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[団塊の段階的生活]

重層する世界のエトス(6)

2013/5/28(火) 午後 6:16
5/25(土)
なんだか夏っぽい大気に覆われて、そろそろ今年も鬱の季節ですね。
人に会うのもつらくなり、日曜日に旧友たちと会食の予定だったが欠礼した。
ついでに彼らと今年の秋に予定していた集会参加も辞退してしまった。
やはり初めて会う方が大半の集団では心理的荷重がのしかかる。
 
今年も夏はドイツに行くしかない。
と、一応決めておいて無理やり予定を作り、それを消化することでこの世のことをやり過ごす。
 
急にこの週末の予定が消え、ほっとするが少しばかり寂しくもあり、なさけない自分の現状が侘しくもあり、いつの間にか大阪のハハオヤと会食することになった。
 
 
 
 
 
 
 
←ウメダの青冥で杏仁豆腐をすするハハオヤ
 
深夜にヨメと二人で250ccヴォルティとヤマハJOGで、下品な排気音をまき散らしながら北港通りをUSJまで爆走。
 
しかし暴走してもからりと気分が晴れるという純朴な年齢ではない。
せいぜい、ヨメの回りを跳ね回るイヌの姿になってとってつけた陽気さをまき散らすだけ。
  
すっかり中身が入れ替わってしまったヨメ。すっかり人間性を失ってしまった私。
 
 
 

ハハオヤの饒舌は私が交じることで最高潮になり、止め処がない。
私とヨメがかわす言葉の半分は聞こえていず、不明の部分に勝手に自分の言葉をかぶせていく。
 
意識に浮かぶあらゆる断片をかたっぱしから発声してしまう。
まったく対話する相手との発話レベルの調整ができない。
 
「目がかゆい」という私の言葉が耳に入ったとたん、脈絡もなく飛び出してくる想念:
「岐阜のマサオがヒコバルに行ってる時、カイゆうて薬こぉてきて、つけとったら、あとでかゆなって・かゆなって・・それ、どうすんの?」
 
まったく具体的な描写だけでできていて、私の話に対話としてからんでくるという角度でもない。
もし、対話するとすれば「薬でかぶれることもあるらしい」とか抽象のレベルを上げて合いの手を挟んでくれればいいんだが。
「それ、どうすんの?」はその時ヨメが冷蔵庫から出してきた食品を目にしたとたん、そちらに意識が行ったということだ。
ハハオヤは我々の言葉を半分以上意識から消去しているのだが、しかしハハオヤの発語はいちいち具体的な固有名詞に満ちていて意味がこれでもか、これでもか、とばかりこちらに押し寄せてくるのである。
 
恐ろしいまでの具象の洪水。
意味的がらくたの氾濫。
言葉によるゴミ屋敷。
 
一切の抽象能力の完全欠如。 
実世界と全く寸分なく重なっている自分としてのハハオヤ。
 
最近私の方では、ヨメとの対話が具体的な言葉から始まることはない。
徹底的に意味性を排除したノンバーバルコミュニケーションによって会話を成立させようと先ず試みる。
ただコミュニケーションを成立させようという意思だけがあり、言葉に意味はない。
 
「アウアウ、ムガムガ、フケフケ、ホケホケ・・・」 ちゅうだけだがね。
 
そんなもんだ。
具体的な何者も私には見えていない。
フッサールの方法論でいう、意識の中に埋もれている自分にとっては確実だと確信できる所与構造?
認識するということが認識できないものの膨大な不確実な世界を見せつける。
では、ハハオヤのようにコトバは雲のように湧き出てくる想念をそのまま実体として定着させることに役割させるべきか?
 
無知であるが故にすべてを知っている。
言葉に出るから実体はある。
懐疑のない確実な世界。
 
ソクラテスもデカルトも、フサールもハイデガーも、この確実に実在する言葉だけでできているハハオヤの世界を計ってみよ。
↑これはゴッホではなく、ハハオヤ85歳の作品 ©CHIE.K 2013     
 
 
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