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[団塊の段階的生活] |
クライスレリアーナと幻想曲、現象学的春の回帰 |
2014/4/11(金) 午後 3:33 |
春になるとクライスレリアーナが聞こえてくる。
週末にハハオヤが花見にやって来、饒舌の嵐の中。
気が付けば、私の隣に老婆が寝ていたり。
それでもうまくやりすごしたのだが、最終日の朝にトリガーが外れた。
相も変らぬ親戚の話・田舎の法事の話・・・
・・私の感覚的嫌悪がふいに閾値からあふれ感情爆発を起こす。 アドレナリンをコントロールしていた理性が一度途切れると後は地獄の激情が吹き荒れる。 激情と嫌悪。
自分と世界への嫌悪。 今すぐにでも業火で焼き尽くさねばならないこの嘘くさい世界。 ---
激情が静まると嫌悪だけが残る。
未だに世界を嫌悪している自分への嫌悪。 この世との折り合いをつけるのに失敗したみじめな今が子供の頃の癪と重なる。
涙をこらえてまで大人であり続ける意味はもうない。 泣けばしゃくりあげるまでのうねりが一気に幼児にしてくれる。 母よ。私を生んだ母よ、私を助けよ。
駅までハハオヤを見送り、しばらく駅前で立って泣いていた。
いつの間にかシワくちゃの老人になってしまっている私が駅前に立ってみじめに泣いている。 嘘くさい世界とウソくさい私。
「えーん、えーん、おバアちゃんが帰ってしもたぁ・・・」とか泣いてみる。 --- 春になるとクライスレリアーナがどこからか聞こえてき、子供の頃にうごめいていた感覚が蘇る。
都会の裏側のエアポケットのような陽射しの町角に路面電車が馬鹿げた音を発てて通り過ぎていく。 すべてが始まってもいないのに一人遠くの町の歩道に立って泣いていた。
すべてを捨てた私がグルノーブルの郊外の見知らぬ町角で思い出したように泣いている。 すべて過ぎ去った今も駅前に立って相変わらず泣いている。 なんてウソくさい人生、嘘くさい自分よ。
『本当は私はもうとっくに死んでいないのだ』ということを思いだす。
この根拠もなく漂っている哀しみの正体は、まあ大体そのような感じだ。 どこにも居ない自分がどこにも居ないことを思い出して泣いているのだ。 ---
しかし、それは逆ではないのか? どこにも居ないのは君たちではないのか? Rもおバアちゃんも、合唱団やスポーツクラブの老人達も、テレビの山中教授達もすべてがウソくさい。 すべてが何かニセモノだけでできている世界のように見える。 本当は、君たちは私の死後の世界の永遠に逃れられない夢を全員でやっているんではないのか?
だから妙に薄っぺらい、まるで「こしらえたような」人たちなので。 こちらから見れば君たちの認識の地平線はまるで小学校の教科書だけでできているように薄っぺらく、立体のような影もない。
私が適当に紙細工でも作るように安直に作ってしまった世界、と言われれば納得がいく。 やはり私はあの時すでに致命的に失敗してしまっていたのだ。
ただ失敗してしまった夢のガラクタを捨てきれず今までも。 しかし、それはどちらでも同じことだ。
そのようなことがあったとして、なかったとして。
世界はそのようなものとしてただそのように私の意識に写っている。
そしてそのように私の自我をくるみ、一切がそのようにただ現れている。
実に単純に、ただそれだけ。
既にもうどこにも居もしない自分とどこにもありもしない世界。
ここから見えるのは実に単純に、ただそれだけ。
ただ駅前で立ちすくみ帰る場所もなくぼうぼうと泣いている。
---
回帰する春がいつもの挨拶をよこす。
「ようこそ、鬱へ」
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