社会的距離の自覚 ギフテッドの悲哀..
[静かな生活]

IQ129のブライト

2020/8/5(水)12:40

前回のマスクの記事中で私は一度心情的に自分を保護してくれる社会システムから出た、孤立無援の時期を経てきたと書いた。
孤立無援という立場を経た者の意識はたぶん「普通の人」とは違っているだろう。
とくに日本の全体同一志向社会では・・・

このとき、私は「無頼の輩」という表現も意識していたのだ。
無頼徒。頼るものもなく、自力で生きていく人間、というのが元義だろう。
しかし現在では無頼徒というと反社会的人物という色合いが強い。
私はあくまで善良な社会人を標榜して生きているので自分を無頼徒とは書かなかったのだが。
その後、無頼人と書けば少々ニュアンスは和らぐのではないかと思った。
ちょっと面白いので書き加えておきたい。

 私、無頼人。
 コーヒーにブライト。

--------
NHKでは昨年より「ギフテッド」を継続した特集テーマとして採用したようだ。
嘗て「天才」と俗称された高いIQを持つ人達のドキュメントである。

高IQといっても秀でた能力は様々で、初回に登場した棋士加藤一二三さんでは過去に指したすべての棋譜の記憶を保持しているというような記憶の天才だった。
一般に数学、音楽や造形美術、言語習得等がよく紹介される異能のようだ。

昨日録画で見たNHK「素顔のギフテッド」(Eテレ 3/12放映)ではその能力を生かし社会で活躍している天才達を紹介する反面、不登校になる子どもや隣人との折り合いの悪さに直面し、社会的に自閉してしまうような負の影響もこの人たちにはあることを強調していた。

以前にも「アスペルガー症候群」で似たような事例を紹介していたこともあった。
異能なるが故の生きづらさ。
いくら優れた能力を持っていても、今現実に生きている社会の大勢に合わせることができなくては「変人」というくくりで排斥されてしまうようだ。

実はたまたま今、亀山郁夫「ショスタコービッチ」岩波書店2018を読んでいた。
このソビエト時代を生きた作曲家も現代の天才で、新しい響きを創造する能力やショパンコンクールに国家代表として出場する演奏能力に恵まれていた。
しかし、スターリン時代の社会主義リアリズムの強制や死刑と同様な意味を持つ公的批判に直面しそれでもなんとか作曲家として生き延びる。

ヴォルコフ(「ショスタコーヴィッチの証言」)以来お約束のレッテル「二枚舌」をペタりと張られてしまっていたこの作曲家がどのように社会との折り合いをつけていたのかを亀山はこの伝記で克明に考察していてかなり読みごたえがある。
「二枚舌」には時代と迎合したという批判的響きがあるが、しかしこの書ではこのギフテッドが時代に翻弄され、それでも尚自分の本音、創作欲をかろうじて堅持し、それとなく本音顕示の方もちゃっかり、とかいう時代とギフテッドの生き方という視点で示唆に富んだ書物だ。

したたかに時代に生きるギフテッド・・・
このようなギフテッドがやはり天才と賞されるんだな・・・

ところで、私は軽いアスペルガー症候群的傾向があり、更にホンのわずかなギフトを自覚することもあり、こういう人たちが時として直面する社会との折り合いの悪さはまるで自分のことでもあるようによく理解できる。

しかし私は真のアスペルガー症候群性でもなく、ギフテッドでもない。
NHK番組の紹介する医学的定義によればIQ130以上の者をギフテッドとするらしい。
この定義を聞いたとき「ハハァ!」と分かってしまった。
私はたしかIQ129いう数字だったのだ。

現在ではIQ130以上の師弟を教育する専門機関もあり、このような子どもをどう扱うのかというノウハウも蓄積されている。
アメリカにあるそのような専門の教育機関もこの番組で紹介されていた。
そうか、彼らは「ギフテッド」として、社会が別枠で観るような時代になったのだ。

で、私は?
とどのつまり、たった一点の違いでただのフツーの人じゃないか。

私の個人的生活感からいえば心情的には私はギフテッドに限りなく近い(^^;のだがやはりホンモノではありえないと自認はしている。コレ、ホンネ。
逆に言えば私は「普通の人」から限りなく遠い「普通の人」であるしかないようだ。

もとより私は努力秀才型の人でもなかったのだった。
私は結局ただの「ヘンな人」をやって生きている他ない、というところだろな(^^;

で結論ですが、コーヒーには無頼人。

社会的距離の自覚 ギフテッドの悲哀..