「おりこうぶり」 私はシャルリでは..
[団塊の段階的生活]

「偽善強要社会」と炎上 - 炎上の現象学(2)

2016/4/17(日)7:51
(2)
「新潮45」2月号特集「偽善の逆襲」の2稿目は竹内洋「解毒剤なき『偽善強要社会』」

これは実に切れ味のいい稿で、大きく変貌した現在の偽善の本質を歴史的文脈から説き起こし、その足で炎上現象やヘイトスピーチの根拠を推察するという超絶立体3D論考。

先ずは竹内の論を概説する。
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丸山真男は「偽善のすすめ」と題するエッセイを1965年に表している。
丸山は当時の進歩的知識人であり、福田恆存らのガラ悪い(=露悪的)評論家から自分は安全なところ(丸山は東大教授だ)にいて理想論をのべる偽善者と攻撃されていた。
この時代には批評家は偽善をコケにし、理想論を唱える進歩的知識人を逆説を弄して揶揄し、マス・コミ(一般庶民)もこれに同調・拍手喝采をしていたのだ。
丸山は「キレイゴトのどこが悪い」と、この包囲する偽悪・露悪同盟に対し開き直ったわけだ。

半世紀以上経過し、「日本の精神風土」は一変した。
丸山のいう偽悪と逆説の同盟による包囲と真逆の「偽善」の同盟による包囲が成立しているのではないか、と竹内は言う。

更にこの半世紀に「庶民」が「リスペクタブルな大衆」に格上げされ、
マスコミがポリティカリ・コレクト(ポリティカル・コレクトネス)に縛られ過激な攻撃からの自衛としての過剰な自己規制におちいり、やがてやがてその忠実な履行者となり、
そして嘗ての福田等が担っていた逆説家の位置に「偽善系コメンテーター」が収まり、
かくして現在の偽善の同盟包囲が完成する、とする。

竹内はこの「偽善的コメンテーター」に対しては同情的でもあり、現在では主張内容より公的な場で「こういっておけば誰からも文句はでないだろう」というタテマエの場の発話作法を教えているのだ、とする。

現在は必ずしも倫理意識が強い社会になったわけではない。公的な場面ではそう言わねばならないという「偽善強要社会」めいてきている。
それを「偽善教養社会」と言い換えてもまったく同じことだ。

ネット上での炎上等の激しい難詰は果たして良心の声だろうか?
不適切発言者の人格総体を抹殺するような憎悪に満ちた攻撃にはそれ以上のなにかがあるのではないか?
偽善強要社会が生み出す、迂回しうっ積した感情が潜んでいるのではないか?

それはこういうことだ。
おれたちもできればホンネで言いたいのを我慢しているのだ。
にもかかわらず、お前だけが堂々とそんなことを口にしている。自分は無理して守っているのにそんな勝手なことをしていいのか。許せない。

こうしたねじれた憎悪が読み取られる。
偽善強要社会は斯くして他者にも偽善を強要する自動メカニズムを持つに至る。

このような自己完結的メカニズムが完成する以前なら、例えば筒井康隆の作品等のような作品が社会への違和や揶揄として解毒剤の役を果たしたこともあった。
しかし、現在強制的偽善均質化社会では揶揄や反論という尋常の手段では太刀打ちできなくなる。
言葉の端をとらえられて返り討ちをくらい、偽善強要社会を太らす餌食にさえなる。

かくして、対抗力は、悪ぶる偽悪ではなく、下品さに居直ることやヘイトスピーチのような、なまの悪そのものとして吐露されるものとなる。

それもまた偽善強要社会が生みだす裏文化というものであろう。

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長い引用・レジュメとなったが、細部にわたり面白いメッセージに溢れていて切り捨てるのが惜しかった。

最後の結語がなんとなくこじつけたような、あらずもがなの「おりこうぶり」に聞こえてしまうのはご愛嬌としとこう(^^;

特に最後の罵詈雑言のとびかうネット上の現在は、一度でも攻撃にさらされた当方には実に身につまされる。
大体、揶揄や自虐といった文章上の嗜み・趣味がまったく通じず、一行のツイートに実も蓋もなく切り捨て要約され、自分を攻撃する弓矢として再生されてしまう現状はまさに解毒剤なし的状況と言える。
冗談が通じない社会では真実を口にすることはできない。

竹内は初期偽善強要社会では筒井康隆の作品が解毒剤として作用していたのではないか、と書いている。
筒井は本気で冗談を書いた作家で、中傷ではなく揶揄を武器としていた。
筒井が言葉狩りに合い、断筆宣言に至った経緯はまさに竹内のいう偽善強要社会がそこで成熟し完成した時期となるだろう。

また、竹内の論で注目したいのは偽善の包囲網を形成する「レスペクタブルな大衆」(=猫も杓子も正義の味方)やその規範を教えてくれる「偽善系コメンテーター」も本来的な正義のヒーローではない、という見解だ。
彼らも強要された偽善システムの一部に組み込まれた部品にすぎず、その鬱屈が救いのない罵詈雑言のエネルギーに転じていくという。

私はそこまで言うつもりはなかった。
次々と油を投下し炎の回りでお祭り騒ぎをするのは本能的土俗的に存在してきた人類の生理ではないか、とも思えるのだ。
ネット社会が人々を巻き込み原始社会へと回帰する契機となったのだ。

しかし今回は炎上についてそれ以上の演繹はしない。

現在と過去の「偽善」の位相の違いについて「新潮45」二月号の特集でもう一つ注目すべき視点がある。
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小田嶋隆「『偽善』と『偽アホ』のデスマッチ」

昔、全共闘の若者たちは偽善を恐れず、自信満々に自らが「善」たらんとすることを高らかに宣言していた。
どうしてそんな恥ずかしいことが可能だったのかというと、当時彼らの「善」がその内部に「反抗」を含んでいたからだ。
上の世代の人間に憎まれているからこそ自分たちの善を確信し、偽善とは思わなかった。
実際にも当時の全共闘運動にかかわった者は社会的に受難者だったのだ。
善を成すことで不利益に晒されていたことになり、少なくとも彼らは偽善者ではなかった。

時代は変わり、戦後民主主義が同時代の主要な思潮となり、マスコミを席巻し、教育現場を支配し、進歩的文化人の行動指針に化けると、全共闘発の「善」は、迫害ではなく、利得を生むようになる。
少なくとも大学やメディアでは「体制」となる。
そして、現在では「偽善」への評価の位相が当時とは逆転することになる。

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この後、小田嶋は橋下徹的ホンネ主義に通じる大阪人の露悪癖について演繹し、「大阪化する日本」を心配する、という文脈になるのだが、展開は面白いがこじつけめいていて得心には至らなかった。

現在の偽善が本来的には逆転したカタチになっている構造であることを指摘していることをここでは取っておく。

次に揶揄的表現・カリカチュア(=竹内がいう解毒剤)がテロを誘発し、そのリアクションが西欧型偽善システムの完成をくっきりと見せてくれたフランスに急ぐ。



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