蚊とたわむる ぎっくり腰でおよ..
[団塊の段階的生活]

蚊柱だって楽じゃない

2010/5/22(土) 午前 2:14
アイツ等、一体何やってるのか気になったので、
「蚊柱」をググってみた。
 
彼らは本当の蚊ではなく、ユスリカという別種で別に刺しません。
で、蚊柱を作ってるのはオスで、集団でメスをナンパしようとしてるんだそうです。
 
ユーレカ!
 
アレってエッチしようとして必死コイてひしめいておるのだ。
 
あのユスリカタタチは限りなく「個」が希薄な、「個」が完全に「全体」にインテグレートされた、
「私=あなた」という存在論的進化の理想型かい?なんぞという気楽な私の夢想は
はかなくもかげろうのように消え去ってしまった。
 
いずこも同じこの世のセチがらい構造と見るべきだったのだ。
蚊柱に密集し互いの「個」を競い、少しでも抜け出したヤツがメスを獲得して自分の
子供を生産するのである。
一個の卵子に群がる億の精子のように、実に生々しい生存競争の場だったんですねぇ。
 
ユスリカの社会である蚊柱の中で、ちょいとハネの長いヤツとか、手の早いヤツ、
口のうまいヤツなんかがいて、たまたまうまくいったヤツが自分の遺伝子を次世代にバラまく。
デキの悪いヤツは淘汰されて草葉の陰に消えていく。
 
エッチする生物というのは、そういうようにして「個」が競うようにけしかけられる。
おとなしい種はクローン作って自己増殖するんだが、こういう平和主義者は
ばかばかしいほどか弱く、かろうじて小さくなって生きのびている。
 
この世の大多数の生物はエッチするのに競争して、ちょいと自分と違う子供をつくって死んでいく。
死ぬ、というのも同じ個体が永遠に存続しないようにする戦略らしい。
それぞれが違うように生まれて、それぞれちょっと違う風に生きて、それぞれ死んでいく。
生命という存在であるということの根源的悲しさよ。
 
デキの悪いヤツも出来てしまう。
戦略的にデキの悪いヤツをわざわざ作ってある、と言うこともできる。
 
今、唄わされている日本の合唱曲には、デキの悪い方の自己肯定のしかたを歌ったものが結構ある。
 
 みんな違って みんないい (金子みすず)
 あなたはあなたでよいのだと きずいたときからいきられる (茨田通俊)
 どこかが違う 少しずつ きみがまぶしい 違うから (高野喜久雄)
 
違うからいい。まあ、そうなんでしょう。
われわれの種はひとりひとり違う「個」であることで、「全体」が成り立っている。
デキが悪いヤツもそれなりに意味はある。
まあ、「全体」が安全のため支払う保険金みたいなもの、と言えばミもフタもないが。
 
しかしなぁ、デキが悪くうまれちゃった個人のナマの意識としては、これはタマランぞ!
全体にソレなりにインテグレートされている、なんて悟れる容量がモトからないので
デキが悪いと言っとるんじゃ!
 
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書いているウチにどんどん論旨が違った方向に行ってしまいそ(笑)。
 
書くことが私の主たる自己表現である。
どうしても「個」でしかない、自意識を持ってしまった存在の絶対的孤独の哀しさ、
つまり、この世で「私」という「個」であることの負荷を直視し、分析し、言葉で指し示し、
私=私でしかない自同律の不快を、個=全体である存在論的ユートピアへと
昇華する夢想を書きつづることで、実は「オレはオレじゃい!」という強烈な自己表現
を私的にやっちゃっているのである。
 
違うなぁ。
要するに、自分が社会と融和し、共生している一体感や安定感も必要だし、
私は私であるという「個」の自己主張も無ければ生き苦しい。
 
孤立しない程度の孤独感、それに傲慢にならない程度の自尊心、そのバランスが難しい。
 
というような言葉をでっち上げ、表現し得たかどうか吟味する。
重苦しくのしかかっている負荷を書くことで何とか昇華していた時期が確かに私にはあった。
 

 

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