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[団塊の段階的生活] |
今私に何ができないのか - 炎上の現象学(5) |
2016/4/29(金)12:56 |
(5) この回は「西洋の傲慢」とは何かについて書く予定だった。 しかしこの間に熊本で大規模な震災が発生し、「偽善の包囲網」が一段と姦しい情況になってしまった。 エマニュエル・トッド「シャルリとは誰か」のあとがきと同様の主旨で今は詳しく論じる情況ではないが、一応このシリーズの論旨に関連する2,3の事象に今回軽く触れておく。 私自身はそれよりヴェトナムや台湾旅行に出かけた後始末に追われ、この小論シリーズの続編までにはなかなか(^^; 1) 4月14日に発生した熊本震災は震度7の最大級の地震だったが、災害の規模としては幸い三年前の東北大震災よりも小さく、マスコミ・メディアの対処もあの時ほどの水も漏らさぬ自粛モードではなかった。 三年前の震災ではその後1週間、すべてのテレビ番組は厳密にフィルトリングされ娯楽・音楽・スポーツ番組は全てカット、民放のコマーシャル・フィルムも一切放送されなかった。 全放送局が「喪に服した」のは、私の記憶では1998年の昭和天皇崩御前後以来だったろう。 「全国民」が喪に服している中、伝えられた被災者の「今欲しいもの」というアンケートの中に「音楽」が上位に挙げられていたのが印象的だった。 死者を悼み、被災者を気遣って娯楽的なバカ騒ぎを放送しない、というのが各放送局の姿勢だったが、現地の被災者にとっては苦しい毎日だからこそテレビの「娯楽」が必要だったのではないか? 全ての娯楽放送の自粛は現地の人にとっては「有難迷惑」だった可能性はある。 しかし、「全国民の善意に支えられていた」被災者がそのような発言ができる情況ではないことも自明だった。 死者も被災者も全国の視聴者も一様な「死者」「被災者」「視聴者」であったわけではないのだが。 死者を悼み、被災者を気遣うのは「当然」だが、しかし「当然」だからといって全員が同じ形式で感じ、考え、行動しなければならないわけではない。 私が激しく当惑したのは「当然」だから全員がそうしなければならない、そのようにしない者は「人間ではない、許せない」と弾劾する人の傲慢だった。 2) 私は以前から「HemiQ式」という「公文式」もどきの商標でごく簡単な人品分類法を提唱している。 一流の人物=正しい人 二流の人物=正しくない人 三流の人物=二流の人物だが自分は一流だと思っている人 正直に言って私は未だかって一流の人物にお目にかかったことはない。 私は自分でもそうだが、殆どの方が二流の人物だと思っていたのだった。 大多数の方が自分は二流の人物だと自覚しているからこそ親鸞の悪人正機や罪を犯したことのない者が石を投げなさいという聖書の挿話が意味を持っている。 これは返って西欧文化の文脈中では自明の事なのかも知れない。 "C'est human"とフランス語では常にいうが、「神」という絶対者の概念があり、人間であるなら自動的に二流であるのは当然のことだ。 人間であることが原罪である、とまで冷徹に見透かす文化である。 しかし立派な二流人物の私でさえ窒息している程今三流の人物が蔓延している。 このシリーズではこれを「偽善の包囲網」と最初の方で言及した。 三流の人物とは「オレは善人。往生できて当然だ」「悪人は許せん。石をぶつけて当然」とか平気で公言される方々である。 厳密な論理体系の「HemiQ式」から言えば、「自分が善人である」という意識を持った時点でこの方は既に三流の人物、本物の偽善者であるのは自明のことだ。 3) 熊本震災が発生し、その翌日に早くも炎上の第一報が聞こえてきた。 毎日放送の記者が被災者の困難な食料事情を伝えた後、自分が食べた配給弁当の写真をTwitterに投稿したことが発覚し、ただちに「炎上」し放送局・番組担当者が陳謝したということだった。 私は「炎上した」という報道しか見ていないので、どのようなツゥィートをしていたのかは確認していない。 食べ物もなく困っている被災者の報道をしながら、自分の食べた配給弁当が美味かったとは何事か、けしからん、許さん、とか言われたようだ。 放送記者も報道するには現地に行くし、仕事で現地入りすれば支給弁当が出るのは当然だろう。 しかしそれが「美味かった」と言ってはイカンらしいのだ。 黙って、被災者の困難を推し量りつつ、コソコソっと食べねばならないようだ。 それは明らかに偽善行為だが、それしかなかろう。 我々は既に善意という偽善の包囲網にがんじがらめにされているのだ。 被災者ではない者が「被災者がどう思う?」と自分の感覚を勝手に投影し、他人の行為を批判し、石を投げつけるという傲慢は一体どこから来るのか? このようなどうでもいい、バカバカしいことへの誹りが共感を呼び、炎上させるに至るまでリツィートが膨れ上がるこの小気味良い偽善の輪の確かな拡がりよ。 私は善意の行為を批判するつもりは全くないし、他人を「許せん」と糾弾する資格もつもりも全くないただの二流の人物である。 しかし、自分の考えと違うというだけで他人に石を投げるという行為が厭わしく、横で拝見させられるのも煩わしい。 現地では連休に入ってボランティアが続々と到着する気配があり、控えめだったが「現地の受け入れが混乱するので、今は専門性を持った方のボランティアが好ましい」とやんわりとその風潮にクギを挿す報道もあった。 善意からの行為は常に絶対正しいという理窟はあり得ない。 「有難迷惑」にならないような配慮はしていただきたい。 4) 今回は前回の東北大震災の時の教訓も生かされているのだろうが、上記のボランティアの在り方の報道姿勢に見られるように、メディアの態度にも国民総動員本土総決戦(善意のお祭り騒ぎ);のような危なっかしさは感じないで済んでいる。 まあ、だからこのような少々アブナイ記事も書いていられるのだが(^^; その中で私がコレはかなわんなぁ、と思ったのは「今、私達に何ができるのか?」というセリフだった。 このシリーズ第一回で「おりこうぶり」について書いたのだが、まさにその典型的なパターンである。 私達?それって誰?あなた自身のことではなくて? 私の母校、大阪市立萩ノ茶屋小学校(2015年閉校)校歌をふと思い出す。 萩の花が美しく 咲いた昔のありさまを 静かに胸に浮かべます 私達もそのように ゆたかな心で生きましょう とか、何とか。ちょっと違ったかな(^^; まあ、小学生が「私達」なんて自分のことだと思う訳もない。 美辞麗句、きれいごとでまったく中身がない。 未だにメロディに乗って回帰してくる「わたくしたち」の語感への違和だけが記憶に残っている。 「私達に何ができるか?」という中にはあなたも私も同じ(日本人?)、だから「あなたも何かすべきだろう」とかいう有難いご指示も紛れ込んでいる。 私達とは一体誰のことなのか? そのような架空の人称で曖昧にしておいて一体何を伝えたいのか? たぶん、「私達」でピンと来る方や連帯感を持つ方もいらっしゃるのかもしれない。 しかし私にはそれが自分(=私個人)に向けられた真剣なメッセージだとは到底思えない。 私はそのように全く別の感性を持つ立派な悪人であるわけなので。 校歌の「わたくしたち」の内容は明確で、萩ノ茶屋小学校生徒全体に間違いない。 「今、私達に何ができるか?」の場合は「私達=被災していない者全体」となるだろう。 でもね、そんな広範囲な人々を「私達」で一様に囲ってしまうことってできるの? 年齢・性別・職業・学歴・居住所・性格・思考・経歴その他一切が簡単に「私達」でくくれる訳がない。そんな乱暴で乱雑でいい加減な感性で。 それよりも、どうして「私個人に何ができるか?」と言えないのか? 誰が、と言う主語を曖昧にぼかす意図は一体なんだろう? 「私達に今何ができるのか?」⇒「皆でできることは何か?」⇒「皆でやることなので、私自身はやらないが」・・・ということなのか? 他者に伝達しようとするなら、その前に自分自身と向き合い「今、私に何ができるのか?」と問いかけてからだと思うし、そうであれば何の違和感もない。 「善意」というレッテルさえ張れば、中身はどんなものでも通用するハズという安直な精神の甘え、もたれかかりが私の違和感の所以だ。 自分一人では絶体に「私」という裸にならない偽善の包囲網。 そんな曖昧な「私達」の中に私は入ってないよ。悪しからず。 |
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