シジフォスの負荷 蚊柱だって楽じゃ..
[団塊の段階的生活]

蚊とたわむる

2010/5/18(火) 午後 3:34
ちょいとスランプ気味で、会社辞めても負荷は無くなるということがないな、と思うのだが。
しかし、考えて見れば勤めていたころの圧倒的な人間関係の耐え難い重さは半端じゃなかった。
やはり会社さえ辞めれば・・・まあ、人間社会の関係性さえ過重でなければ、後は
なんちゅうかテンポラリーな、天候依存の気分的なモンだ。
 
最近読んだ 島田荘司「リベルタスの寓話」講談社・007 の名探偵・御手洗潔(なんだかトイレを連想するが)のワトソン役の語り手が、『沈黙がなんといっても一番怖い。だから、とにかく喋りかけてしまう。』というような性格を付与されていたのを思い出した。
 
そうなんだよね。
とくに初対面の他人は恐ろしい。
普通に接している方でも、何を考え・どういう反応をされるのか分からずコワいのだが、
まったく手がかりのない他人様と同席するような時の不安には自分の存在を根底から脅かされてしまう。
だから、とにかく喋って何らかの共通の場を作ろうとする。
 
文化的に異人種が混交していたヨーロッパでは、エレベーターの中でチラりと目が合っただけで「こんにちわ」と挨拶したりする。
向こうも「こんにちわ」と返してくれて、やっと自分と同じ場に属する人だと確認でき安心する。
ヨーロッパの社交術。プライバシーの配慮とcourtoisieの発達。。
 
私は他人がコワい。
親しい、と思ってた人でも何かのきっかけで豹変する。
笑顔で接していても、心の中では何を考えているのか全くわからない。・・
 
逆に言えば、私の方が「空気を読めない・場がわからない」だけなのだが。
まあ、そういう風に人生の大半を他人にびくびくしながら生きてきたワケだ。
 
今でもスポーツクラブの同輩老人達に声をかけられ、ふと返事をしてしまい、以降「顔見知り」という人間関係ラベルを無理やり掴まされてしまう。
入り口を入って視界の片隅に「顔見知り」を捕捉すると、なるべく顔を伏せ、気ずかれないようにロッカーの間を迂回してやりすごすという毎日である。
ふう、疲れるわ。
 
夕刻スポーツクラブを出ると、初夏のような穏やかな陽射しから渡ってくる風が心地よい。
最近、新しくできたご近所のイオン・モールに直行しがちだったが、今日は久しぶりに白川ダムに行って寝転んで本でも読もう。
 
白川ダムの対岸の山並に夕日が陰影をつけるのを寝そべって眺める季節になった。
まだキャンピングチェアーをバイクに装備してないので、土手の斜面の草原にシートを
敷いて寝そべる。

蚊柱がついて来る。

寝転んでいても、真上に
蚊柱が居座って動かない。

ふと、手をうごかすと、
なんと、この小虫達も
いっせいに手の動きに
ついてくる。

 動かないと相手も動かず、
一定の距離で対峙する。

こちらが油断したら、すばやく襲ってくるつもりか?

 
まさか!
マイクル・クライトン「プレイ」
の群体生物でもあるまいに。
 
この小虫達の動きは完全にシンクロナイズされ、全体が一個の生物体のように当方の動きと対応している。
しかも各個体同士は絶えず動き回って、素粒子の軌跡のように個の存在の痕跡を消し去っている。
こんなに密集して飛行していても各々がぶつかってしまう気配はない。
 
多分こいつらの「個」の意識は殆ど無に近いほど希薄なんだろう。
それぞれがごく単純な、共通な行動プログラムだけが与えられ、全体で一個のように動いている。
 
自分は横のあんたとまったく同じで、あんたはとりもなおさず自分自身そのものなんだよ。
 
全体と個がいかなる局面でも矛盾しない存在なのか、お前らは?
だとしたら、存在的には私よりよほど高次のレベルに達している生き物なのか、あんたらは?
 
やはり、私がたどらされた「進化」の過程は存在からの限りない逸脱、絶対的矛盾的自己崩壊だったと?
ぷふい!
 
空と地の狭間でひとり倦まず蚊とたわむる。
 

 

シジフォスの負荷 蚊柱だって楽じゃ..