「偽善強要社会」 E.トッド「シャル..
[団塊の段階的生活]

私はシャルリではない - 炎上の現象学(3)

2016/4/21(木)16:8
(3)
最初に新潮45の特集「偽善の逆襲」の関連する論を紹介しておく。

樫原米紀「フランスがそんなにエラいか」

----要旨-----
昨年12月のパリのテロについて評論家・内田樹が雑誌に発表したコメントは、未だフランスの文化や政治が世界を牽引し、同じテロ経験国のアメリカの精神的単純さとは違うと信じている無邪気な戯言だ。
日本の東大仏文系のインテリ学者がテロの原因を「知っていた」として、「同胞のフランス人を人として赦されざる差別を為していると今回一度でもフランス知識人は声をあげたことがあるとでもいうのか?」
「テロのあとイスラム人を殴り足蹴にして差別をいっそうキツくした市井のパリ市民は「知っているが知らないふりをしているとでもいうのか?」

パリ同時多発テロのあと、オランドを先頭にパリ市民は国歌とともにデモ行進した。これは自分達には一点の非もないという示威行為である。
自分達の利益が常に最優先というしたたかさ、フランスの民主主義とはそうしたものだ。

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要旨というよりはこの威勢のいい88歳の弁舌をそのまま引用したような感じになったが、何も分かっとらん日本の学者共とかいう苛立ちが生々しくてつい引用してしまった。

急いで付け加えておく。
やり玉に上がった内田樹のコメントの最後は「私たちは注意深く見つめてゆく必要がある。」という典型的な「おりこうぶり」で結ばれていて、これに樫原は「『みんな』とか『私たち』を気安く使うこの馴れ馴れしさ。小生はこの『私たち』の中には金輪際入れて頂く気持ちの無いことをまず申し入れておく。」と嫌悪している。
本当にキレイゴトで文章をまとめようとする見事な「おりこうぶり」の例、ありがとさん。

もうひとつ。
樫原は付け加える。
「フランスの知識人はサルトルのようにジャーナリズムという狭い世界だけが持ち上げる「栄光」で、一般フランス国民は決して理解しようとはしなかった。
今次のパリ・テロでエマニュエル・トッド、トマ・ピケティが表だって何も意見を表明しないのも、サルトルのトラウマである。」

しかし、最初に書いたように、この雑誌のすぐそばにエマニュエル・トッド「シャルリとは誰か?」の日本語訳が平積みされていたが偶然といえばあまりに出来すぎていた。

トッドは2015年のテロ後の「私はシャルリ」一色になってしまったフランスを内部から批判、フランスがかくも厳然たる差別社会になってしまった原因を分析しこの書を出版した。
そして「炎上」してしまったのだ。

この日本語版への序文には12月のテロについて、「自分が予見し懸念した通りのことが起こってしまった。」と書いている。

これとは独立し、15年一月のテロ後の「私はシャルリ」の大合唱に呆れ、私も自分のブログに「フランスは何を誤解しているのか」と題する記事を書いた。
しかし、元より私のブログは炎上中、私は孤立完全な孤立状態でただ自分の為に書いたのだった。
この書庫「炎上の現象学」は公開することもなく、ずっと「炎上」について独り書きつづけていたが、今少しの情勢の変化の兆しを感じ、今回ためしに公開することにした。

尚尚、先程Yahooブログのアクセス記録を調べると、あきれたことに、未だに私が炎上させられた記事のタイトルをキーワードにし、この連載の最初の記事を検索アクセスしてくれたご仁がいらっしゃることが判明した。
一体、この人は毎日何を探しているんだろうか?
自分が発見し炎上にまで持ち込んだ過去の栄光が忘れられず?

今回エマニュエル・トッドの「シャルリ」を一読、私だけが孤立していたわけではないと一方では安堵もした。
しかしそれにもまして、もう世界は自分の意見を言うことができない「偽善の包囲網」で覆いつくされてしまっているという現実に圧倒されてしまう。

シャルリ達がデモで叫んでいたのは「言論の自由」だった。
何を言うか!私は呆れてしまったのだ。
「言論の自由」とは法の元で自由な言論が保証されることだ。
つまり、個人の発言や表現だけを根拠に法が罰することはないということだ。

法治国家を標榜する国では言論を理由に逮捕されることはない。
ただそれだけ。
人を罵倒しても殴られことはない、と国家が保証しているのではない。
法以外で多種多様な言論規制が現実に社会には存在する。
日本にも法ではどうすることもできない大きなタブーが存在するのは周知のことだ。

自分とは異なる宗教の指導者を低俗にカリカチュアライズしてもフランスの法は罪とはしない。しかし、異なった国の異なった倫理にまでその法が通用されるわけではない。
ましてやテロの実行者達は死を覚悟で行動し、フランスの法制における罰則という抑止力に拘束される場所には元から存在していない。

こんな明白なことが、どうしてフランス人にわからないのか?
明晰でないものはフランス語ではない、と言っていた文化ではないか?

ここにどうしてもフランス人には越えられない大きな価値観のワナがある。
それは「西欧の傲慢」であると言っていい。

フランスは一時代あまりにも世界の知性、文化の中心でありすぎた。
常に西欧の中心で、この2世紀くらいには世界の中心そのものだった。
フランス革命以来の「自由・平等・博愛」の理念が理念を越え、これが唯一の正しい世界の姿であると確信し、2015年まで来てしまったのだ。

「私はシャルリ」とインタビューに答えたフランス人が言う。
言論の自由は全世界・全人類が先ず第一に尊重しなくてはならない、誰も疑えないし誰もが否定できない唯一の根本倫理である、という絶対的な信念を感じる。
いや、それは揺るぎない絶対的信仰告白でさえある。

無信仰がフランス人口の大半を占める現在だが、依然として信仰する心、戒律を順守する姿勢が色濃く残っている地方があるとエマニュエル・トッドは分析する。
そして、この中身のない「ゾンビ・カトリシズム」が反イスラム、もっと憂慮すべきは反ユダヤの感情として明確な姿を現実に現して来ていると警告する。

少し元に帰ろう。
「表現の自由」そんなものはどこにもない。
ただ理念としてフランスの法に謳ってあるだけなのだ。

「表現の自由の尊重」それは歴史的議論を経て得られた論理的知見なのだが、どうしてそれが絶対的で感覚的でもある信仰告白のようなことになるのか。

私自身はそこにどうしょうもない西欧の奢りを見てしまう。
西欧的価値観の絶対主義。
この意識は構造的に「偽善の包囲網」のようにフランス人を包み込んでしまう。
日頃は雑多なはずのフランスの一般市民が「表現の自由が暴力で犯された」ことに対し、「フランス人であれば自由を尊重する」というアイデンティテイを共有するフランス人一般として結束する。
あるいは結束せざるを得ないように自分達で自分達を包囲する。

世界にはまた別の考え方や感じ方で生きている人がいるのは私には自明のことだ。
比較し、優劣をつけ、点数が高いものを誰もが選ぶとは限らない。

そのような数理的合理判断とはまた別の判断法や考え方・感じ方をする人もいる。
決して一義的には決定できず、優劣の比較をしても意味がない。
人がその選択をするのに合理的な理由など必要ではない。
ただ各々違った考え方をし、違った風に感じる、そのような個人や団体が並列して存在しているにすぎない。

誰がシャルリであろうとなかろと、どちらが正しいという絶対的な判断基準はない。
法は「シャルリでないこと」を罰することはない。
しかし、確実に今は法以外の手段によって、シャルリではないものは抹殺されてしまう。

ジャーナリズムとインターネットが今や法に優先しているようだ。
なぜ「炎上」があとを断たないのか?
なぜそこまでして異端を排除しなければならないのか?

異端を常に糾弾することでしか「自分の存在が感じられない」のであれば、一体今はどのような時代なのか。

「私はシャルリ」と東北大震災後の「絆」は全く同じ語感であると思える。
「フランス人であれば」「日本人であれば」当然と。
そこには厳密な論理や定義はない。
ただ耳障りのいい語感と強烈な連帯意識とがあり、社会を包囲し、他人を包囲し、自分をがんじがらめに包囲する。

もしかして異端を容赦なく攻撃することで、自分が包囲されているのではなく、包囲している側であるということを確認しているのだろうか?

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『シャルリとは誰か?』を発表したことで六カ月にわたって多くの侮辱を受けた私はついに、表現の自由が、そしてとりわけ討論の事由が、現時点においては、フランスでもはや本当には保証されていないと認めるに至ったのです。
2015年12月8日 エマニュエル・トッド

「シャルリとは誰か?」のあとがき「日本の読者へーーパリISテロ事件を受けて」より
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(ホーチミン市7区の宿舎にてこの項投稿。)

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