矢田遊びの森のア 中野信行氏の死を..
[団塊の段階的生活]

アマチュア合唱団「流浪の民」

2014/6/16(月) 午後 4:16
6月15日(日)
当方が参加しているご近所合唱団で奈良県合唱祭参加。於大和高田市さざんかH。
 
わずか8分間のステージ時間だが、午前中近所の練習場で発声練習、午後隣市のホールで本番出演というスケジュールでほぼ一日仕事になってしまう。
日頃時間にまったくこだわらない生活をしている私には、朝からお仕事モードというのは大苦手、出来ればパスしたいところだが、団体行動ではそうもいかない。
数日前からステージ衣装を確認点検したり、前日は寝付けないけど早く寝たり(^^;とか事前準備にも適度な負荷をいただくことにもなる。
 
しかし、そのくらいのストレスで職場放棄してしまってはまっとうな社会生活は営めない。
そんなもの私にはどうでもいいのだが、さりとて未だ三界の執着を一切皆空と喝破するには到底至らず悶々と未だに人の形で生きてます。
適度な負荷は買ってでも自分に課しとかないと少々やばいことになる。
 
しかし、合唱祭参加費一人2000円はベラボーに高すぎる。
参加人数80名のウチの合唱団の参加費だけでホールの賃料はクリアできてしまう。費用を支払っているのに合唱連盟からの何ら会計報告がないのだが・・
とか、そのようなことは外では絶対漏らせる雰囲気ではないので、ここでこっそりチラリと(^^;
 
しかし、どうして合唱祭参加とか定期演奏会開催とかしなければいかんのか?
というところから他では言えない私の孤独なモノローグが始まってしまう。

 
今回も合唱祭では優秀団体とかで合唱祭賞受賞。
受賞は3年連続、まずはおめでとうさんだが今回は少々事情が違う。
 
前回までは、たかが8分の演奏に各パートにテコ入れの助っ人を雇っていたのだ。
日頃は「上手な人でも自主練習には極力参加を!」と日頃のチームワークを旨としているハズなのに、演奏会となるとワンポイントで練習にも来ていない外部実力者を補強していた。
背に腹は代えられない、という現実路線。
 
それはそれで戦略的には理解できないこともない。
結局、ウマけりゃいいのかとか・・そこまでして「賞」取らなくともとか・・いろいろ言われるだろうけど、私は絶対言いません、外では(^^;
 
しかしウチは市が主催し市営ホールを練習会場としている市の合唱講座が母体の団体。
団費納入しない方も練習場を利用してるのはちと?
それを言えば、練習場賃料は市民と市民以外との2重料金制だが、市に納入する正規の合唱団費にはその区別がないのは市民税を支払っている一市民としては損・・
とかのセコい話もいたしません(^^;
 
しかし今回は全く「助っ人」なし。
しかも正指揮者は当日病欠、伴奏ピアニストが急遽代演というアクシデントにもかかわらず。
それでも合唱祭賞受賞。
 
それでは本当に、この合唱団の実力が?
困ったことに(^^;
 

私の合唱歴も40年をとっくに超えてしまった。
筋肉としての声帯の訓練は一応出来ていて声量だけはプロ以外に負けたことはございません。←それがイカンのじゃ!
 
アマチュア合唱団内でそれなりに楽しんできたのだが、私の好みは自分の声で気持ちよく歌うことに尽きる。
もちろん合唱としての微妙なハーモニーを楽しむとか、日本の合唱曲のそこはかとない抒情性を味わうとかいうのも解らんではないのだが、大声を出すという原始的かつ生理的な欲求を満たす楽しみに如くことはない。
かくて、いろんな団体で歌ってきたにしては私の声楽的技量はそれ以上向上することはなかった。
 
実を言うと私のピアノもそのようなもので、演奏解釈というよりも肉体運動の生理的な楽しみが第一に先行する。
だから他人に聞かせるという意図は全くない。
あるとすれば単なる運動能力の自己顕示欲だけで、あまりホメたモンじゃない。
 
しかし合唱指導者の方からいうと私は常に困った団員であったはずだ。
特に3年前まで参加していた大阪の合唱団は少人数であり、宗教曲や緻密な声楽的表現が指導の核になっていた。
声量以外の点では私は40年のキャリアにもかかわらず素人的にヘタ。
で、どうしても目立ってしまう私が集中攻撃を受けることも多かった。
もちろん指導意図を尊重し、できるだけ控えた表現を心がけてはいたのだが、私自身の生理的なストレスは増大するばかり。
やはり私には合っていない合唱団だと結論する以外にはなかった。
 
 
そして(再び)大人数で楽譜が読めない者が大半の初心者集団だった現在のご近所合唱団に舞い戻ってきたのだった。
今でもパート別の譜読みは階名唱ではなく、いきなり歌詞付きのメロディーをリーダーから口承していただいている。
 
オペラのリリックテナーの指導者が当初は「もっとフォルテ!」とか叫んでいたりして、大いに声楽的な、というより声を出して歌うというもっと生理的な楽しみを引き出すのが毎回の練習の主眼だった。
音楽の好みとは全く違うのだが私の声にはイタリアオペラ的ベルカントの派手な曲が合っている。
大阪の合唱団ではやれなかったその手の曲を楽しんだりできていたのだ。
曲も初見で十分間に合い、週に一度練習場へは自宅からバイクで5分とかからぬというお手軽さ。
 
しかし困ったことに我がご近所合唱団、最近レベルが急に上がってきてしまった(^^;
こうなると指導者としては当然だが、合唱としての高度な表現を目指そうとする。
曲も日本の現代流行りの合唱組曲が多くなってきた。
クラシック音楽としては少しアナクロ気味だが、ねっとりとした特有の抒情性、現代詩としてはかなり古風で明確なメッセージ性のある詩の表現とか。
 
そういうちょっと「芸術風」音楽はちとニガ手(^^;
 
プロの音楽家なら繊細で微妙な表現や精緻なハーモニーを目指すのは当然だろう。また演奏側の独りよがりにならない、観客を意識した演奏を目指すのもしかり。
 
私は永遠のド素人のままで、単純に声を出す楽しみの域から出ることはない。
合唱表現を極めようなどとはちっとも思ってないわけで(^^;
 
もちろん溶け合うハーモニーに喜びを感じる層もあるとは思う。
しかし本来的にはハーモニーが享受できるのは指揮者か観客の位置だろう。
パート内で歌っている分には完璧なハーモニーが聞き得るわけではない。
完璧にハーモニーの一部品になりきってしまうという技量、その技術が歌うということの醍醐味と感じる方なら限りなくプロの音楽家に近い。
思うに日本ではもしかして、そのような方が意外に多いのかも知れない。
チームプレーの野球と同じように合唱は日本人好みの分野でもあるわけだ。
 
オペラやいわゆる西欧クラシック音楽における合唱曲には群衆の声というイメージを表現するものが多い。
当然ギリシャ語のコロスがコーラスの語源であるわけだ。群衆の声。
ベートーベン第九のコーラスは洗練された合唱の美しさではなく、雑多な声が入り混じった群衆の生の声とでもいうようなイメージが意図されている。
宗教曲にしても、バッハのカンタータの合唱に声楽的ではない素人の声を用いたカールリヒターのことを思い出す。
アマチュア合唱団はそのような雑多なレベルのコロスでいいと私は思い、そしてそうあるよう願っている。
で、ユニフォームを着、行儀よくステージ整列し、作法だけはプロの真似をする必要が一体どこにあるのか理解できないんですよ。
私はあくまで毎回の練習で気持ちよく歌えればそれでいいので。
 
ましかし、アマチュア合唱団に参加する方の目的は雑多で、ドレスで着飾ってステージで演奏する気分を楽しみたい方ももちろんいる。
合唱祭や発表会には参加したくないのはヤマヤマだが、団体行動の主旨から常に多勢に合わせて行動するよう自分に言い聞かせている。
さもないと(−−; ・・・いや、団員として当然です!はい。
 
アマチュア合唱団だからいろんな動機で参加している者がいるのは当然だ。
できればそういう雑多な個性も交じっていることを前提にした曲作りだとありがたい。
しかし、プロの音楽家である指導者としては合唱技術を向上させるという方向で指導する以外にはなかろう。
今回指揮をしていただいたのは伴奏ピアニストで、通常でも練習指揮をされていて、代演であるという違和感はなかった。
それでも練習法や演奏解釈は本来の指揮者とは多少の違いはある。
 
私はピアノ曲を暗譜する時はコーダから順にさかのぼって覚えていくのだが、今回の指揮者も常に曲のおしりの方から完成していくというシステム。
ピアニストという種族の習性でしょうか。
 
他細かい解釈の違いはあるのは当然だが、特に合唱全体を一つの有機的な楽器としてシステマチックにコントロールするという傾向が顕著なのがピアニスト指揮者と声楽家の指揮者との大きな違いと思える。
 
実はステージ直前に「絶対がんばらんといて」と、私は一部品に徹するようクギを刺されていたりする(^^;
もちろん個の声が目立ってしまってはいけません。
極力冷静にコントロールするように努めますので、はい。(+汗)
 
前回同じ曲を別のホールで演奏した時は、歌う側のエネルギー大暴発、全員が「アチラに行ってしまって」観客無視の自己陶酔、おなじアホなら歌わな損、とかいうステージだった。
今回は一種コンクールの気味もあるステージなので、前回の反省を踏まえ、「プロの」聞き手に高得点を付けていただける優等生風上品な演奏というコンセプト。 
私としては「賞」もらうより、前回のような歌う側の勝手な暴発演奏の「歌ったぞ!」と思わず笑みが湧いてしまうような自己陶酔が文句なく楽しいのだが。
 
観客無視の自己本位、これぞ自腹切って歌うアマチュア合唱の至上の喜びだよ。
 
あ、すんません。今、級長サンにギョロリと睨まれた気が(^^;

 
ウチの合唱団もいつの間にかウマくなってしまったんだ。
困ったもんだ(^^;
 
いつまでたっても成長しない私には、もうよほど自己制御しないと付いていけないハイレベルになってしまったようだ。
三年経つとどこでも必ず追い出されるという、どうしても付いて回るジンクスが私にある。
追い出されるというより、ストレスが溜まって溜まって。
そろそろ三年目なんですよね。
 
 
(後日追記)
大声合唱団員が「弱者の暴力」によって常に迫害されるという日本的アマチュア合唱団の実際をリアルに報告してらっしゃる記事を発見。
とどのつまりが「流浪の民」にならざるを得なかった、という流れが私の論旨と相似しているのでここに紹介させていただく。
  => 合唱は“声の無い人間”しかやってはいけないのか?
 
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