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[クレタ人の静かな生活] |
ベトナムもそう楽じゃない(1) |
2018/3/3(土)18:38 |
![]() Hemiq です。 メールいただいてからずいぶん返事をさし上げるのが遅れてしまいました。 2月中はネット環境があまりよくない地域に滞在していましたので失礼しました。 私のサイトを閲覧くださりありがとうございます。 さて、おたずねの件ですが、真実(事実)とウソ・虚言を判定する明確な判断基準はない、というのが私の立場です。 最近のネット上の炎上騒ぎやフェイクニュースの横行を見る限り、どうも一度一般に伝播したことは「(真実ではなくとも)少なくとも事実なんだろう」等と、安直に信じてしまう風潮が透けて見えてくるのが大変気になっています。 その方達にとっては明確に「小説」なり「創作」と冠しないかぎり、すべて「本当のこと」と理解してしまうらしいのです。 例えば私はあの文章中「K氏は100の言語を話す」とか書いているが、もちろん100という数字が真実かどうかを詮索することは無意味です。 あくまで「多くの言語」ということのレトリックであるのは自明でしょう。 私は文章、広くは言葉の本当の役割とは、何かを伝える媒体としての機能ではなく、他者とコミュニケートすること自体だと思っています。 自然言語を純粋な意味伝達媒体として使用することの不可能性は、古くは記号言語学の試みや最近のコンピュータ言語のような厳密な定義に基づいた言語の開発の歴史を俯瞰すれば殆ど自明なことだと思います。 発せられた言葉が「本当なのか嘘なのか」を問うことほど無意味なことはありません。 また個々の記憶は、自分で便宜的に統一したイメージ(ストーリー)にまとめラベルを貼り、、そのラベルに矛盾しないように無意識に修正を加えた結果であるのかもしれません。 ですから、K氏という固有名詞を出してはいるが、これが寸分たがわず実在のK氏と重なるのだとは私には明言することができません。 ただあの文章を書いた当時「30年前のK氏」という私の記憶の構成要素はそのようなものだった、とでもいう他はないのです。 書いた文章が真実かどうかは判断できないし、それは事実かどうかは私にはどうでもいいことです。 私はジャーナリストとして文章を書いたのではなく、単に自分の書く愉悦のために(喋るたのしみとも)書いただけなので。 このような説明をすると長くなるのですが、フッサールの現象学的な思考法がそのような虚実判定議論の徒労を回避する唯一の方法論だと今は考えています。 また、あの文章を書いてから一度実際にK氏にコンタクトをとったことがあるのですが、どうもK氏は私のことを誰か他人と混同されていたようでした 彼の中では私はかなり不愉快な顛末の原因となった人物という記憶になっているように思えたのです。 だからそれ以上の連絡はありません。 その齟齬は、もしかしたら軽い日常的によくあるささいな誤解から生じていたのかもしれません。 私にしてみれば記憶にも残っていないような瑣事で、いわば「非事実」だが、K氏にとっては煩わしい顛末の原因となった「事実」としての記憶が顕在化していた、というように。 私の事実とK氏の事実とは明らかに違うのです。 そしてひとつの真実だけがそこに確実にあるという保証は全くないし、そもそもひとつの真実があると仮定する必要さえないのです。 私はそれで別に困りません。 それより「真実はひとつ」と頑として信じている方の多さに閉口しているというのが最近の私の鬱の種になってくれています。 そんな訳で私のサイトの表紙に書いているコーションは次の意味だとお考えください。 「私には世界はこう見えているが、それはあなたの見ているもの、見たいものとは違う。 だから私がウソをついていると思ってくれれば私は自由に発言できるのでありがたい。」 もちろん、これはかつて被った炎上体験の痛みにも関わらず、まだ私は発言するぞ、という表明でもあるのですが。 以上でご質問の回答になったらいいのですが。 ・・・様、 |
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