ついでに夜遊び3 虚構としての現実..
[団塊の段階的生活]

虚構としての現実/真実としての虚構 (1)

2017/10/15(日)17:5
10月9日(月祝)
カズオ・イシグロ覚書

昨夜、旅先のホテルの部屋で寝ながらNHK「白熱教室 カズオ・イシグロ文学を語る」を見た。
先週ノーベル賞受賞が報ぜられ、タイムリーな放映だった。
たぶん、再放送だったろう。
イギリス籍だがオリジンは日本人。
そういう興味でヨメとの話題になったので二人でテレビを眺めていたわけだ。
もっともヨメは当然途中で寝てしまったのだが。

私も三冊ほどイシグロの書評を書いたハズだが、最初の2冊は単なる読んだ本のタイトルの書覚で内容はほとんどない。
「日の名残り」
(1989)の覚書に「興味本位で読んでみた」とあるのはそのオリジンと国籍、文学表現言語が英語であるというような俗的興味でということだ。

イシグロは番組中「フィクションとしての文学の真実」をかなりの明晰さで語っていた。
『その深層に語るべき真実があれば小説の表現するロケーションは取替可能、つまり歴史や地理、あるいはドキュメンタリやSFとしてでも』と。

さらに最後にメタファーについて。
『小説はメタファーによって真実を語る。しかし私は簡単に理解できるようなメタファーは好まない。物語の展開を楽しんで読み終え、物語が終わり本を閉じてからこれが何かのメタファーだったのでは、とふと気が付くようなものがいいと思っている。』

この作家の小説作法の本質をテレビで端的に語りつくしていて、ここまで業務ノウハウを開示してもいいん?と思わず問い返したもんだ。
ノーベル賞作家だぜ、エラいんだから難解なんだよ、とかとは無縁の、英語で書く作家の理論整然とした自己開示とも思え、好感をもった。

私の「日の名残り」の覚書ではそのようなメタファーにまでは思い至らず、ただそのロケーションである古い英国の伝統的職業「執事」の世界をなんと克明に・・それもいかにも上流階級英国文化生活の三代目風に、オリジン5歳まで日本の作家がよくもまあ。
というだけの表面的な読書だった、ようだ(^^;
案の上、読書2冊目の「女達の遠い夏」ではさっぱり面白みが読み取れず(^^;

しかし三冊目「わたしたちが孤児だったころ」(2000)の書評では充分このメタファーの領域に到達し、読後に深い感銘を得ている(らしい^^;)
どうやらここで私はイシグロのいう「表面に現れる事実の深層に隠された真実」というこの作家の文学的メタファに到達し感応したようだ。
まあ、2001年ころには私も「書く」という行為で、このつまらん現実を耐え生きぬいていたのだから。

ここで既に私は最近の私の世界観である「表の事実と裏の真実」というイメージと同様の立場をイシグロに感じたわけだ。
「現実世界にはこのHP、本当の私は裏ブログに」とはもちろん、そういう世界観を茶化して言っているんだが(^^;

客観的には唯一無二の「事実」(現実)が一つで、その裏に人それぞれの「真実」(実情)が無数に隠されていることになる。
しかし、主観的には真実は一つしかなく、表層に見て取れる「事実」は人それぞれの数だけ存在してしまうのだ。
これはもちろん以前フッサール現象学や阿頼耶識学に沈潜した痕跡が裏にあっての世界観だが、今はそちらには行かない。

同番組でイシグロはさらに私の読んでいない新しい作品についても具体的に解説、文学の武器としてのフィクションやメタファーの重要性に言及する。

「忘れられた巨人」(2015)はフィクション=ウソの持つ意味と力の絵解きである。
山の竜が吐く息で事実が曇ってしまうのだが、その竜は事実を捻じ曲げる悪だという立場と悪を緩和する善だという立場の対立を描いている。(らしい)
イシグロは国家がつく大きな嘘の例をあげる。
・・・ドゴールはナチス占領下のフランスについて国家的ウソをねつ造した。
フランス人はすべてレジスタンスであり対独抗争に従事したのだ、と。
しかし事実は大半は「コラボ(対独協力者)」であった。
しかしこのウソはフランスが国家として存続するためには必要だったのだ。
そして未だにフランスではそのフィクションが事実であったと信じている人も多い。
・・・自分を存続させるためにはこのフィクションが事実であると信じる他はない。


「わたしを離さないで」(2004)はSF仕立てで臓器提供のために生かされているクローンとしての生という一義的に定められた生涯を描いている。(らしい)
これはあくまでメタファーだが、そこにはロケーションを変えても普遍な真実がある。
この作品への作者のコメントはこうだ。
「しかし私たちの人生もよく考えれば有限の生を生かされていて、作中のクローンとはおなじようなものではないか?」

ここで私は自分の書いたこんなコントを思い出した。

     会社業務で死ぬ日 (2012)

7月xx日 夢
いよいよ今日、会社で私が死ぬ日である。
でも朝出勤するのに別に他の日と違うところはない。
会社の業務として死ぬわけだが、これはちゃんと当番日が決まっていて、ずっと前から予定済みだ。
会社に入った以上、社員は業務上一度は死ななければならないことになっている。
まあ、死ねばそれで私は終わるわけで、もう社員ではなくなるのだが。
だから今日が私の社員としての最終日というわけだ。

もう一人今日が死ぬ日の同僚がいる。
会社でそいつと顔を合わし、何となくお互いニガ笑いのようなものを浮かべる。
「で、どう?」
「どう?って、別に・・。」
「別に楽しくはないよな。」
「ま、仕事だからねぇ。」
「そう、仕事、仕事。」

我々の死の決行は午後になるはずだが、なかなか呼びにこない。
「遅いなぁ。」
「早く呼んでくれればいいのにねぇ。遅いといろいろ考えてしまうよ。」
事実、私はチラリと死ぬ瞬間のことを考えてしまった。
死ぬのは一瞬なので、苦痛もなにもないハズだ。
しかし、死ぬのは初めてなので考え出してしまうとちらりと不安がよぎったりする。
ましかし、皆淡々といつかは死んできたんだし。

何か手順が大幅に狂っているようだ。
そのまま夕方になり、我々の死は本日は執行できない、と言ってきた。
「えっ?そんな・・で、いつ?」
「今日は金曜日なので、申し訳ないんですけど月曜日になってしまいます。」
と、総務の女の子。
そうか、それじゃしかたないなぁ。
「しかし、こういうのって急に延期されてもなぁ。もうやらにゃいかんことは全部すんでるし。」
「まあ土日は家でゆっくりするしかないよな。」
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毎日こんな奇態(けったい)な夢ばかり見ているワケではない。
しかし、この夢は非常にあざやかで起きてからもその奇妙な感覚がしばらく持続した。
シュールで不条理だが、よく考えてみると、本当の現実も殆ど似たようなものじゃないかと思ったりもする。

私のコントもこの人生の不条理を奇怪な夢というメタファーで表現していて、イシグロの作品とまったく同じ構造であるのは自明だろう。
しかし圧倒的にコンパクトで不条理な中に哄笑まで詰め込んであり、ひょっとしたら私の最高傑作かもしれんぞ(^^;
ノーベル賞は別に要らんが、賞金だけならもらってやってもいい。

書いてから15年以上経過し2,3度死に損なってもいるので現在はまさに作中の執行猶予された中途半端な「土日」を過ごしているということになる。

ついでに夜遊び3 虚構としての現実..