私はシャルリでは 今私に何ができな..
[団塊の段階的生活]

E.トッド「シャルリとは誰か?」 - 炎上の現象学(4)

2016/4/21(木)16:19
(4)エマニュエル・トッド「シャルリとは誰か?」堀茂樹訳 文春新書 2016
パリ2015年1月のCharlie Hebdo編集部襲撃のテロ事件に際しフランス市民の多くがテロに抗議するデモに参加し、犠牲者との連帯を表明。
「Je suis Charlie」(私はシャルリ)が共通のスローガンになった。
フランス2のニュースでこの報道を見、「フランスは何を誤解してるのか」としか私には思えなかった。
テロの犠牲者を悼むあまり、反イスラムのヘイトスピーチにそのまま単純に連帯してしまっているのだ。
明晰でないものはフランス語ではない、と嘗てはその理性と理念の崇高さを誇った国ではないか。
テロによる殺害というショックに際し、フランス市民は理性を捨て、「私はシャルリ」と叫び、むき出しの自己防衛本能のまま異端排撃へと走り込んでいったのだ。
この後、イスラム系フランス人に対する迫害が始まり、そして古典的な反ユダヤの機運が表面に露出し、遂にオイロぺがナチスの制服を纏い始める。
テロ攻撃の恐怖が本来の理性を覆い隠してしまったのか?

そうではない。
フランスには既に盲目的な異端排撃へと突き進むべき必然があったのだ。

エマニュエル・トッドは哲学・歴史・人口学の立場からこのフランスの狂気を検証し、警告する。
「ゾンビ・カトリシズム」と呼ぶ形骸化した宗教心が支配する地域、貧困と自由が裏腹に錯綜する都市部、急激に変化する社会構造。
すべてが「私はシャルリ」を用意し、そしてその後のフランスを予言していた。

いや、フランスは一例にすぎない・・
したがって、「フランス風」集団ヒステリーの発作は西欧のどの国の社会でも起こり得ます。もし常軌を逸したテロ行為によって、「普遍」なるシャルリが突然、自らが支配し、後ろ盾になっている不公正で暴力的な世界の現実をつきつけられるような事態になれば・・・

エマニュエル・トッドはいう。
フランスは、その支配層の不平等主義的で反自由主義的な具体的振舞が、フランス史の最も暗い時期、すなわちドレフュス事件やヴィシー政権の時期を思わせるというのに、間抜けにも、自らを1789年の大革命や、自由および平等の価値や、普遍的人間という理念の後継者だと思っている

神が存在しないというのは高度に理性的な考え方だが、人間存在の究極の目的と言う問題に解を与えてくれない。無神論を突き詰めていくと結局、意味なき世界とプロジェクトなき人類を定義するところにしか行きつかない

ゾンビ・カトリシズムのフランスのほうは、いったん何かを介するということもなしに、直接ただちに神なき世界、無神論的世界の無限の空白に身を移すことになる。
世俗主義的フランスもまた、それなりの角度から、今日の新しい宗教的居心地の悪さに貢献している。無信仰に慣れなければならないからではなく、ついに、教権主義の側からの異議申し立てという論理的・心理的なリソースを奪われた「絶対」の中で無信仰を生きなければならなくなったからである。


われわれは、無信仰のフランスが自らのバランスを見つけるために、もはや使えなくなってしまった自前のカトリシズムに代わるスケープゴートを必要としていることを認めることができなくてはいけない。
イスラム教の悪魔化は、完全に脱キリスト教化した社会に内在する必要性に対応する。


この書はフランスがシャルリになった時2015年1月に書かれ5月に出版された。
テロ事件に反発したデモ行進から数週間、フランスでは、シャルリ現象の意味に関してわずかな疑いも表明することは不可能でした
事実5月にこの本が刊行されると、多くのメディアで「激昂のリアクションが起こり」そして完全に口を閉ざす以外にはない著者への侮蔑が集中する。
その「炎上」自体が著者の分析の正確さをしめしていることにもなるのだが。

日本語版は11月に起きたテロ事件(バタクラン劇場他)の理論的批評を求める日本の新聞からのアクセスによって刊行されたという。
この時の日本のマスコミの反応も私を苛立たせたのだが、皮肉にも著者には逆に日本からの支援に見えたようだ。
事実、日本語版の前書きの日本への言及には特別な保留を付けている。

日本における格差の拡大は著しい現象です。
仏教は、・・・(フランスの)カトリシズム同様に末期的危機のプロセスに入ったように見えます。
ヨーロッパのいたるところで観察されていることに反して、宗教的空白と格差の拡大が、日本ではどんな外国人恐怖症にもつながらない、などということが可能でしょうか。自分が普遍と考える社会学的法則を免れて日本が存在するという仮説は、簡単に受け入れられるものではありません
。』

著者が本論で克明に分析して解明した図式は宗教的空白+(消費社会・あるいはグローバリゼーションによる)格差の拡大=外国人恐怖症だが、日本が例外と見えることに対する戸惑いを表明している。
宗教的空白+格差拡大はあるのに右の項が「?」のままなのが日本の不思議と。

しかしこれはトッドが日本の現状を、本人もいうように良く分かっていないのだ。
フランスでの外国人恐怖症という項は基本理念のカトリック+フランス的理念(自由・平等・博愛)という史的文脈から導き出されるもので、日本では明らかに文脈が違う。
最大の違いは日本の史的文脈からは宗教的な理念があまり重く(高く)なく、どちらかといえば庶民的(あるいは封建的)な世俗倫理観の方が普遍的に浸透していた。

トッドの式は日本ではこうなる。
宗教的空白+格差の拡大=炎上(偽善的正義の強制による現代式村八分)

日本では外国人という宗教・人種的な明確な差異には元より寛容だったが、スケープゴートを求める矛先は日本内部の異端分子に向く。
これは外に求めることよりも更に始末が悪く、まったく救いのない情況と言える。

今私は「炎上の現象学」をテーマとして考察していきたいので、トッドの本論のフランス、ヨーロッパにおける外国人排斥の歴史的経緯や人口構成学上の分析を検証することは主眼ではない。
トッドがこの書の出版によって被った「炎上」で、私が密かに逃げ道と目していたフランスにも「偽善の包囲網」が既に完成していたことを知らされ、救いようもないグローバルな世界の閉塞を見てしまう。

2015年以前のフランスでの類似の事件への対応は『表現の自由が直接的に脅かされることもなく、政府もジャーナリストたちも、大衆社会もパニックに陥っていなかった。どんなヒステリー傾向も窺えなかった。
ところが2015年1月には、批判的分析の声が上がらなかった・・
大衆が動員に応じたことが「素晴らしい」どころか、冷静さの欠如を、つまりは試練の中で人々が取り乱している状態を露見させていた。
テロリズムの行為を断罪するからといって、「シャルリ・エブド」を神格化する必要はさらさらなかった。


「シャルリとは誰か?」を発表したことで六カ月にわたって多くの侮辱を受けた私はついに、表現の自由が、そしてとりわけ討論の自由が、現時点においては、フランスでももはや本当には保障されていないと認めるに至ったのです。
という悲痛な文言でこの本が閉じられている。

2015年1月と11月のフランスを私も見た。
フランスはデカルト以来の理知の国ではなく、それが私が「西欧の傲慢」と呼ばざるを得なかった「理知による偽善」だったことが確認でき暗然となった。

私は嘗てフランスに居を移した経験があり、その後も日本で生き難い事態になった時にはいつでも「フランスに亡命」できるということを心理的な救いにしていたのだ。私が経験したフランスは、各国の亡命者や移民・留学生を受け入れ、その多様性を最大現に尊重する国だった。
黙って同意するより、例え本意でなくとも反論した方が「評価される」とも言われた個人が自由に自己主張する国だったのだ。

しかし私はもうフランスに「亡命」することはない。
私にはもう主張しなければならないという内的エネルギーは何も残っていない。
ただ隙間なく私を追い詰める偽善の包囲網から逃れ、自分のアイデンティティを全て消し去り南アジアの母なる包容力に抱かれることを今は夢想するだけだ。


私はシャルリでは 今私に何ができな..