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[団塊の段階的生活]

「おりこうぶり」の蔓延 - 炎上の現象学(1)

2016/4/13(水)14:57
(1)
安部公房の小品「赤い繭」の中に、こういう台詞がある。

「ここ(公園)はみんなのもので、誰のものでもない。ましてやおまえのものであろうはずがない」


カフカ風にカリカチュアライズされたそのような非条理な世界が実際に到来するとは50年前には安部も予測していなかったろう。

NHKのニュースアナウンサーが常套する手段に「おりこうぶり」というのがある。
とにかく最後に結語めいた美辞麗句・常套語をおかないとコメントが終了できない、優等生的体質のことだ。
「われわれはこれからも見守っていく必要があります。」
「どのような対応をしていくのかが問われています。」
「もういちど見直す必要がありそうです。」
等。

ここには記者が自分で問い直したり、見守ったりするという気配は一切感じられない。
安部のセリフをもじって言えば「みんながすべきなのであり、誰がするというものでもない。ましてや自分個人がすべきものではあろうはずがない」と聞こえるのだ。

見守るのは世論であって記者個人ではない。
問うのは社会一般であって記者個人ではない。
見直すのは視聴者であって記者個人ではない。

このような「おりこうぶり」はこのところ急激に拡大し、今や私の周囲ではごく普通の隣人でもみんな妙におりこうさんになってしまっている。

「地球にやさしく」
「環境を守ろう」
「人命は地球よりも重い」
「絆(きずな)」


何の躊躇もなく、そのようなあいまいで厳密に定義されているわけでもない言葉が横行してしまう。

私なんぞがいくら考えてもわからん地球温暖化の根拠や「絆」の意味を推し測ろうとしているうちに、それら美辞麗句共にいつのまにかお上、マスコミ公認済みのハンコが押されてしまっておおっぴらに流通しているではないか。
今まで「政治のことは何もわからんけど・・」とか言うしかなかった私のような普通のおジさんでも安心して、どこでも口にしても問題なく通じるようになっている。

そこまでは別にいいのだが、こういう「おりこうぶり改」には困ったことに正義感が高揚するような生理的快感も多少あり、自分が正義の味方になったような気分になる副次効果もあるらしい。

「おりこうぶり」は言葉の上からは偽善に該当するのだが、本来の意味での偽善ではない。
自分で「利口ぶっている」と自覚していれば偽善だが、その実は生理的快感に裏付けられ、実際に本人自身が正しいと信じているので偽善ではない。

とっくに悪人正機が通用しない時代になっているのだ。
未だに鎌倉時代の教義を踏襲し何の危機感も抱かない浄土真宗僧達よ、親鸞の言ったことではなく、やったことを実践せよ。
あなたが今改革者親鸞にならないのなら、それが偽善ではないのか?

とにかくみんなが妙に気持ちよくお利口になってしまっている。

だから困る。

正義を自認してしまうと非正義に対しては絶対的な嫌悪を示そうとする。
そうすることによって自分の正義の正当性がより一層高まるのだ。
で、それって本当かい?と懐疑的なわずか一言でもキャッチすると、たちまち炎上処置にしてしまう。

最初は「こんなことを言ってるヤツがいる」というおっかなびっくりのツイートにすぎないのだが、伝播拡散されていくうちに次第に評価が共有化され、1000ツィートでめでたく「こんなヤツは許せん」という公敵評価が確定。
あとはご存知鳴り物入りの炎上さわぎ。その賑やかなこと♪

「炎上」は法的には罪にならない者を裏で成敗する正義の味方全国ネットの公式裁定手段だが、中身はどうでも景気よく燃え上がれば良しとする一種の秋祭り的娯楽でもあるから始末が悪い。

もちろん私はこのような自分の見解を発表したことはない。
私も自分のブログでの炎上体験があり、以来このような不遜な発言は控えてきた。
滄浪之水濁兮可以濯吾足(水が濁っていればケツでも洗っているさ)を決め込んでいたといえば聞こえがいいが、その実そんなに悟りきった漁夫をやってられたわけではない。
妙に閉塞し鬱屈した気分で毎日を過ごしていたわけだ。

しかしここにきて微妙な変化が生じている。

本屋に行ってちょいと特集タイトルが気になった「新潮45」の2月号を買いに行くと、横にエマニュエル・トッドシャルリとは誰か?」が平積みされていた。

「新潮45」の2月号の特集タイトルは「偽善の逆襲」
収録論説は以下;
「主語を忘れた正義の声」山折哲雄
「解毒剤なき偽善強要社会」竹内洋
「フランスがそんなにエラいか」樫原米紀

その他。

やはりこの日本と西欧世界の相変わらずの狂気について自覚している者はいないわけではない。

山折の論調はこのようなものだ:
ーーーーーーー
テレビ・新聞等マスコミで声高に正義が叫ばれるが、響いてくるのはただ言葉だけ。
ガンジーが実践したような自分自身の身体から発せられる言葉にはまったく聞こえてこない。
「自己を喪失した正義の主張」だ。

これは政治論だけではなく、科学界においても同様。
IPS細胞の研究では人工生命の可能性さえ示唆されていて、科学者は異口同音に「この重大な局面を迎えて、その問題を社会全体が考えあければならない、国民一人ひとりが考えなければならない。」という。
「ところがまことに不思議なことに、そのような科学者たちの側からの問題提起のなかに、肝心要の科学者自身の社会的責任を問う言葉がどこからもきこえてはこないのである。」
ーーーーーーー

これが私の提示する「おりこうぶり」と重なるのは自明のことだろう。
他の論やエマニュエル・トッドの論についてもこれからおいおい引用することになろう。

ひところ私は日本のどうしょうもない2月によくフランスに「滞在し」に行っていた。
といってもたった2回だが(^^;

しかしもう私はフランスに行くことはない。
私はシャルリではない。

2016.2.28
中部ベトナム・ホイアンの郊外の一室で
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