しなきゃ、だれも気づかない。と、私は拍手し、そこでまだ第一楽章だったことを思い出す。うっと!やっちゃった!
幸い常にグレングールド並にコンサート会場でも手袋を脱がない習慣だったので拍手はくぐもっていたし、それに最後の2音が鳴り終わり、しばらく置いての物音だったので会場にはそう迷惑をかけなかったと思う。しかし、あまり意味もない拍手をしてしまった。赤面。自嘲。
しかし、この椿事でも意識は覚醒せず、第2楽章のおそろしく抑制された気配だけの音楽からは完全に疎外され夢想の領域が回帰する。完全に覚醒したのは第3楽章のコーダーが始まりそうな怪しげな瞬間である。音楽が収束し、大団円的な静止に収束していく。と、その瞬間きらめくようなコーダが吹きぬける。「あ、すげー!」と小声が漏れてしまう。一瞬置いて拍手が始まる。盛大な拍手である。かなりな難曲だが、会場はちゃんと音楽を捕捉し演奏を見極めて賛嘆の拍手が鳴り響く。申し分のないいいタイミングだった。右前の男性は足のつま先でも床をたたいて響かせている。オーケストラのヴァイオリン奏者の拍手(拍足か)だ。その道の方だろう。鼻持ちならない高校生の私などがしゃしゃり出る幕ではない。
気持ちの良い拍手が続き、樫本もはつらつと答礼をし軽いアンコール演奏を披露する。
演奏会は演奏を共感し楽しむ聴衆が多ければ気持ちよく完了する。客席には別に他に言うこともない。今回は私自身が音楽以前の状態だった--;
私は嘗ては日本ブラヴォー協会所属のうるさい客だったのだよ、実は。むはは。


2007.3.17(土)3:00pm ザ・シンフォニーホール

小林研一郎 炎の饗演! ロシア音楽傑作選

orc:大阪フィルハーモニー交響楽団
cod:小林研一郎
pf:小林亜矢乃

ボロディン:ダッタン人の踊り
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲No2ハ短調
チャイコフスキー:交響曲No4へ短調
(アンコール)ダニーボーイ弦楽合奏版

小林研一郎の「炎の」シリーズも三回目。今回は娘さんの小林亜矢乃とラフマニノフの協奏曲を演奏する。ま、言えば小林の定番である。まだ始まっていなのに満員の客席からはもうブラボーコールが聞こえてきそうな様相と見えた。
おおよそ、コンサートは当方の予想通りに進行し、大フィルは相変わらず出だしとコンチェルトの伴奏ではバランスがわるく(特にホルン)、最終ステージのチャイコフスキーの第四番では一転、とてつもなく乗りまくってダイナミックな音響をホールに満たしていた。小林はオーケストラを「乗せる」ことに秀でた指揮者である。実に克明に観客に向かい一礼し、各楽章の終わりにはオーケストラに向かって一礼する。そして演奏終了後の楽員紹介のパーフォーマンス。もちろん、場外乱闘の後のマイクパーフォーマンスもある。・・・といっても何のことを、どういうイメージで言っているのか分からん人も多いと思うが(^^)
とにかく、小林の作り上げる相互協調・常時感謝・人類相愛・理解共感・予定調和・宇宙拡散・渾然一体的ムードに次第にオケも会場も染まっていき、最後の瞬間へと盛り上がって行く。上祐さんも自分ではなく、この人を後釜にすえたほうが絶対勝ちなのに。

ラフマニノフの協奏曲の第3楽章あたりから次第にこの熱気がエスカレートしていく。実はピアノの小林亜矢乃とオーケストラの関係は当初そう良くはなかったが、この盛り上がりの熱気が感染していき、集団幻覚のような怪しげな世界に自分を制御され、自動人形のようにただ動かされてしまう。
「音楽をして語らしめよ」(最初の小林の「炎のシリーズ」の私評)。このような情熱でぐいぐい進行する曲のエネルギーを開放し、周囲に感染させていくことが小林の力量の正体である。
最後の、調子のいいラフマニノフ終止のリズムで曲が閉じ、ブラボーコールが飛び交う中、小林亜矢乃がしばらく放心したように客席に背を向け、固定していたのが印象的だった。しばらくしてオーケストラに謝意サインをし、親父と抱きあい、親父にうながされてやっと客席に向き直り答礼する。うーん。これもなかなかのパーフォーマンスである。この親にしてこの子あり、か。

チャイコフスキーの第4番は、ものものしい「運命のテーマ」が貫いている割りには、そんな深刻な内容は皆無の奇想曲風の賑やかで調子のいい音楽だ。ロシア風のウォトカ大盤振る舞いの乱痴気騒ぎの第4楽章が、大フィルの改心の音塊の炸裂で終了すれば、今度は会場にこの乱痴気が移動する。興奮がおさまらない聴衆を、例のしつこいステージパーフォーマンスで収めるのが小林の芸。余計なアンコールで熱気を煽るというような墓穴を掘らず、静かにダニーボーイの弦楽合奏で鎮めたのはさすがである。

というわけで、結構楽しめたコンサートだった。

で、観客評。
すぐ前の席の若い男性が落ち着きがなく、5秒と静止できず、絶えず身じろぎし、頭をそらし天井を見上げたりと、結構やるな、くらいのストレスを進呈してくれていた。前の手すりに私自身の手を広げて視界をカバーすると、何とかこのうるさい視覚上の雑音を遮断できた。コンサート用の舞台以外の視界をさえぎるブラインドメガネかオペラグラスの導入を考える。
本当をいうと本日私は隣席の80歳の老人のお供で来ていたのだ。この老人のとめどもない幕間のしゃべりが制御できず、実は当方が周囲に気兼ねしていた事情もある。前席の若い衆の無礼は許す。目を瞑れば消えてなくなる不快なら目を瞑る。しかし、余計な音を出すと承知せんぞ。


2007.8.12(日)2:00pm 大阪厚生年金会館ホール

上海歌舞団・上海東方青春歌舞団公演 Wild zebra

総監督・演出:張継剛
キャスト:王培(きつね)



S席と印字してあったので期待したが、このホールにはボックス席はなく、かぶりつきの最前列だった。客層は老人と家族連れ。若者が少ない。公演の内容は小中学生向けのようだったが、相当数の若い女性のダンサー群が踊る華やぎがあり、私はそのような線でかぶりつきを内心喜んだりした。

クラシックバレーを基礎としたエンターティンメントである。華やかな舞踏劇。内容の荒唐無稽さを言ってもはじまらないので、古典バレエとの比較を書いておく。 もうすこし音楽が中国風であるか、とおもったが、見事にショスタコビッチ、プロコフィエフの管弦楽書法だった。ひところソ連製音楽は禁止だったはずだが、もういわゆる「中共」の時代ではない、と思わせた。とにかく中国的な響きは一切無い。バレエ自体の装置・衣装・振り付け等々これも中国臭はなく、カラフルで華やかな西欧式エンターテインメントである。ただし、カーテンコールで出演者が互いにそして客席に向かって拍手をするのがいかにも中国的だった。

準主役の妖艶な美女が成熟した女性の誘いこむような目つきとしぐさで、ナマツバモノでありました。純粋に個人的な評価ではあるけれど、この美女一人のためにこの公演はマル。芸の力もあるが、これぞ中国美女とでもいいたいようなちょっとアブない美女である。役柄はきつねということで、狡猾で猫族のようないたづらっぽい目つきがちょっとドキリとさせる。一度こんな目つきで誘われてみたいわい、とあられもない妄想を刺激する。ボードレールの言うtraitre yeux (旅へのいざない)か。どう訳すのか知らないが、私ならアブない目つきとするところ。どこか京劇の目元のつりあがったメークアップのイメージもある。そういえば京劇の影響も確かにあって、クラシックバレエにはない、見栄を切るような間の取り方や顔の表情の感情過多の演技もソレと思わせる。

クラシックバレエの純エンターティンメントとしてのアダプテーション。もう少し若い少女達が露出サービスしていただけていたら、オトナもうれしい見ものになったと思う。
経済大国中国の今少しの文化的成熟を望む。ん?


2010.1.5(火) 兵庫県立芸術文化センター 大ホール

西村志保 〜 チェロの紡ぎ歌

Vc:西村志保
Pf:高木洋子

 エルガー:愛の挨拶
 ボッケリーニ:チェロ・ソナタ第6番イ長調
 フォーレ:エレジー
 シューマン:トロイメライ
 ブラームス:ハンガリー舞曲 第1番
 カサド:無伴奏チェロ組曲より第3楽章
 カサド/グラナドス:インテルメッツォ
 カサド:親愛の言葉
(アンコール)
 ショパン:チェロソナタ 第3楽章

ブリュッセルの西村が帰国し正月明けの兵庫県芸術文化ホールでリサイタルを開催した。
今回はこのホールが定期的に企画しているワンコイン・コンサートの一環で入場料500円。
気軽に聞けるコンサートということで、曲目も親しみやすい小品ばかりである。

久しぶりの西村のチェロ。
以前のコンサートではまだ半学生風(^^)の初々しさや、若者らしい意欲的な現代曲も聞いたのだが、このコンサートのように、ふくよかなチェロの音色で親しみやすいメロディーを聞くことはやはり純粋に楽しい。
西村のステージ姿も以前よりもふくよかで(^^)音色にも安定感が増していた。

このコンサートシリーズの性格か、演奏者が気軽にマイクを持ち一曲一曲紹介してくれるのも楽しかった。
西村がしゃべりをトチる度に肩をすくめ、客席に自然な笑いが起きる。
まさかウケねらいでワザとトチってたのでは?と勘ぐるほど、彼女の言うラテン系大阪人としての明るさがステージで弾み、自然に演奏に接続していく流れも良かった。

フォーレのエレジーは、阪神大震災の被災者の方への鎮魂として演奏された。
まだ学生だった西村はバスの中にチェロを持ち込んだとき、たまたま隣にいたおばあさんが、本当に苦しい時に心の支えになったのは音楽だったと言い、「学生さん、あんたもがんばってね。」 と激励したという。

西村は渾身のエレジーを弾き、私は涙の気配をかろうじて抑えた。
しかし、次の静かで回想的なトロイメライで目から溢れさせてしまった。


チェロという楽器の表現力には今更ながら驚く。
当初高音の輝きに隠れ、低音が貧しいかと思えたのだが、どうして豊かで朗々とした響きがホールに満ちてきた。

カサドの無伴奏組曲では、一本の弦の音だけで全体の空気をピンと張り詰めさせ、精神の緊張感がホールを満たしてしまう、というようなことも起きる。

演奏者を前にして、その息づかいや、表現する何事かを身体で作り出す時に先ず現れる表情を目撃することは、音楽のメッセージは決して音だけではないと思い知らされる。
最近、あまりコンサートに行くことがないのだが、西村の真摯で豊かな表情が音楽に付与する立体感を味わうには実際の演奏を聞きに行くしかない。

カサドという演奏家の作曲家としての才能は以前のコンサートで既に教示してもらっている。

西村の師匠がカサドの弟子だそうで、カサドの作がかなり西村のレパートリになっている風である。
関西弁で語る西村の性格はスペイン風音楽の所作に合っているのかもしれない。
昔関西で活躍していた辻久子というバイオリニストのことを思い出した。
泥臭い程の関西風の歌いまわしで弾いていた。辻節とも言われていた。
スペイン音楽特有のこぶしやミエのきり方は、どことなく関西風に近いというイメージがある。
もはや中堅という年齢になった西村は、そろそろ自分の音楽の方向性を鮮明にしていく時期に来ている。
後半に置かれたこのカサドの作品群がその回答であるのかも知れない。

ほぼ一時間の和やかで爽やかなコンサートが終わる。
500円で音楽を聞きに来た人は本当に音楽を楽しんでいた。
何千・何万も出して数時間の苦行を我慢しているような、何しに来てるのかわからん客を目撃するのがイヤなのが、最近あまりコンサートに行かなかった理由の一つでもある。
義理や見得でクラシック音楽を聴きに行くのは、傍迷惑。いい加減にして欲しいよ。
500円ならもし音楽が気に入らなければ途中で帰ることもできるし、この料金では見得で来る人もないだろう(^^;

木の木目の温かみに包まれたホールの暖かみもこの演奏会にふさわしかった。
なんやかやで、非常に気持ちのいいコンサートだった。


2010.1.30(土) 学園前ホール(奈良県)

姫野真紀 1コイン・ピアノコンサート

pf:姫野真紀 + 北住淳

  ベートーベン:ロンド ハ長調
 ショパン:  幻想即興曲 嬰ハ短調
         スケルツオ 第一 ロ短調
 サンサーンス: 6つの練習曲 Op.52 より第六
  ドビッシー:  仮面

(連弾)
 ロッシーニ: 歌劇「セヴィーリアの理髪師」序曲
 ビゼー:  「アルルの女」第2組曲
 チャイコフスキー:交響曲第六「悲愴」より第3楽章

曲目にも拠るのだが、すくりと背を伸ばした端正な演奏姿勢で、あまりボディアクションをしないピアニストだ。
曲想にのめりこんで恣意的なテンポルバートを駆使した過剰な演出より、指先からほとばしる個々の音を際立たせ、曲そのもののエネルギーをそのまま会場に解き放つような演奏スタイルと見えた。

流行の「ワンコインコンサート」ということで、会場は満員で当日券も売り切ってしまう盛況。
多少、門外漢も混じっているような聴衆でも、姫野のそれぞれの曲目の思い出話で音楽にうまく誘導されていくような配慮もある。
玄人ごのみのするような選曲ではなく、あくまで指の妙技を堪能させるような見ていて楽しい曲目を並べていた。

幻想即興曲が始まると、ヨメが私をつつき小声で「(あなたのとは)違う!」とささやきに来る。
「ピアノが違うんだい!」と心で抗弁するのだが、やはり圧倒的なテクニックで流麗に弾いてこその曲である。


第2部では共演者が入り、すべてオーケストラの編曲ものの連弾プログラムになった。
コンサートで連弾を聞くのはこれが初めてだった。
ロッシーニやビゼーでは連弾ピアノでどこまでオーケストラの響きが再現できるのかという興味で聞いた。


オーケストラの豊麗な音色はピアニストの永遠の嫉妬タネである。
4手による多重な音響中ではペダルの使用は最小限にならざるを得ない。
シンフォニックな和声の再現は可能だが、フルートソロの流麗さはどうしてもピアノでの再現しようとしても無理がある。

でも競演することに拠るアンサンブルの緊迫感はソロ演奏では体験することはできない。
4手二人の呼吸を合わせることの連弾の醍醐味を聞き取ることができた。

しかし連弾の真骨頂は「アンサンブルの楽しさ」なんていうレベルの話ではなかった。
チャイコフスキーの「悲愴」の第3楽章で、思いもかけないエネルギーの噴出を目撃することになった。
もちろん原曲のシンフォニックな響きは充分再現され曲のダイナミックな流れに会場は揺れるのだが、一瞬の休止もないピアニスト達の集中力がそれ以上の強烈なエネルギーで会場を直撃したのである。

オーケストラの演奏では各パートが分担して曲の盛り上がりに加担していくのだが、この4手の編曲ではピアニスト二人だけで全てのパートを担当する。
どれほど精神と肉体の緊張と高揚を持続させねばならないんだろうか。

もうこれはもう単なるオーケストラの響きの模倣ではなかった。
これは二人のピアニストによる独自のシンフォニーである。
ピアノの演奏には、スポーツのような運動の喜びという要素が大きな比重を占める、とは最近刊行されたC・ローゼンの「ピアノ・ノート」(みすず書房 2009)にも指摘されている。

「悲愴」の第三楽章が一瞬の遅滞もなく、最後の高揚に進んでいこうとするダイナミズムが主導する音楽であるなら、この4手の演奏で、ピアニストはオーケストラをはるかに超えたのだ。

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姫野真紀は、実を言う私のピアノの師匠でもある。
たった2回指導を受けただけなんですけど(^^;
人づてにいろいろと師を選んだが、ご近所の先生方の中ではこの人だけが、いわゆる「ピアノの先生」的ではなく、演奏者として音楽の話をしてくれたのだ。
そろそろまた、たまに私のピアノを見てもらいに行かなくっちゃ・・・



(以下  多少手抜き(^^;の他書庫リンク 乞クリックして記事閲覧)


2011/2/5
ニユー・オペラシアター神戸 第30回オペラ公演「ヘンゼルとグレーテル」

2011/6/12
第48回大阪府合唱祭 6月12日SAYAKAホール分

2012/10/5
アンサンブル イリゼ @リーガロイヤルH ザ・クリスタルチャペル

2013/3/24
伊藤あさぎ サクソフォンリサイタル (ロンドカプリチオーゾ)

2013/4/21
京都バッハゾリステン特別演奏会 ミサ曲ロ短調