天王寺動物園と阿 小学校倫理の時間..
[団塊の段階的生活]

小学校倫理の時間

2014/6/2(月) 午後 5:21
行きつけのスポーツクラブには水着脱水機と称する回転式脱水装置が風呂場に設置してある。
 
脱水機には「水着専用」との張り紙があり、「水着以外のものを脱水すると、モーターが過熱して故障する恐れがあります。」との説明がある。
要するに水着程度の布きれがこの装置の許容限度で、それ以上の負荷をかけるなということだろうと解釈し、当初からタオル・水泳帽・スイミングパンツとトレーニングウエア上下を適宜振り分け、水洗し過負荷にならないよう脱水させていただいている。
 
誰が考えてもタオルの脱水くらいは何の問題なさそうなのだが、規則というものはどこかで線引きしなければ、膨大で無意味な仔細を条件として付け加えねばならない。
「水を含んだときの総重量が五キロ以内で回転中回転槽の上一〇センチ以内に収まっている材質が植物あるいは合成繊維製の布状のもの専用」とか。
だから、私は「水着専用」という文言を上記のように私の常識にしたがって解釈しているわけだ。
 
 
先日、トレーニングウエアを脱水していると、後ろから「あ、これは水着専用で願います!」との声あり。
スポーツクラブの担当者に見つかっちゃったか(^^;と思い、振り返ると風呂上りの他の会員サンだった。
私は自分なりにルールを守っているつもりだったので、「何故ですか?」と聞いてみた。
「そこに書いてあるでしょう。」とのこと。
「規則だから、ということですね。わかりました。」とそれ以上の踏み込みを避け、うわべ恐縮し引き下がる。
 
いるんですよね。このタイプの小学校的潔癖倫理感で生きている人。
私はこのタイプの方に対しては「何故いけないんですか?」とかの議論をするつもりはまったくない。
しかし、ばかばかしい思いは常に残るのでこの欄でちょいと揶揄させていただく。
 
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もちろん、私は私の行為が絶対に他の会員やスポーツクラブに迷惑をかけていないと考えているのだが、これは主観の問題なのでどうでもいい。
その方が脱水機の順番を待っていたのなら、水着以外の脱水で時間を取られるのは確かに自分の利害にかかわる問題でもあるわけだ。
 
しかし、この方にはそのような直接利害関係はない、おそらく張り紙に書かれてある注意事項を尊守していないのはけしからん、という正義感の持ち主であるということだろう。
人並み外れた立派な方で、こんな小さな違反でも許容すれば世界の秩序がほころびていくと感じてらっしゃるのか。
このような方だけで社会が構成されていれば犯罪的な問題は一切生じることはない。
 
しかし、隣人としてはチト困る。
なんとなれば、刑法に触れるような大問題でもなく、明確な不利益をもたらすような民法上の問題でもなく、単なるその場の、理由も良く説明されていないお仕着せローカルルールである。
私にはわからんが、マナーの問題ということですかね。
 
マナーならば個人が心して行為するもので他人にどうこうと押し付けるものではない。
迷惑をかけられている当事者が「マナーを尊重してください」とか抗弁に利用することはあっても、利害関係のない第三者が直接詰問するのはあまりにも独断的で自己中心的な世界の解釈という以外にない。
 
おそらく、私にルール違反を警告していただけた方は一私企業のいい加減な掲示ルールをモーゼの十戒並の絶対的規範とでも理解されているのか。
お互いに会員なんだから、企業側のセコい経営戦略に共闘して対抗する、という立場だってありと思うが。
 
小学生の集団が信号のある横断歩道で、車の陰もないのに、しかも三メートル幅しかないのにじっと赤信号が青に変わるのを待っているという構図を思い出す。
私は自己責任で赤信号を渡る人です。
 
あるいは左右の見通しがいい遮断器が上がっている踏切で、しかも前の車が一旦停止しているにも関わらず、後続の車が馬鹿丁寧に単に「規則だから」と一旦停止を繰り返している構図。
バイクではいったん停止してしまうとバランスを大きく崩すので、私は動きながら一応左右を確認して踏切通過する人です。
 
この例の場合、もしパトカーが近くに居るのなら私は一旦停止する。
スポーツクラブでも従業員の方が注意してくれるなら快く応じます。
「お仕事ごくろうさま」ですね。
 
しかし、見通しのいい踏切で私がバイクを停止させずに横断している時、あの方なら後ろで見ていて「踏切では一旦停止してください!」と注意しにくるのだろうか?
それが社会正義であると信じていらっしゃるのならばあまりにも一面的に過ぎる。
要するにそんなことは日常上のどうでもいい問題で、どうしても他人の生活に介入し警告しなければならないようなシリアスな意味はなにもない。
少なくとも私個人のモラルとは違っているのだが、そのような個人間の差異を考慮する余地がないところに私が小学校的倫理感と揶揄する所以がある。
 
小学校式倫理感だけで国民が生きていることは為政者の望むところでもある。
とにかくお上の通達を尊守しない者には隣人が自主的に代行し制裁してくれるのだ。
旧共産主義国家の国家英雄とはだいたいそのような方への称号だったろう。
 
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別のスポーツクラブの掲示の例を書いとこう。
ロッカーのベンチに張り付けてある文言。
「この上に靴を置かないでください。」
 
最初見た時に意味が解らなかった。実は今でも解っていない。
「この上に私物を置かないでください。」
なら解らんでもない。
ベンチはなるべく座りたい人に解放してあげるべきですよね。
 
しかし、何故「靴だけ」は置いてはいかんのだろう。
靴といっても土足はロビーで必ず脱ぐことになっていて、ここでいう靴とは室内履きのスポーツシューズである。
床に触れているのはバッグも、あるいはスタジオ運動した人のお尻も同じで衛生面に問題があるわけではない。
 
私の解釈はこう。
「たとえ土足でなくとも靴を置いた後のベンチに座るのはイヤ」という病的な潔癖症のオバサンがいて、クラブ側になんとかするようネジ込む。
クラブ側は「うるさい」ので「はい、こんど張り紙でもしておきます。」ということで対応したことにする。
 
というのも、最近やたらとこの手のどうでもい張り紙が多いのだ。
明らかに張り紙をしたことで対応したという形にし、この問題は決着したとするような、そのような無責任な張り紙注意書きが氾濫しているようだ。
 
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思い出してしまったので、昨日も行った奈良県立図書情報館の張り紙の例を挙げる。
 
成人席というのがあり「ここでの自習は固く禁じます」とかの掲示がある。
しかし、各席が独立している成人席は一日中頑張ってらしゃるエリート受験生の方には好評で、どうみても常に成人席の半数は自分の持ち込み図書にペンで何かを書いている自習者で占められている。
図書館側が見て見ぬふりをしているのは間違いはないし、第一その実態を見ようともしていないようにしか思えない。
要するに、「自習禁止」の張り紙をしたことで奈良県職員としてのオシゴトは完了し、結果がどうなっているのかは職務には関係ないということだろう。
 
現在掲示されている館内の投書板の写真がある。(5/31撮影)
あまり鮮明でなく恐縮だが、もう曝書休館にはいっちゃったので再撮影は不可能で悪しからず。
 
つまり投稿者は
「自習禁止と書いてあるが、実際にはテスト時期には自習者であふれているではないか?
本当に違反者は退館させているのか?
事実と異なる掲示をしない方がいい。」
とたっぷり皮肉を込めた投稿であるわけだ。
 
これに対する千田稔館長の回答:
「当館は当館資料閲覧者の為に成人席をもうけてあり、自習者の利用は遠慮もうしあげています。
どうか、この旨ご承知置きくださり、ご協力お願いいたします。」
と、正に慇懃無礼、模範公務員の口先回答である。
なにより、投稿者の意図がまったく汲めていないのが情けない。
 
私はこの場合、勝手に張り紙を無視し、自分の利益のために県民税納税者の権利を阻害している自習者達を擁護するつもりは全くない。
スポーツクラブのあの潔癖倫理尊守委員会自主会長会員サンを呼んできて、張り紙無視の自習者各位に一喝していただきたいものだ。
このケースなら私は傍若無人な自習者よりも潔癖倫理会員氏の方に近い心情の持ち主に豹変するワケだ。
 
私も小学校的倫理感は多分にあるのだ。
ただ、直接利害関係がなければ他者に自説を押し付けることはない。
小学校的倫理感はあるのだが、小学校的正義感はない、というべきか。
 
倫理感は人によって違うのだが、自分の倫理だけが唯一のものとして問答無用、一方的に強制発動させるのが小学校的正義感。
 
私は基本的に法やルールに従って生きているのだが、時として納得できない法やルールに反することも意識的に隠れてやってます。
しかし私を何の利害関係もない第三者が勝手にソチラ側の正義感だけで裁こうとすることに対してはつつしんで拒否させていただきますので。
 
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