ギフテッドの悲哀 奈良公園の今 ..
[静かな生活]

ギフテッドの悲哀(続)

2020/8/8(土)19:31

前回の続き・・・ちうか、これだけは付け足しておかねば。

「自分には普通に簡単なことなのに、どうも他の者はよく解ってないようだ」と気が付いた時、一点違いでギフテッドになり損ねた私はこうも気が付いてしまったのだ。
「アイツには普通に簡単なことなのに、私にはどうしても理解できないこともあるんだろうな」と。

私には進化論とか宇宙物理、または存在論哲学や現象学というような抽象的な領域に思考が到達し、これまでの概念が拡がったり、時に覆ったりする体験にある種の高揚感や愉悦を感じる傾向はある。
主として読書でそのような楽しみを味わうのだが、その分野の専門書をすらすら読解する能力はない。
素人向けの啓蒙書やサワリ解説書でおぼろげながらその世界の概要を脳内にマッピングし、素人なりに多少の知的刺激をいただいたりするにとどまる。

NHK「素顔のギフテッド」で最初に登場する天才小学生は高等数学のナントカの定理を証明する別解を発表する場面が紹介されていた。
私から見ると、数学理論は完全抽象の世界でまったく私の頭では”ついていけない”領域なのだ。
私もコンピュータのプログラミングは好きで、現にこのHPのプレゼンテーションシステムはすべて自作のPerlのCGIで行っている。
しかし、この10歳の少年の数学的抽象能力と70歳の私の頭脳では正に逆転した大人と子供のような違いが歴然としてあることがくっきりと見えている。

しかし、それは数学だけではない。
私は自分なりの世界観や社会への価値観を持っているのだが、しかし多分私の価値基準や判断能力はより高次の能力の持ち主から見れば不完全で誤謬に満ちたものである、と断じられることだろう。
自分より正しく高次な思考ができる者がいる、と常に感じざるを得ない。
私は自分の価値基準で社会の諸相を判断しているのだが、それは自分に理解できる範囲のハナシで、より高次な思考ができる者からすると不完全で恣意的な基準に過ぎないのだろう。

だから・・・簡単に自分の価値基準で他者を糾弾する最近のSNSがらみの持論の非論理的なぶつけ合いには加わる気もないし、ソイツ等の幼稚な頭脳構造には多分私の主張は理解不能であろうと最初からわかっている。

例えば、と最近の例を2つ引く。
(1)
『これは「命の問題」ですから」と都知事が発言。
「命の問題」という言葉を政策決定の論理的理由にはできない。
単なる心情の形容で、経済的貧困もSNSでの中傷誹謗もいわば「命の問題」と言い得る。
この言葉で何事かを理解したつもりになった方が大半という感じだったが、ソレは論理以外の心情的同意で、まやかしのスローガン効果に乗せられただけなのだ。
論理で詰められなくなると勇ましい言葉を吐き、論議を切り捨てる姑息な手段だが、それが真実であるかのように情的に同意する方は多い。

(2)
「完全男女平等社会を目指す」というグループの標語があった。
別に男女だけではなく、年齢や身体特徴、人種・・その他社会的差別要因には事欠かない。
ここで「平等な社会」というときの「平等」という定義が一義的に決定できないものであるのは私には自明だ。
しかし「平等」という概念が実際に神聖不可侵な決定された価値であると思い定めている方も多いので「平等な社会」という言葉はよく問題解決への論理として使用されもする。
現在のところ、私には「法の下で」という条件を付けなければ「平等」という言葉に野放しに絶対価値を付与できない。
他者との差異はいろいろあるのは自明だが、どんなに差異があろうと「法律上は」同等の権利があると保証されているのが法の下での平等ということだ。
それが実現されているのが「平等な社会」ということで、それ以外に「完全男女平等社会」といううものが考えられたり、あるいは社会全体の同意を得られるとは思えない。
「やまゆり園」の知的障碍者殺害犯を糾弾するのに「コイツは人間やない」というようなSNS上の投稿が散見されたが、「こいつ等は人間やない」という全く同じ論拠で犯人自身が障害者を殺害していた。
殺害犯も人間だし、あんたも神じゃない。
もちろん、「神」は人間を個人の資格で裁ける高次者という比喩。
自分は神ではない、ただの人間である、と自分を相対化できる機会が現在極端に少なくなっているのではないだろうか。

「オマエは人間じゃない」とか「死ね」等の全否定は、ご自分が理解できる範囲にない方を「自分の世界」から抹殺し、自分が理解できる範囲内に世界は存在しているという自分の仮想を崩壊させられたくないという自己保存願望からだろう。
誰もが他者に神のごとき絶対的審判をくだせてしまう社会である。
これを民主主義の成れの果てと言ってもいい。

しかし、神は仮定せずともいいが、確実に自分より頭脳明晰なギフテッドがいるという事実の認識は否定できないのだ。
自分が解っていない、あるいは錯誤していることでも明白に理解できている者は確実にこの世界に存在する。
この自己相対化、もしくは自己の客観視が出来れば無暗に他者を糾弾することはないだろう。
少なくとも論理的な反論以外に言葉で他者を糾弾する者は自分の判断が論理ではなく全く恣意的な個別の感情からであると自覚すべきだろう。
そんなもん、SNSにあげるな・・・



・・・ここでやっと長い前置きを終えることができた。
要するに自分より高次な判断力を持った者がいて、その目から見れば自分の主張は誤謬だらけ、かも・・と気が付けばやたらと声高な自己主張をする自分の傲慢さが恥ずかしくなるはずだ。 ・・・そだろ? 経験的にはこれには多少懐疑的なんだが(^^;
その意味でギフテッドの紹介番組は信仰以外での自己の相対化法を教えてくれるかも。

しかし、ここに絶対的知性と認められる存在があり、絶対的に正しい政策で治世している社会があるとして(哲人政治)、それは理想社会なんだろうか?

やはりそれは違うのだ。
ここにギフテッドの悲哀がある。
IQ170の少年の知能が私より優れているとIQ129の私は判断し納得できる。
しかし、ここにIQ500の知性があるとして、この絶対的優位を私は理解し優位者であると判断できるのだろうか?
IQ500の大天才が絶対的に正しい(効率のいい?人類全体に利益がある?)為政をおこなったとして、私にその深い意図はどうしても理解できないだろう。
すくなくとも私は何ものも信仰するに至らず、ここまで来てしまった人だ。
それがどんなに「正しい」と客観的に示されていても、自分に理解し、納得できないければ私は同意しない。

逆側から言えば、ギフテッドとしての自分には「正しい」ということが自明なのに、他者はそれを理解することはなく、返って「オマエが悪い、死ね!」と言い返されてしまうという社会が我々の現実の社会構造であり、今までもずっとそのようだったのだ。

自分に同意してもらえる他者が多数いる、つまり社会の大多数が自分と同列の頭脳の持ち主である、と予測できているから人はSNS上に全く恣意的な愚にも付かない「声」でも嬉々として投稿しているのだろう。
私程度のIQにしてもこの圧倒的多数者の意見の皮相性に辟易しているのだ。
もし自分が隔絶したギフテッドであったら一体どんなに歯がゆく、違和感に満ちた世界が見えていることだろう。

世界は一人の超絶した天才が率いるすっきりした構造にはなっていない。
有象無象の雑多なゴタマゼの我が隣人達が右往左往しながら、時の勢いを得た集団に引きずられてなんとかやっているようなのだ。
各自がそれぞれ自分の理解している範囲内に世界は存在しているという幻想が現実であると、疑う事もなく。

だから、高IQのギフテッドがオピニオンリーダーになることはあり得ない。
この世界はIQが平均値で、ほんの少しだけ他より頭のいいヤツが支配しているのだ。
世界はIQ平均周辺範囲内の圧倒的多数だけで動いているのだ。

もっともIQ200以上もあれば、そんな理屈はとっくに自明、適当に自分のIQを胡麻化し何食わぬ顔でフツーの人を装い、のうのうと暮らして居ることだろう(^^;
で、私が呼称するIQ値がどうして129なのか、もう察してくだされ(^^;

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