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記録を依頼され、日本観光通訳協会(JGA)会報に「マンガ研修会報告(2008.4)」を執筆した。
この時の下書きを再編集し私のブログの記事としたもの。
大幅にカットしてB6版3ぺージに無難に収めた正式版はJGA会報「トラベル・コンパニオン」2008年6月号に掲載。
会社勤務の他、雑多なアルバイト関係の私の源泉徴収票の名目のコレクション(「演奏料」「プログラム作成料」「校正料」
「通訳ガイド料」等)に「原稿料」も新規追加。
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フランスでは空前のMANGAブームらしい。
そのおかげか、フランス人旅客の爆発的増加で新米ガイドの私までお座敷がかかる。
「ガイドは初めて?かまいませんよ。一から十までフランス語で勘定できれば。」
むはは、である。
元来私は純アカデミックな志向でカチカチに固まっていて(笑)、この分野にはいたって暗いのだが、
そうもいってられない。
ということで、ウチの業界団体で「マンガ研修会」の企画があったのを機会に参加、京都国際マンガ
ミュージアムに行ってきた。
京都市のど真ん中、烏丸御池交差点アガルにある特徴のある建物だ。
1869年(明治2年)創設1995年(平成7年)廃校の旧龍池小学校の校舎を利用、なるべく明治初期の
学校建築の雰囲気を損なわないよう修復し、京都国際マンガミュージアムとして2006年に開館した。
龍池小学校は地元の有志(町衆)が寄贈して設立した小学校だったそうで、並の官立学校に比べ
はるかに優れた建築。
立派な畳敷きの作法室まで完備していて、京都の町方の教育への期待と豊かな資力を思わずには
いられなかった。ミュージアムへの改装工事は清水建設が手がけたのだが、優れた耐震構造に
なっていて、付加工事はほとんど不要だったそうである。
木製の手すりのあるどっしりとした階段のタイル敷きの踊り場や、廊下から見る教室の窓の下の
黒ペンキ塗りの木組みを見ていると、日本人の原風景としての小学校のノスタルジーがそこここに
漂っている感がある。
ミュージアムとしてのコンセプトも非常にユニークで、全国唯一のマンガ学部を持つ京都精華大学が
京都市から建物の提供を受けて運営している。
入館料大人500円。
開館時間は10:00〜20:00(夏季)。
水曜休館日なのでご注意。
ちなみに駐車場はない。
私はバイクで赴き、路上駐車でもしてやろうと歩道のスキマを狙っていたら係員氏が建物の裏
の駐輪場でバイク駐車可と教えてくれた。うれしいな。
一見「大きなマンガ喫茶」のようだが、このミュージアムは研究機関としての役割も持っていて、
日本に限らず世界のマンガ文化の収集研究を行っている。
また、所蔵書籍のデジタルデータベース化を進めている。
マンガ出版物の所蔵は「マンガの壁」と称する開架式に5万点、収蔵庫に15万点計20万点。
このうち、開架式の所蔵書籍は入館者が自由に持ち歩きし、どこででも閲覧できるというシステム。
中庭のテラスや廊下や階段の踊り場で座り込んでの閲覧もOKである。
1〜3階各フロア通路の書棚には頭の上までマンガが収納されていて、これを「マンガの壁」
と称している。ちなみにこのミュージアムの館長は「バカの壁」の著者養老孟司サン。
テーマを決めた常設展はすべて館職員の学芸員が企画立案し、実際に展示の実務も行っている。
個人的には特に紙芝居の展示が印象的で楽しめた。
1階には常設の「マンガ万博」という世界のマンガ出版物の展示がある。
↑ここは外国人入館者に常に人気があるそうだ。
地下にはガラス越しに空調完備の書庫に収められた膨大な「サンデー」「ジャンプ」「マガジン」
のコレクションがあり、思わず「わ!」の声が上がる。(静かに!>私)
マンガ雑誌は紙質が悪いので保管には厳重な温度湿度の管理が必要とのこと。
背景になっている小学校が発する過去回想の気分も作用し、個人的にも数々の発見があった。
以下、まったく個人的・恣意的な記述で詳述する。
というワケで、やはりここは正に私にとってミュージアムそのものでしたよ。
研修会当日には京都精華大学マンガ学部の先生の講演があり、これがメインなのだが、
著作権の関係で内容省略し、私個人の独断で日本マンガの現在を記載する。
歴史的経緯から言えば、例えばフランスにはBD(発音はベーデー)(Band Decine)と称される
マンガの分野があった。しかしヨーロッパの若者にとって伝統的マンガはあまりにも子供向きだった。
一方、アメコミには若者向きのジャンルもあるが、スーパーマンやスパイダーマン達スーパーヒーロー
が相変わらず全盛で、荒唐無稽なばかばかしいものしかない。
まあ日本じゃ今どき派手な赤マントで空飛んでるのはアンパンマンくらいだろう。
鳥山明の「ドラゴンボール」が契機となり、ヨーロッパに日本のマンガブームが起きる(1990年台)。
実は手塚治虫はもっと以前に紹介されていたのだが、あまり大きな反響はなかった。
近年、日本のマンガの古典として再紹介され再評価されてきてはいる。
とりわけ、フランスの少女達が「セーラームーン」等の日本の少女マンガに夢中になった。
それまで少女向けというジャンルはヨーロッパ・アメリカではまったく存在しなかったのだ。
だから、日本のマンガの持つ「何でもアリ」の無境界ジャンルがヨーロッパの若者にアピールした
といえるのである。
例えばフランスのBDの代表作に「アステリクス」(原作:ゴッシーニ)がある。
ローマ帝国に抵抗するガロアの英雄が主人公。つまり原フランス人の物語である。
「アステリクス」はフランスの誇りであり、子供に見せるべき漫画はどうあるべきかという
伝統的なフランス的マンガ感がここに透けて見えている。
しかし、近年のアメコミ(スーパーマン・スパイダーマン風スーパーヒーロー主流)と日本マンガ
(少年少女、アダルト、なんでもあり)に押され、フランスのBDはうだつが上がらないのが現状だ。
今回新しく出版されたBD「ASTERIX」の新作も目にした。
"LE CIEL LUI TOMEBE SUR LA TETE"(やつの頭に空が落る)というタイトル。
私もフランス語を学び始めた時に教材としてこのシリーズは読んだのだが、この作品では
スーパーマンと日本マンガの本当にばかばかしいパロディになっているのを目撃し、文字通り
「頭に空をぶつけられて」しまった。
あ、中国の故事「杞憂」が本当になってしまったような(^^)
更に、フランスのBDはハードカバーの美しい大判の美術書として出版されていて、高校生が
自分で買えるような値段でない。
小型で紙質も悪い日本のマンガの出版形式自体が格安なイメージを与え、若者にアピールした
ということも言えそうだ。
また西欧系マンガに見られる宗教的なテーマはMANGAには希薄で、少年向きでいえば友情や
スポ根テーマが多く、こういった無宗教性も受け入れられ方としてはプラスに作用したのである。
日本マンガのセリフには「ドバァァァン!」というような生の擬音語の使用が多いが、西欧語には
日本語のような豊富な擬音語はない。
日本マンガの翻訳出版では日本語の音のままのアルファベット表記をし、そのままで問題なく
「通じている」ようである。
そして日本の冊子の閉じ方である右開き形式は、そのままのページ割で翻訳出版されていて、
まったく問題はない。
要するに慣れてしまえば読み方なんてどうにでもなるのであり、擬声語を多用したMANGA表現は
西欧の若者にとって理解の妨げになるどころか、よりダイナミックな新しい表現法として受け入れ
られているのである。
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日本には鳥羽僧正(鳥獣戯画)以来のビジュアル文化の伝統があり、この継承の上に今日の世界に
誇る日本マンガの興隆があるというような論調もある。
しかし、現在の日本マンガの興隆を誇り、伝統的ビジュアル文化の勝利と謳いあげる人は
昭和30年代以前のマンガ界をまったく忘れているのではないかと、ふと私は回顧モードに
なるのである。
子供の頃は親から「マンガなんか読んでないで勉強しなさい!」と叱られながらも、私は月刊「少年」
の愛読者であり、「鉄腕アトム」(1952〜)や「鉄人28号」(1956〜)(←こいつは実は鉄人27号で
本当の28号はコレだったという、詐欺的なモデルチェンジをした。私はズルイ!と思った)に親しんでいた。
そのうち「サンデー」「マガジン」(双方1959創刊)という子供向け週刊誌が発売されたが、
私は小遣いが少々足らなかったので購読をあきらめた。
高校時代以降には「月刊ガロ」(1964創刊)に掲載された「墓場の鬼太郎」(水木しげる)連載第一回
の不気味なガキぶりに魅了された。
同じくガロ連載の白土三平「カムイ伝」が唯物史観に立脚した日本最初のマンガと評論されていたり
していた。
今で言うオタク系の世界が形成されていく雰囲気が濃厚にあったのだ。
そうこうしているうちに「サラリーマンが通勤車内で少年マガジン等のマンガ雑誌を読んでいる。
実に嘆かわしい」という投書が新聞に掲載されたりもした。
そのうち大人用のマンガ週刊誌も刊行され、たとえば「漫画アクション」(1967創刊)で「ルパン三世」
(モンキー・パンチ)の連載第一回を貸本屋で私は見た。
しゃれた色気もある軽快な作風で、若いサラリーマンに支持された。
以降テレビアニメの普及もあり、マンガの出版は今日のようなメジャーな産業分野に成長し、終には
日本の文化として世界に輸出される時代に至るのだ。
しかし、忘れてはいけない。
昭和30年代まではマンガは完全に子供が読む本で、貸本屋での細々としたサブカルチャーとしてしか
認知されていなかったのだ。
当時のコトバでいえば完全な「アングラ文化」であったのだ。
結論する。
「サンデー」「ジャンプ」「マガジン」を購読して育った我々(「団塊世代」)の、世代的基礎教養の欠如、
致命的な志操の低さ、「文芸春秋」も読めない漢字識字能力の無さ、というお恥ずかしい限り
のマイナス要因こそが、実はマンガ出版の絶対的消費量を押し広げ、あらゆるテーマをカバーする
メジャーカルチャーにまで押し上げた主因に他ならないのである。
時は高度産業成長期。
遠距離通勤者が増加し、車内の軽いエンターティンメントの需要が爆発的に高まっていた時期だった。
このようにして経済構造がすべての文化を規定していたのである。
20世紀はそういう時代だった。
こういうマイナス要因がプラスに転じるという例は他にもある。
同じく現在では世界に冠たる日本のテレビアニメだが、そのテレビ時代の初期には制作費を極端に
切り詰めるために背景の使いまわしや極端なデジタル的安直な場面転換等のテクニックを多用して
いたのである。
この苦肉の策がディズニー的な丁寧でスムーズな画像表現の呪縛から解き放ち、革命的な表現の
新しさを結果的にもたらしたのだ。
正に苦し紛れのブレークスルーというわけだ。
かように私は世界的な日本マンガ興隆の要因が、実は私の世代の大幅な基礎学力の低下にあった
のだ、という堂々の新説をここに提唱するものである。(冷笑)
見学当日には特別展「路地裏のロードショウ 紙芝居」が行われていてた。
そこで現在の日本マンガを用意する上で重要な役割を果たした「紙芝居」というジャンルを私は再発見した。
現在の創作紙芝居の実演もあったが、洗練された児童文学という印象だった。
私のガキの頃の紙芝居はもっと俗悪でグロテスクな作画が多かった。
加太こうじバージョンの「黄金バット」の原画を見ていて、突然子供の頃に部屋を暗くして遊んだ
幻灯機の作品が「黄金丸」というタイトルだったのも思い出した。
そうなのだ「幻灯」というサブカルチャーもあったのだ。
黄金バットは髑髏仮面赤マントの怪人で、この加太こうじバージョンでは完全に不気味な悪役である。
しかし、正義の味方として悪役の「銀バット」と戦う話もあったりする。
要するに、キャラクタの強烈な印象だけ強調すればいいので、悪役でも正義の味方でも、どっちだって
アリなのだ。
水木しげるの「ゲゲゲの鬼太郎」は貸本屋本で最初に「墓場鬼太郎」として登場した時は
出っ歯半眼の不気味で邪悪なガキだった。
いや、実は水木しげるの前に、戦前から「墓場奇太郎」の物語は紙芝居ですでに存在していたのだ。
水木しげるや白土三平は紙芝居作家として先ず出発したのである。
マンガのルーツが鳥獣戯画かどうかはともかくとして、紙芝居→貸本屋→マンガ雑誌→テレビアニメ
という系統図が成立するのは明白だ。
マイナーな紙芝居からメジャーな雑誌・テレビとなるにしたがって、画像上に土俗的おどろおどろしさ
が消えていき、茶の間のアイドルとなっていく。
これを洗練と呼ぶか、経済への迎合とよぶか、そんなことはどちらでもいい。
だだ、マンガは異界へ恐怖や死や異形の者への恐れ、というような生々しい土俗の感性が噴出していた、
純然たるアンダーグラウンド文化の産物であることを指摘しておきたい。
紙芝居の原画展示で、奇怪な出生をした奇形児の物語「悲劇コケカキィキィ」(神港画劇社)の
「原画」展示のおどろおどろしい、正に不気味な原っぱの怪談が印象に残った。
セイタカアワダチソウのおい茂った戦後焼け跡風空き地は我々子供にとっては確かに異界への入り口だった。
この物語の興味の中心も「鬼太郎」もののバックボーンとまったく同じ、異界への畏怖としていい。
加太こうじ「黄金バット」にしても、実際の受け手の興味の中心は赤マントの、この世ならぬ髑髏仮面の
おどろおどろしさなのである。
最近ヨーロッパの2、3の地方美術館に行く機会があり、中世の宗教画に見え隠れする「栄華と死」の
テーマ(「メメント・モリ」とも)の多さに今更ながら瞠目したことがある。
そこで私は確かに何かしらの純アカデミックな啓示を得たのだが(笑)。
しかしこの京都国際マンガミュージアムでも見たいものは見せてくれましたよ。
私が西欧中世で見つけた「異界」への恐れ、そしてそのパラレルな憧れと同質の感性は、
実は昭和30年代の紙芝居や貸本マンガの土俗的エネルギーとほぼ同質のものだったのだ。
その他、山川惣治の「少年王者」等、まだまだ私には語らねばならないものもある。
しかし、予定枚数をはるかにオーバーしていしまっている。
残念ながらこの辺でこの報告を唐突に終えることにする。
しかし、自分では純アカデミックな育ちだと思ってたが、私もマンガに浸りこんで育ってきたんだなぁ
(----しみじみと苦笑)。
(2008.6)
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参考文献
姜竣(カンジュン)「紙芝居と、<不気味なもの>たちの近代」 越境する近代(4)青弓社 2007