スイスホテル泊 おじいちゃん、か..
[静かな生活]

残酷な春の季節

2019/5/30(木)13:54

「春鬱」と定義することにした。
もうやってこないと思っていたのだが、突然それは襲ってきた。
殆ど社会には参画せず、強制的な仕事や行事予定もなく、誰にも責任を担わされることもない。
別に生活に困ってはいないし、それほど無為な日々ということでもない。
今年からフランス長期滞在を目論みフランス語の再学習を始め、ピアノのレッスンも受けることにした。
スポーツジム2ヶ所にも定期的に通っている。

それでも突然すべてが空しいという思いが涙の気配を引き連れてくる。
春の気配が記憶を刺激し、雑多で無意味な日々の光景が目の前をよぎっていく。
雑多な記憶、しかしほとんどは忌まわしいだけの。

嘗て母に「なぜ私を産んだ?」と詰問し、母が泣いた。
しかし母は「私」を産もうと思ったのではない。
産んだら「私」だったのだ。

成人してからは母を責めるという過酷な怨恨を抱くことはなかった。
私の「厄年」に母が死んだとき、「生きてて何もええことなかったなぁ・・・」という母の声が突然聞こえ、私は号泣した。
母は私を産んだことをやはり後悔して逝ったのか。

 ---
この冬、奇妙な体験をした。
あるところで深夜突然見知らぬ中年女性に呼び止められ話かけられた。
私の周囲に蝶のように先祖の霊が舞っているという。
「許して(くれ)・・・」と言いながら?
それは多分、酔った女性の深夜の半覚半睡の意識が脈絡もなく言わせていることだろう。
その後、この女性と同所で一度会った。
まったく生活の違う場所で生きている無縁の方で他に話すこともなかった。

私には素朴な宗教心がなく、「ご先祖様」という感覚はない。
しかし自分ではどうにもできない外の世界との間の悪さ、もしくは明確な悪意や憎悪に直面したとき、その直接の原因が「私」ではなく、私を産み出したものにあると考えれば自分の不運が幾分かは容認されていく気もする。


一昨年、私の家系には尋常ではない系譜もあるようだと知らされたとき、何事かが納得できた。
他の方とは違う社会感覚が多少は遺伝していることはあるのだろうと。

 ---
春先になり気温が緩み五感が再活性してくるはずだが、生命の再生の蠕動を素直に受け止められない年齢になった。
もう私は劣化していくだけで季節が青春を再生することはない。
どうしょうもなく老いてしまったという観念自体ではなく、容易に活性しそうもない重い肉体の感覚がそのようなストレスを精神に負荷するのかもしれない。

私は春には感情的に非常に不安定になるのだった。
喜怒哀楽のコントロールが適切にできない。
同時に言葉のコントロールもそれに影響されて乱れる。

昨年暮れに軽微な交通違反を摘発され、思うところがあり取り締まり官に正式裁判にして欲しいと要望した。
それは明確な刑法ではない道路交通法の適切な運用を当局に望むという内容であるはずだった。
しかし論理的に説明しようとして、自分で沸騰してくるアドレナリンを制御できず、ただ支離滅裂な言葉を口にしていただけだった。
その後、この件に関する交通当局との不快なやり取りが数か月続いた。
しかし、その一連の不快なやりとりよりも、私が自分の意思を明確に言葉にすることができなかった、という記憶自体が大きなストレスになって残ってしまった。
私はもう正常に喋ることができなくなっている。

 ---
今年になっても私を糾弾する人は思わぬところから出現する。
私とは感覚の在り方が違う。
それならもう私はその方と無縁になるだけだ。
しかし、もちろんそれは楽しいことではあり得ない。

しかし、身内から私の若年時の悪行に苦しんだと突然非難されたことには自責の感情の収めどころがない。
それは既に私にはどう対処することもできない。

この先一生私はある種の罪の意識を背負い最後まで行くしかない。


 ---
夏にフランスで長期滞在をするという計画の裏にある密かな目論見を家人にうまく伝えることができなかった。
リセットや再生という明確で簡単な指標では言い表せない苦痛や苦渋もある。
しかし、不安定な感情が言葉のコントロールを的確にできず、家人には不快や不信を与えただけで、「勝手にせよ」と決裂してしまった。
私は自分の苦しさの最終的回避手段として、しぶしぶではあってもいいが「同意」してほしかったのだ。
私はもう誰にも理解できない人になっている。

私の行動はすべて周囲を不快にさせて終わるだけなのか。
そんな意図はまったくなかったはずなのだったが。
多分私は周囲の、あるいは世界の共通意識にストレスなしに従うことことができない自分本位な感覚を私の自然として持ってしまっているのだろう。

これを書いている当日(5.28)川崎の住宅街で50男が無作為に人を殺し、直後自殺した。
夜のニュースで放映された犯人の小学校時代を知っている方のコメントが忘れられない。
「学校でも常に問題を起こしていた。いまこの事件のことを聞いても驚きはない」と。

この男はそれから何十年も生き、51歳にもなったが、それでも世界と自分を和解させることができなかったのか。
自分を抹殺するしかないが、同時に自分を産んだこの世界にその不条理をぶつけるしか自分の怒りを相殺できない。その激烈な不条理への怒り。
もしかして、それが日本ではなくそれが現在でなければ、愚劣な戦争中や閑散な未開社会であったら、もしかしてこの男は強者として生きられたのかもしれない。

いろんな多様性を持ち人は生まれてくる。
今・ここ・では不適格な人格であっても、それでも何らかの生命的配慮で一定の「違う人」は今・ここ・に存在させられていく。人類の種的保険あるいは捨て石として。
それが生命の戦略である限り、どうしても今・ここ・で生きづらい者が必ず存在してしまうのか。

誰にも理解してもらえないのだが、私を理解して欲しいという周囲への依存心は私からなくなることはないようだ。
私は「私は私である」という徹底した非情さに至ることはない。
まったくの他人を殺傷し自殺した男にしても自分の怒りを誰かに理解して欲しかったという自己主張があったのかもしれない。
ならば私は密かにそのメッセージを受け取り、今しばらくこの男を悲しむ。

涙が湧きだす。
それはどうしようもないときの自分へのくやしさだったか。
一緒に出かけるつもりで用意していたサックから2個のインターカム子機が落ち、そのまま足元に転がっている。
涙を流している私への憐憫からか、一度は不快感から拒否した家人が「しょうがない。やっぱり一緒に行く?」と多少感情を和らげてくれる。

その時、私に同じような記憶がいくつも重複して回帰してきた。
進学不備、離婚、失職、海外逃避と不如意な回帰。同様な繰り返し。
苦しい決断をそれでも断行し、しかし結局何事にもつながらず相変わらず自分の確かな位置を見つけられないまま、未だこのように。
離縁し永久に出ていってしまってがらんとした室内にポツンと残っていたアヒルのオモチャ。
すべてを捨て、ここから始めるしかないと念じて見た、殺風景な異国の一室。
私は自分の決断の「とりかえしのつかない」危うさに感情が付いていけず何度も一人涙を流した。

突然、思いもかけず号泣発作が襲ってきた。
「さびしいよ」と口にした途端、体の奥底から震えが上がり、湧き出る涙を押し出すのに呼吸が追い付かず、しゃくりあげ、痙攣する。
このような感覚が今戻ってくるとは。
多感な若年の激情の発作ではない。
幼児期に欲しいものが得られず、ただ泣き叫んでいた時の感覚。

バナナは高級で高価な果物だった。
行商が去って行き、「バナナ買うて欲しい!」と私はしゃくりあげ泣きじゃくっていた。
私の菓子にはあんが入ってなかった。
「あんこ、はいってない」と私は泣き始め、とうとう母が来るまで大声で泣きじゃくっていた。
そのようにして、私は母を呼ぶしかなった。

そのようにして私はもうどこにも居ない母を今も呼んでしまった。
私を産んだ母よ、私を救いにきてくれ。
私は徹底的に無力で無意味である。
私はどうしようもなく自分を持て余し、ただ泣いて私を産んだ母を呼ぶ以外にない。
一度堰を切ってしまえば嗚咽に止めはない。
もうどこにも居ない母をよぶだけしかない老いのこの上ない惨めさは。
なんという無意味な。

人生を数値化し、満足感、経済力、成功体験、屈辱、負荷、悲哀を合計し、結果がマイナスであったから、ということではない。
そのような客観的評価ができるのなら少なくとも中身があったということだろう。
そのようなことではなく、こうして生きてきた、今も生きているということがただ哀しい。
意味が解らない。
何に点数をつけようというのかその意味がまったくわからない。

多分この世界に別に意味があったわけでもなく、ただそれは存在してしまっているだけなのだ。
意味や価値感は時の社会感覚や共同幻想が付与するものなのは当然だ。
しかしその人間の意識の底で共有している「種」の基本的価値観あるいは人としての本能から自分を切り離してしまえばもうそれは人ではない。
私はそれでも社会に自分の居る場所を得たいし、自分を分かって欲しいという念を消すことはない。
私の想念を「理解して欲しい」ということではない。
何も言わず、ただ私を受け入れてほしいだけなのだ。
私を無条件に受け入れ、ただ優しく抱きとめてほしい。
生まれてきたとき母がそうしてくれたように。


私は無限に孤独でさびしく、暗闇にただ泣いている。
何故私は・今ここ・に居るのか?
今・ここに居よと私に命じた、母の向こうに連なる、はるかな因果の源に問う。


スイスホテル泊 おじいちゃん、か..