虚構としての現実 最近夜巷徘徊覚書..
[団塊の段階的生活]

虚構としての現実/真実としての虚構 (2)

2017/10/16(月)12:47
10月15日(日)
というわけでカズオ・イシグロさんがビッグネームになったおかげで、「虚構としての現実、真実としての虚構」という世界観をわりと簡単に口にすることが出来るようになった。

我々が見てる世界は唯一無二で、客観的に記述可能で事実は誰にとっても事実である。
という平べったい世界で生きている人はよほど平べったいヒラメだけだろう。
「誰にでも一様に見える世界」は存在しないというのが私の立場だ。
芥川「藪の中」を出すまでもなく、色盲の方の見る世界、オンチの方に聞こえる音楽、私に反感を抱いている人の描く私の表情、ハハオヤが見ている世間という世界・・何もかもが同じに見えるということは絶対にない。
科学はあくまで事物を定義した上で共通することを記述するもので、定義が異なれば世界は違ってくる。
科学とはこの世界は「誰にでも一様に見える」という仮説を前提として組み立てているだけなのだ。
その仮説を採らない人も大勢いる。
むしろ「人が見る世界はそれぞれに違う」というのが最近のトレンドになってるハズ(^^;
生物多様性・価値多様性の世界観。

実際はそのような多元宇宙的世界観の中でさえ一様に定義され得るわけではない。
1)事実は見方によって人の数だけ存在する。
事実は事物の深層にある真実から各自の見える世界へと派生していき事実と認識される。
だから真実は一つ、事実は無数に存在する。

2)いや、深層にある真実は各自のあり方だけ存在し、この世に出現している事実の解釈がそれぞれ異なる。
事実はひとつだけで、事実を解釈した真実が人の数だけ存在する。

どっち?
どちらでもでもいいのだ。
こういうのは言葉の定義があいまいなことから出てくる言葉遊びに過ぎないのは自明だろう。

言葉で世界を記述することの困難は阿頼耶識を記述しようとする矛盾を思えばいい。
もとより東洋的世界観では言葉にはそれほどの役割を期待してはいない。
瞑想・観想・悟り・蓮華微笑のようなノン・バーバルな手段でしか真実には至れないとされている。
でも、そんな悠長なモンで現在の世界のコミュニケーション手段とするわけにはいかないのだ。
そこで、「表にでてくる社会的自分と自分の深層にある真実の自我は違う」というように簡略に具体化し「事実は表、真実は裏」といような標語にまとめ、会社での面従腹背的態度とかの卑近な具体例をあげ・・
すると、「そんなことワタシ16歳のときから分かってたよ」とどこかで返されてしまった。

どうやら日本では誰にも表と裏があり、状況に応じて使い分けている、という認識が一般らしい。
こうなれば中根チエ「タテマエとホンネ」のハナシだね。

ここで私は話のレベルに関係なく、「裏・表」の価値観に副次的に絡みついているのは倫理だと気がついたのだ。
「あいつは表裏があるヤツだ」というのはこの「裏」の存在に対する倫理的評価を下しているわけだ。
誰でも表裏はあるのだが、それでも「裏のない人」が良しとされてる。
裏はあるのだが、本来は在っちゃならんのだ。
だから倫理的に正しくあろうとするなら裏をできるだけ克服・超克し表に晒して批判を請い・というような殊勝な態度が学校・社会・過激派セクトというような倫理的に厳しい社会では要求される。

子供から大人へのイニシエーションも大体そういう流れだろう。
大人になる為には「踏み絵」を踏まねばならない。
日本的には表で踏み絵を踏み、しかし裏では自分の本来を保持し、そして大人になる。

しかし、一元的価値観を統一原理とするクリスチァニスムが基本である西欧文化にどっぷり浸かっちゃった者はこの裏と表の分離を自分に許せない。
時の日本の役人は、裏には関知せず、ただ表で踏んでおけばいい、という合理的な形式的解法で許そうとしているのに、それでも踏み絵が踏めない人がいたようだ。

実は私もそうだった。
表と裏の乖離が前提とされるような社会は不純で容認できなかった。
西欧社会のような統一した価値を社会の基盤に据えた合理的なすっきりと整合された社会がベターだという感覚があった。
しかし、その裏を許容しない社会のデメリットの方が今は目につくようになってしまった。
こういう私の西欧社会への決別の辞はこの書庫に昨年書いて収めた。
そして表も裏も関係なく共存してしまえるようなアジア的混沌社会に憧れたのだが、実際にはそんな社会は存在しない。

現在日本がアジア的混沌から100年かけて西欧型統一価値観社会に移行していったのは大きな流れだが、現在はネット社会の出現で、ますます価値的混沌を許そうとしない平べったい輩がのさばっていく感がある。

で結局、私は今年から「裏ブログ」にしか自分の真実は書かないという宣言をやっちゃってる風でもある。
逆にいえば、私は表にはウソしか書かないし、それでもそれがメタファーとして真実の示唆でもある、という言語表現するもののノーベル賞レベルの文学的存在表明なのだが。

日常レベルでは私は踏み絵を踏み、西欧的な倫理観で裏の自分を批判するのをやめ、表も裏もある普通の日本人になる、と宣言したということだ。
これは私個人が超克できるようなレベルのハナシではなく、人間の歴史や生物としての人間の存在という普遍的なところに根源がある存在そのもの不条理に対する私側のぎりぎりの譲歩だ。
私はもう倫理的理由で死ぬことはない。
もうこれで「いつでも死ねる」と嘯きながら、この世で行けるところまで生きてやるという、現実的な自己肯定である。

やっとこれで私も表と裏のバランスをとりながら立派な大人になれるのかもしれない。
人は16歳にして大人になるというのに、わたしは実に61歳にしてやっと(^^;
まあ、この数字は単なる言葉遊び、何の事実も反映してはございませんが(^^;

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