IQ129のブライ ギフテッドの悲哀..
[静かな生活]

ギフテッドの悲哀

2020/8/7(金)14:44

前回の続き。

NHK「素顔のギフテッド」中、少々生きづらくなってしまっている一人のギフテッドの告白に私は深く同意してしまった。
20台の彼は高いIQ値を持っているのだが、学業を終えても社会に自分の居場所がない、と感じ、自閉的生活を送っている。
世間との折り合いが悪くなっているとも自覚している
この方の述懐『学校時代、何でもすぐ解ってしまったので努力とか忍耐ということをする機会がなかった。だから・・』

私にも同じような義務教育時代の記憶の場面が蘇ってきた。
もう一度繰り返すが、あくまで私のレベルは「ギフテッド」ではない。
しかし、大阪下町のエ〜カゲンな家庭の子弟ばかりのクラス内ではやはり異能的ではあった。
小学校の理科で先生が「気温とは何か?」と思いついたように質問した。
多分、この先生は子供達がこの常識的な言葉の理解があいまいだ、ということに気が付いて各自に質問し回答アンケートを取りたかったようだ。
席の順に生徒一人一人を立たせ各自の答えを言わせていく。
正解が出るまで「次」と全生徒に尋ねていくつもりのようだ。
最初は少々間があった各自の回答も誰かが「温度をはかる(こと)」と言ったので、すぐに同様の繰り返しになった。
私は当初から小声で隣の大塩クン(大塩康太、元気か?)に「空気の温度やのにね?」と目配せしていたくらいなので、大塩クンがチラリと私の方を見たが「温度をはかる。」と答えたのでびくりした。
私の番、「空気の温度」と当たり前に応えた。
しかし先生は私が期待していたように「そうだ!」とは言わず、相変わらず「次」と次の者の回答を促す。
こうして教室の全員が起立し全員の答えが出た。
そして先生は言ったのだ。
「この中で正解は一人だけやった。それは・・」
私はわかっていた。私だけが他とは違う答えだったのだ。

・・・ここで考えられるのはこの年齢の子供には「空気」という概念が理解できていないということか。「息が苦しい」とかは主観的に理解できても、「大気」という目に見えないモノの概念には理解が至っていない。

もう少し低い学年での挿話。
誰かが「日本で一番大きなお金は1万円や。」といった。
私は「いや、「お金」はいくらでも大きなやつがある。」と応えて口論状態に。
じゃ、先生に聞こう、ということになり、先生のところに行く。
「日本で一番大きなお金は一万円やね?」
「そうです。」との先生の回答。
私は納得できなかったのだが、うまく説明することができず議論に負けてしまったことになった。

・・・私は「お金」という言葉の意味は「通貨紙幣」ではなく、資本や通貨額という抽象概念が本義である、と言いたかったのだ。
そして、「お金」とは具体的な「高額紙幣」のこととしかコイツ分ってないな、とも理解していたのだ。だから、ソイツは違うと主張したかった。
しかし、この先生はこの年齢の子供のいう「お金」とはお札や硬貨のことだ、と理解されていた。決して「通貨」という抽象概念を理解しているとは思われなかったのだ。

私は勉強をしなかった。
もとよりウチの地域のガキども大半もそうだった。
しかし既に放課後「勉強塾」に通わせる家庭もあった。
中学校の入学式に私が呼び出され、皆の前で宣誓文を読むことになった。
後で学校が始まり、アホな教師が「hemiはキミか?入学テスト一番やったんやてな?」と私に漏らした。
しかし、この時点を境にして私のちゃちな「地域のギフテッド」体験は終る。
私のクラスには常に一人よく勉強をする女の子がいて、クラスでは私はもう試験成績がトップにはなれなかった。
学校で担任の話を聞いてきた母は「金剛石も磨かずば」と私に言った。
・・・あとは成績から言えば見事な転落劇があり、高校では欠点もいただき、ついに大学受験期にどうしても私の置かれている社会状況についていけず、ついに「もう学校に行かへん!」と宣言・・

小学校時代「頭が良い」とよく言われた。
私は「自分が頭が良い」ということがどういうことか理解できなかった。
で、デルフィスの神殿に訊ねに行ったのだが、ということでもないが。
しかし、私が「普通に」理解できることを他のガキどもは理解できないらしいということには気が付いていた。
ギフテッドの諸君もそのように感じているのではないだろうか?
「自分には当たり前のことなのに、どうして他人には理解できないんだろうか?」と。

そのNHK番組の冒頭に紹介されていた天才少年は小学生ながら大学院生並みの数学理論を理解し、自分なりのエレガントな解を発表、後、ピアノのテクニカルな演奏や英検一級も。
数学、音楽、語学で特にギフテッドの差が顕著になるものらしい。
私は即座にコイツは私の頭脳レベルではもう越えようもない領域の能力だな、と理解する他なかった。
この小学生は大学院レベルの数学研究会に行き、イギリスのピアノ演奏グレードも取得しているくらいなので、家庭や周囲の環境がその才をよく認識ししかるべき教育や環境を整えてあげている様子がうかがえた。

多分、後半で顕著になる社会的に「居所がない」と述懐するギフテッドのケースでは周囲の環境がその才を生き生きと伸ばすことができなかったのではないか?
ちなみに、この方、あるいは他のネガティブな例で取り上げられていた方には家庭環境の紹介が一切なかった。

サンテグジュペリは"Le Petit Prince" (「星の王子さま」)の冒頭に話のマクラとして自分の才能について書いている。
「帽子がなんでこわいの?」
「おとなは、みんなそういうよね。 これは、象を丸呑みにした. ウワバミの絵だよ。」


他にも同様のことがあり、「ぼくはきっぱりと画家になることを諦めた」のだった。


私は音楽が好きだった。

中学校の時父に「オルガンを買ってくれ」と言った。 (卑怯なことに弟を介して(^^;だった)
「(アホか) オルガンなんか女の子が弾くもんや」と父。
天王寺商業に行って吹奏楽部に入りたい、と希望した。
しかし親はやはり普通科高校に行った方が、といい、私は中途半端に妥協した。
その後、私はコンピュータブログラミング、語学、音楽に趣味を得、それなりに職業的に近い場所に行ったりもしたが、本当のプロフェッショナルにはなれなかった。
私のような50人に一人(当時の小学校のクラス定員)の普通にいる「ウチのクラスの」ギフテッド達でも家庭と社会環境が適正であれば多分、自分に合った職業人生を全うできるのだろうという思いはある。
「なんせ、親が悪すぎたのもあるけど」と弟は少々取りなし気味に言ってくれたりもした。
(若年時の私の粗暴被害への手厳しい糾弾中(^^;)

最近、近所の市民ホールでリハーサル室を市民料金で借り、50人収容の小ホールで一人ベビーグランドのBostonピアノを弾かせてもらうこともある。






同様のピアノはMI-NARAの楽器店のピアノ練習室にもあるのだが、密閉されたホールの残響がまったく違う。
楽器は環境次第で全く違う世界に連れ込んでくれる。
どこかのピアノの先生宅で和室にヤマハC3が鎮座しているのも見たのだが、それは違うだろ、という気がする。
いや、練習するにはできるだけいい楽器でということはある。
しかし、グランドピアノはそれなりの空間を用意しないと本来の響きにはらなないのだ。

楽器の豊かな響きに誘われていつまでもどこまでもその奥に入っていきたいというような。
ある音色が思いもかけないインスピレーションを精神に与えることもある。
そのようにして少年が豊かな音楽の才能を自ら育み伸ばしていくことがあるのだ。

特に音楽では少年の感受性を育む文化的背景と日常環境が不可欠と今は思える。
まあ、真に才能があるホンモノのギフテッドなら、向こうから世界が自分をしかるべき位置に配置してくれるのかもしれない。
しかし、一般のIQ129以下のフツー人にとって、生まれ育った環境が決定してしまう部分がやたら多い。
そしてそのように外挿的に決定されてしまった自分の人生が本来の自分のモノとはどうしても同定できない割り切れなさを常に抱いたまま生きていくしかない。

IQ129のブライ ギフテッドの悲哀..