残酷な春の季節 ピアノ発表会で奈..
[静かな生活]

おじいちゃん、かわいい!

2019/7/23(火)16:45
私は昨年より古希ということになっていて、世間的には立派に老人である。
しかしこの日本経済新聞のよくわからんCMを何回も見せられて次第に不快になってきた。
私はゲーセンの多量の戦利品を自転車に積んで帰るところだった。
それを見て若い女性が「おじいちゃん、かわいい!」と連れの男に言ったようだ。
男は「なるほどね。」と応えるのだが。

確かによく目立つぬいぐるみを隠さず、そのまま自転車に積んでいれば一目を引くかもしれん。
しかし適当な袋がなかったし、多少その辺りの羞恥心も欠如してきたこともある。
一方ではもうそんなことで世間体を取り繕う気もかなり失せて、もうどうでもいいとも思う。
それより、自転車のバランスを取るのに精いっぱいでそんなことには気を遣っていられない。

仮にも新聞社のCMに出ているんだから、この女性は自分への性差別に対しては寛容ではないだろう。
しかし高齢男性を「おじいちゃん」と何気なく指し呼んでしまう自分の差別意識には気が付いていないようだ。
私には孫はいない。
だから誰からも絶対に「おじいちゃん」と呼称されることはない。
例え孫がいたところで、アカの他人から「おじいちゃん・おじいさん」と呼ばれるスジはない。
キミがちゃんとした教養があるのなら「あのご老人・・」と言いなさい。
そして、もしキミが性差別等の差別的呼称に敏感なら、単に「あの人(方)・・」と言いなさい。

まあ、こういうのは日本語にはっきりとした呼びかけ語がない、もしくは使う習慣がないのが原因だろう。
家庭内でも、子供(孫)の視点に合わせ自分の父親を呼ぶのに「おじいちゃん」と呼ぶのが通例であるとは承知しているのだが。

だから「おじいちゃん」呼称については多少の執行猶予は考慮しないでもない。
しかし「かわいい!」? これはいかんだろ!

私は別に「かわいい」と言われたくてワザとぬいぐるみを目立つように運んでいたわけではない。
たしかに老人と子供向きの多量のぬいぐるみのミスマッチ感があるのは承知している。
私は多少世間への適合・認知能力が欠如するようになってきたのかもしれない。
だからといって「かわいい!」と言われてニコニコする気にはとうていなれない。
多少「普通」でないことがあるとして、それを「かわいい」と評するのはあまりにも傲慢な、上から目線の感覚だ。
保護者が子供をみる視点である。

相手が目上という意識があるなら「かわいい!」とは言えないのだ。
キミは老人を食わしてやっているのは自分たちが運営している社会で、だから老人は社会の被保護者、つまり子供と同じ存在なのだ、とか思ってんじゃないか?

もちろん、きみが私を「かわいい!」とか思ってくれても私は面と向かって抗議をすることはない。
ただその「老人はこうあるべき」とか、「これが普通」とか思っている自分の無意識な傲慢さをキミは恥るべきだろう。
私は好んで「普通でない」ことをやっているわけではない。
年齢による精神や肉体の老化がそのような普通でない行動に陥りやすくさせていくのだ。
私にはそのような自分の老化が忌まわしく、時として鬱を発症もさせてしまう。
私は辛いのだ。

この情景が「おじいちゃん、かわいい!」だと?
老人問題とは老人の問題ではなく、老人が問題だとする社会の方の問題だ。

        しかし、セントくんは少々不気味で不憫なヤツだなぁ・・・
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