小学校倫理の時間 矢田遊びの森のア..
[団塊の段階的生活]

小学校倫理の時間 補足

2014/6/5(木) 午後 3:17
前回に報告した「靴をイスの上に置かないでください」という張り紙を昨日確認してきたのだが、少し訂正し補足しておく。
 
スポーツクラブのロッカーでのベンチの張り紙↓
 
「マナーを守って気持ちよく・・
イスの上にシューズを置かないでください。」
 
そしてスポーツシューズの写真があり、バツ印を重ねてある。
 
私もよく状況を観察したのだが、確かにベンチの上にシューズを置くのは良識に反する気はするかな。
実害はないのだが、いつも床の上に置いてある靴のようなものがベンチに上がっているのを想像すると多少の違和感はある。
しかし、そりゃあ習慣の問題でしょう。
多分、ベンチの上に室内履きを置く人が増えればタダの見慣れた光景になるハズだ。
私は別にかまわんよ。
 
それより。
マナーってのは守るものかね?
 
守るのは規則だろ。
マナーは自発的に心がけるものだ。
他人がやいやい言うもんじゃない。
 
私は風呂やロッカーというような閉空間内で勝手なプライバシーを大声で聞かされることの方がよほど悪質なマナー違反だと思う。
しかし、耳の遠そうなご老人達に苦情を申し上げるつもりはない。
本人に他人に不快を与えている自覚がないのなら、この苦情申し立て自体が別の不快のタネになる。
 
あまりにも「張り紙しておけばいい」的安直な要請が多く、煩わしい次第。
 
あまり関係ないが、こういう「セルフ」に私は一人で苛立ってしまう
(self-irritancy)。
 
これでも意味が分かってしまう(self-explanatory)自分も情けないが。
 
Cafeのアクセントの位置も気になるし、「・・となっております。」の余計な冗長性も不快。
 
私には許せん不快な表示だが、苦情を申し入れると私の方が不快な人と言われてしまうだろう。
公に文字を示す掲示には正しい日本語を使用するというのが当然のマナーだと思うのだが、マナーなんて得てしてそのように恣意的なものだ。
他人に対してああせえ・こうせえとか言うべきもんじゃない。
 
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倫理やマナーという範疇は個人差が大きく、もちろん地域・文化の差にも大きく影響される。
テーブルマナーなんていうものもあり、昔日本では「ご飯をフォークの背に乗せて食すべし」というようなめちゃくちゃな作法を教えていたものだ。
 
そういうローカルルールをグローバルに、つまり常に「正しいもの」と考え、違反他者に対して矯正しようというような正義感を小学生的正義感と私は言う。
 
個人的差異を一切許容せず、自分が見ている世界は他者にもまったく同じように見えているハズで、それ以外の世界観で行動するものは悪に他ならず。
そういう小学生にしか通用しない倫理の政策で現に運営してる国家もありますよねぇ。
 
小学校的倫理なら実害はなく、しかも隣人としては大いに有用なこともある。
しかし、閉口させられるのは他人に対してもその倫理を適応させねばならない、という正義感の持ち主だ。
どうでもいいようなローカルルールを厳格に適応させようと、常に「仕切る」人がね(^^;
 
このような小学校の級長さんタイプがいなければ、ラチがあかない小社会も確かにある。
しかし、どのみちスポーツクラブや合唱団というような有っても無くてもいいような小社会での話である。
そんなところで自己確認していただかなくてもなぁ。
 
おっとあぶない。あわてて口チャック。

スポーツや音楽の団体って本来的に小学生的性格の集団なのだ。
ひたすら私も良い子でいることに努めているわけ。
 
それでも限度がある。
つい大声で「小学生か、オマエラ!」と叫んでしまいそうになる。
 
いつも大体3年くらいで正体がバレ、団体を追い出されることになっている。
今年、通算で大体3年目だよな。そろそろヤバいなぁ。
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以前から簡易人品判別システムHemiq式を開発し提唱しているのだが、そいつを適用すれば小学校の級長サンタイプは正に第三流の人物と判別されてしまう。
 
   〔人品判別Hemiq式〕
 一流の人 ---  正しい人
 二流の人 ---  正しくない人
 三流の人 ---  二流なのに、自分は一流だと思っている人
 
お互いどのみち大したことのない凡夫でしょう?
そう自覚すれば他人にモラルを説くという、一流人物仕様の行動なんてできませんよね。
 
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