豆バイクとの付き 途中下車不能! ..
[バイク/野外徘徊]

オバアちゃんの積みこみ方

2013/6/21(金) 午後 7:38
6・14(土) ついにハハオヤ(85)が自家用歩行器を押しながら近隣に出現!
昨年は地元の「お城まつり」に招待したのだが、今年はなんとなく「矢田寺の紫陽花」という企画になった。
矢田寺は紫陽花の名所としては全国第二位の人気だそう(ヨメ談)。
一位は神戸市植物園とか。
 
昨年は拙宅に一泊だったが、今年はなんと3泊もする予定らしい。
 
おいおい・・なんとか静まっていてくれよ、私の鬱。
 

駅前西友にて→
 

6・16(日)
この日、私は所属する合唱団の関係で奈良県合唱祭(於大和高田市さざんかホール)に出かけ、ハハオヤは家で「阪神vs楽天」を観戦。
 
本を読むことはなく、鼻歌も唄わず、文学哲学詩歌科学政治経済に無関心だけではなく、後で分かるのだが自然の景観を愛でるということも特にない。
しかし、テレビでの野球観戦だけは好きで比較的細かいデーターも覚えて口走る。
しかし、大阪下町ではこのような人の方が圧倒的多数者として生活している様である。
私にも「ビール片手にタイガース観戦」というような趣味があったら、こうまで鬱につきまとわれることはなかったのか、とか。
 
私にとっては何とも無意味な合唱祭から急ぎ逃げ帰り、帰宅すればまだ午後4時。
では、実地に試行するとするか。
 
オバアちゃんをバイクに積みこむ方法
もちろん、矢田寺にはタクシーで行くつもりだったが、バイクに積み込めれば話は早い。
 
以前、一度大阪の実家前でおだててバイクに乗せて写真を撮ったことがある。
何とか収まったので、本人もソノ気はあるようだ。
しかし、歩行器なしでは歩けないほど足腰が弱い。
足を腰位置まで持ち上げることは自力ではできない。
 
←後ろでヨメがおしりを押し、座席に持ち上げているの図。
 
この写真では正規に足から乗り込もうとしているのだが、足の力がなく、とうていこれでは上まで登れない。
結局、この日試みた方法:
まず座席に後ろから押し上げ、腹ばいになってなんとか右膝を後部座席にひっかけ、よじ登る。
後ろからの介添えは必要だが、ひーひーいいながらもなんとかよじ登れたようだ。
 
形としては段差のある座敷に膝からよじ登るような塩梅。
膝なら腰の位置までは上がるのだが、足先は絶対に腰までは上がらない。
 
なんと不便なことだが、ともかくオバアちゃんをバイクに積むことができたので、ご近所の浄化センター公園、ザ・ビッグ、白川ダムに連れて回った。
 
歩行器も積載する予定だったが、ハハオヤを積み込むとどうしても後部座席には余裕がない。
といって、400cc黒バイクや250cc豆バイクに積載できるほどコンパクトではない。
 
スーパーでは買い物カートを歩行器替わりにあてがうことにして、杖で歩いてもらうことにした。
実際には杖でも歩けるのだが、本人は買い物をしたいので歩行器のバッグにこだわり、外出には常に押している。
40年ほど前にはチチオヤのバイクの後部に乗っていたので、バイク自体には抵抗はなさそうだった。
 
のどかな白川ダムに連れて行ってゆっくり初夏の空気を堪能してもらった。
そのつもりだったのだが、いかんせん人生は常に期待通りに行くとは限らない。
 
元来農村の出身であるハハオヤは別段水面や緑の構成するルーラルな光景には別に特別な興味はなく、30分もすれば飽きて「早ヨ、スーパー行こ!」とせかすばかり。
 
誰でも緑豊かな明るい自然の風景には心安らぐだろう、と思いがちだが、そんなことはない。
生きて見ている世界はそれぞれ違うのだ。
この老婆には都会の猥雑さこそが自分が生きる意味のある世界のようだ。
 
ザ・ビッグで買い回り中私に電話あり。
「合唱祭賞受賞」とか。別にそんなこと、電話してきてくれなくともいいんだがなぁ・・・
 
男はいつまで子供を孕ませられるか、という話で「斉藤茂吉も北杜夫を生んだとき68だった」と私が例示する。
ヨメが「斉藤茂吉って知ってる?」とハハオヤに聞く。
「知らん。チチオヤだったら何でも知ってた。」といつものセリフ。
 
趣味・教養はチチオヤの世界の話。自分はあくまで生活の実践者。
実際はチチオヤも町のちゃちい好事家に過ぎず、生活者として大した違いはなかったのだが。
まあいい。ハハオヤ(やその娘)にとってチチオヤは天才的な教養人だったのだ。
それはいいのだが、私が何か言うとチチオヤを出して対抗しようとするのだけはヤメてくれよな!

6・17(月)
矢田寺に行くのである。
 
オバアちゃんのバイクの積み方技術に新たなブレークスルーがあった。
 
お座敷に這い上がるような姿勢でバイクによじ登るのでは常におしりを押さないと登れない。
一度、先に後ろ向きになり、おしりを先ず座席に乗せ、そのまま仰向きに寝ころんで、足をバイクの上に伸ばせばどうか?
 
↑これが正解だった。(^^)
 
おかげでますます後部座席で仰向きに寝ころんで運搬されるような姿勢が常となってしまったのだが、いたしかたなし。
矢田寺には裏の東明寺に抜ける山道が便利だが、このシーズンはガードマンがいて通行止めにして、見張っている。地元のバイクならお寺の境内を横切って東明寺の方に抜けられるのだ。
 
ちょいと融通のきかないガードマン氏と交渉し、オバアちゃんをお寺の境内まで連れて行ってから降ろして戻ってくることで話をつける。
 
しかし、お寺の境内の料金所のオバさんに交渉すると、バイクは境内に置いておいていい、とのこと。
まあ、いろいろと試行したが、結局、無事矢田寺紫陽花園を散策。
 
わざと土・日を外したのだが、流石の人出である。
それに時間の読みを間違え、真夏の太陽が真上から直撃。
 
矢田寺紫陽花園は山の斜面で適度に影もあって助かった。
 
神戸市植物園はその植え付け面積に圧倒されるが、矢田寺は起伏のある地形を利用して変化のある見せ方をしているのでいい(ヨメ談)。
私はシーズンオフの矢田寺に以前来ているが、本当に小さな山寺だった。
紫陽花が咲いていなければ本当に狭い寺域という印象だったが、視界を覆う紫陽花に隠されて、適度な散歩コースに拡大されていた。
 
山の上方に登っていけばまだ御影堂前紫陽花広場というのがあるそうだが、オバアちゃんには無理だろう。
これで退散。
 
帰りに矢田山降りたところのアピタに拠り、少し食料を仕入れ帰宅後昼食と昼寝。
 
この日は、また夜に天理市の大創の大型店舗に行き、ザ・ビッグのガーデニング売り場で「ビシャコ」の所在を聞く。
 
ザ・ビッグの外売り場は7時閉店で、結局展示してあったのが「ビシャコ」であるかどうか未確認。
 
それから郡山市のイオンに回る。 遅い夕食は半額で仕入れたオーストラリア産ステーキだよ。

6月18日(火)
最終日なので、遠出することにする。
母親もバイク後部座席に慣れたようで、自動車専用名阪道路を走っても別に支障はないようだ。
 
←ハハオヤ針テラスデビュー。
 
相変わらず景色には無感動で、針テラスのとれしゃき市場(野菜直売所)の方が面白そう。
そのまま山添インターまで行き、花香房の花直売所にて。
 
どうですか?
なかなかたくさん花置いてあるでしょう?
と、期待を込めてハハオヤを見るが、あちらはただ淡々と花を見て回るばかり。
 
とにかく、この人は無感動にただ連れて行かれるところについていくだけだったのだ。
自分の欲求を通すわけでもなく、別に嫌がるわけでもなく。
 
そのように家族の意向に従ってただついていくことで人生の大半が過ぎていった。
気が付けば、別に自分のしたいことももなく、ただ淡々と長生きしているだけの人になっている。
 
どこに行きたい?
何をしたい?
何を食べたい?
 
「別に・・どこでもええ」
 
泣くことも冗談言って笑うこともなく、ただ淡々と目の前の世界を生きていらっしゃるのだ。
 
そっちの方がいいのかも。
鬱とは無縁に、淡々と。 
下道で神野山に行く。
野菜売り場のオジさんにヨメが「ビシャコ」があるか尋ねたようだ。
オジさんは気軽に駐車場前の斜面を登っていき、ビシャコを2本ばかり抜いてくれた。
 
ハハオヤはなぜかビシャコに執心し、山で探してきてくれ、とヨメに言ってたのだ。
 
半年越しに山のビシャコ現物を手に入れたのだが、相変わらず感動とはほどとおい感覚のあり方である。
「そおかぁ」というような遠い返事。
「めえめえ牧場」に回り、我々には定例のラーメン昼食にする。
 
それでもメンテナンスをする地元の人はいるのだが、平日のこの施設には誰もいず、のんびりのびのびの極みである。
ヨメも会社を休んで平日休暇にしただけのことはある、というもんだ。
 
しかし、私にとっては平日の野外郊外公園野原は日常のことだ。
なのにどうして、心がのほほんとのどかになってはくれんのか。
 
わ、ウール100パーセント!
と羊毛を引っ張り盗り、家に持って帰りセーターを編もうとするヨメ。
 
これ、返しなさい!
もう戻しても、もう一度くっついて生えるものでもないが。
 
何も期待せず、喜びもせず淡々とまだ生きるハハオヤ。
 
しかし、私はやはり何かまだ期待し、生きたいと思ってるんだろうか?
 
この日夕刻、予定通りハハオヤは娘に付き添われて駅から大阪に帰って行った。
平日の夕方の駅前は帰宅するサラリーマン、学生、自転車、車で一杯だった。
林のコロッケのにおい、ミニストップ前でパンをかじっている高校生、うろつくどこかの犬。
雑然とした駅前の夕刻。
 
滞在中は気が紛れていたのだが、母娘を見送ると、夕刻の雑多な、ハハオヤの人生のような、私とは無縁な生活が圧倒的な量で押し寄せてくる。
いや、私自身もこの中に交じりこんでいる、ちっぽけな生活のひとつに過ぎない。
このような類型的な飽き飽きする生活中で殆どの生きるエネルギーを既に使い果たしてしまったのだ。
膨大な、圧倒的に無意味な目の前の人生の量。
めまいのような、涙のような。 

野っぱらはいいな
いつ来てみてもいいな
 
おや、羊がいるな
放ち飼いだな
 
いい毛並だな
だが、独りだな
.....
 
野っぱらはいいな
 
さびしくって いいな
 (大木惇夫 「野の羊」)
 
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豆バイクとの付き 途中下車不能! ..