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[団塊の段階的生活] |
神の火花と第九アマチュア合唱団 |
2007/12/19(水) 午前 2:25 |
実はこの夏から久しぶりに合唱団に参加してました。 先日16日めでたく地元のホールでの第九公演を終え、合唱団は解散。 地元の企業がメセナになり、団費タダ・チケット負担なし、という一回限りの 演奏会のためのアド・ホック合唱団、なかなかすがすがしい体験でしたね。 趣味としての合唱メンバーを止めて久しい。 以前に所属していた合唱団では3年もすると団の運営に絡まざるを得なくなり、 まったく人間関係調整能力のない私はきっぱりと退団した。 女性関係諸問題が原因とのガセネタも流れたが、ソレは退団とは関係ない(^^; アマチュア合唱団は町の自治会のような組織でもあり、メンバーである限りは 要請されればその運営に参画する義務がある、と私は思う。 今回の第九合唱団が私にとってすがすがしかったのは、運営自体も主催者側が 何かと面倒を見てくださり、私なんかはバイクで練習会場横に乗りつけ、歌の 練習だけをし、終わればさっさとバイクで退散するだけ、練習後の付き合いの わずらわしさも一切無しだったからか。 しばらく付き合いの無かった一般アマチュア合唱団参加の人たちに大勢会った。 大半が現役引退後の年配者だった。別に合唱が好きでからというワケではなく、 一度は「第九に『参加』してみたい」という方も多かった。 結果、以下のような方もいらっしゃった。 ○幼稚園児のように絶えず首を盛大に縦に振らないとリズムがとれない人(かわいい!) ○指導者の注意は聞き流し、冗談にだけは盛大に反応して高笑いする人 (叱られてるんですよ、笑ってちゃいけません。) ○周囲の人の音程が違うと、すかさず「違う!」と突っ込む人(実は今回このタイプ はいなかった。よかった。) ○楽譜から首を上げず、指揮者を見ず、周囲の音だけに合わせ、遅れてついていく人 (初心者の大半がコレ) ○まったくカラオケのクセが抜けず、細かく首を振ってビブラートを付ける人 (コレが増えた。それ、ビブラートじゃなくてコブシです。いりません。) ○音楽にはあまり関心はなく、仲良しサークル活動として参加する人 (「音楽はあまり、知りませんのや」・・参加しない方がいいのでは、とも言えず) ○高名な指揮者Tの下で一回だけ歌っただけなのに、自分の師または知人のごとく以降 「T先生」もしくは「Tさん」と呼称しつづける人(まあ、そこからフアンになって くれれば「先生」も潤うというものだが。) ○自宅で大声だせないので、合唱の練習にかこつけて声帯筋トレに励む人(←私か^^;) まあ、いろいろ。とにかく初心者参加歓迎。ま、気にしない。 しかし、何とか対策しないといかん人もいる。 練習には熱心に通ってこられるが、非常に音感とリズム感が悪い、そのくせ声は大きい。 食いつきは必ず音程が外れる。細かい音符は必ず遅れる。 こういう人は普通は恥ずかしそうに小さな声で歌うものだが(^^; 声が大きいのでクリアに音程外れが聞こえる上、ごていねいにもカラオケビブラート までかかっている。 皆、苦笑まじりにそちらを見るのだが、本人はあまり間違えているという意識はないようで、 思わず目が会うと「何や?」という目つきが返ってくる。 練習の最後の方には何とか音程が近づいていく。だから純正音痴の方ではない。 私は単なる一参加者だが、指導者・運営チームは苦慮したことだろう。 プロなら簡単。あんたは出んでもよろし、といえばいい。 しかし一般公募合唱団である。初心者可と書いてあるではないか。 懸命の個人指導もあったようである。 参加することにイギがあるのだ。 なんならクチパクでもいい、とにかく練習にまじめに参加している人なんだから 何とか舞台に立てるよう配慮してあげなきゃ。 しかし、観客はチケット買って聞きにくるのである。 当方はアマチュアですからにぃ、というようなエクスキューズは私には ヒキヨウな言いわけに聞こえる。金とるからには、必死になってしかるべき レベルまではクリアしてもらわんと、と思うのだが。 と、まあ、指導陣の頭痛を思いやりはするが、コチラはまったくヒトゴト、 どちらかいうと、毎回ソチラのパート練習を聞くのを楽しみにしていたりしたりして(^^; しかし、本番近くになって並び方を変えて判明したが、ウチのパートにも、最後まで オクターブの区別ができていない方がいた。 高い音程では無意識にオクターブ下に下げて歌ってらっしゃる。 これも始末が悪い。 音自体には違和感がないので本人はソレでいいノダと思い込んでいる。 ただ、あの自信に満ちたおじさんのようには大声ではなかったので、 そのまま別に誰から文句が出るでもなく、おおらかに本番当日を迎えるのである。 そして本番。 さすがベートーベンは偉大だった。 断じて言うが、本番ではすべての地上の猥雑な思念は、人類皆兄弟の理想に溶け合い、 人間共のちっぽけなカコフォニーさえ、燃え上がる彩りを際立たせる陰影に変えてしまい、 神の火の輝かしいきらめきがとび散り、すべてを大いなる和解に導いたのである。 ↑何のこっちゃ、よーわからんが・・ 合唱の声は多彩な人間の声の生の厚みがなきゃ・・ ベートーベンはあんな高音域でまともに歌える合唱団はない、と知っていた。 われわれ人間の多様さを際立たせるため、わざとあんな高音域に音符をおき、 雑多な生の声が聞こえるように按配したのである。 ↑もちろんウソだからね。 しかし、私はこの喜びに満ちた結果を目撃し、自分の人生がいかに誤謬に満ちて いたかをまざまざとみせつけられてしまった。 あのおじさんは意志の人なのだ。 周囲の思惑なんかこれっぽっちも気にしないで自分が決めた道を進み切る、決然と した人生を選んできた人なのだ。 本人に悪意は毛頭ないとは解っているのだが、私から見れば非常に「傲慢」な人と いわざるを得ないのだけど。 しかし、そういう人が常に「勝って」きた。 そして今回も勝った。 私が40年になるキャリアの蓄積の末やっと味わえる晴れがましい一瞬を、アノ人は たった3ヶ月で達成してしまったのだ。脅威のコストパフォーマンスである。 自分が社会の中でどのような位置にあるかという、自己の認識のあり方が違う。 他人から来る圧力を感知するレセプターが非常に小さいか、まったく無い。 私なら萎縮し、さっさと退場して自閉してもう出てこられないような局面でも、 あのおじさんなら簡単に乗り切ることができるのである。 そして、自分の実力以上の経験ができ、結果的にそれが自分の財産になっていく。 そして今回も実際に、そのようにして成功を勝ち取ったのを、しかと目撃した。 また、自分では合っているつもりでオクターブ下を歌っていたオジさんにも 等しく栄光は輝いた。 誰にも迷惑をかけず、本人もソレとは意識せず、堂々と栄光の喝采を浴びていた。 ただ私だけが「そんなんもアリか・・」と自問する余計な意識の負担を蒙っただけで。 どうして私はああいう風に軽々と生きてこれなかったんだろう。 ほんの少しでも周囲の私への違和感を感じると、退場し隠れることしかできず、 実際に以前の合唱団もそのようにして止めてから、まぎれもない初老性鬱の時代に 私は入っていき、最後に会社をやめるまで、その救いの無い無明から這い上がること ができなかった。 一体、私のようなばかばかしい資質を持った固体が、今までどうして生き延びて これたのだろう? 私の持っているDNAデザインは適者生存の法則からすると、真っ先に淘汰されて しまっている資質から成っているハズである。 しかし、適者生存は唯一の種の保存戦略ではなかった。 むしろ、反対に不適応者をせっせと生み続けてきたのが人類の戦略だったのだ。 細菌が個体数の多さを戦略的武器としているように、人類は有性生殖を通し、 各個体の持つ多様性を武器として生存してきたのだと言える。 いろんな人がいる。 だからいろんな局面に対応できてきた。 多彩な個性を許容する人類の存在様式そのものが、私のような、どこに行っても 負けてしまう他はない個体をも生んだのだ。 いつか何かの役には立つ可能性はある、と。 私は現在ではまったく役に立たない固体である。 しかしおそらく私は人類の将来への布石としての役割を負って生まれてきたのだ。 今はまったく何の役にも立っていないが、私がいたことが将来の人類に何らかの利を もたらす万が一の可能性はあるハズで、だから簡単には捨てられず、今まで取って おかれ、つまりは生きのびてこれたのだ。 捨石には捨石の役割があるということだ。 自分の価値を自分で評価し、「自分が何の役にも立たない」と自分で否定してしまう ことこそ、神を恐れぬ「傲慢」極まりない行いであるのかもしれない。 私のような人もいる。 あのオジさん達のような人もいる。 それでいいのだ。 Alle Menschen werden Brüder, Wo dein sanfter Flügel weilt! |
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