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[静かな生活] |
社会的距離の自覚 |
2020/7/22(水)0:14 |
マスク? 私には未だに大きな疑問詞付きなのだが、一度社会的合意事項となってしまえば淡々と従うのみ。 ご近所の広大な自然公園でお一人で散歩しているご老人が頑なにマスクをしている光景を目撃すると、花粉または煤煙とウィルスを取り違えているのでは?と思うのだが、ご本人が罹患のリスクが減るという安心感を得られているのならそれはそれで有効なのだろう。 「死者1000人を越える」(ダイヤモンド・プリンセスを含む) ↑本日の朝日デジタルの見出し。 報道は間違いではない。 しかしすべてではない。 このコロナ禍で死んだ人の数は報道されているのだが、その他通常の死者累計は何人なんだろうか? 7月までの日本の死者総計が何人なのか、報道もないし関心もないようだ。 しかし、分子が1000というなら分母の総死者数がないとその数字の大きさがわからない。 一般に、人は通常の年間死亡者数を知っているんだろうか? 年間の自殺者はこのところ2万人で留まっているらしい。 すると通常の半年の自殺死亡者数は1万人と推計できる。 コロナ禍での死者が増えているとしても、ダントツの一位とは程遠い。 先月、世界のコロナ禍による死者が「40万人突破」という報道を見た時、40万は多い、とは思ったのだが、何と比較して多いのか私には分からなかった。 ちょいと調べてみたが、どうも世界全体の死者数というきっちりした統計は簡単には見つからない。 もちろん公的国際機関の正規の統計データでは見つかるんだろうが、あくまで日本語でネットで手軽にという範囲でだ。 しかし別に正確な数字が必要なワケではない。 死者40万人が報道されている演出が臭わせるように突出したものなのかどうかがわかればいいのだ。 死者数は分からないが、国別死亡率というヤツは見つかった。 おおざっぱな数字だが、世界平均死亡率は10パーセント弱。 現在の世界総人口が60億として毎年6000万人が一年で無くなっていると概算できる。 (死亡率は人口10万人当たりの死者数、つまり1万人に一人が平均) すると、1月から6月までの半年では世界で3000万人が何らかの理由で死んでいると推定できる。 今年前半の総死者数が3000万という分母が出来た。 3000万のうちの40万。 つまり死者300例の中の4例が今回のコロナによる死亡者数というイメージになる。 ダントツとは程遠い数字だな。 多分、癌や脳・心臓疾患とは比べ物にならず、多分交通事故や自殺よりもちょいと下の数字だろう。 交通事故死者数は例年3000人強。 半年では1500人、というのが日本の数字。 コレラやペストのような歴史上に記録される最悪の疫病クラスではないのは確かだ。 それにしては最悪の疫病というよう印象が世間的に一般化しているようだ。 別にどのような解釈をするのかは人によって違うだろう。 私にとっては多くの私を取り巻く死亡可能要因の、それもマイナーな一つでしかない。 医療費2割負担の後期高齢者の私としては持病の高血圧と高コレステロールによる脳溢血や趣味のモーターバイクによる死亡可能性の方がより現実的な可能性なのだ。 しかし別に高血圧・高コレステロールの身をかばって食事や運動を制限しているわけではない。 で、バイクの方はもっとやばい状況になっている。 白内障由来の夜間視力はかなり危ない状態だが、通常の経年劣化によるバランス感覚や運動能力の衰えも通常交通に乗っているのがやっと(^^;、いや実は(^^: とかいうのが実情だが、しかし多分自分の安全上の理由でバイクを降りることはないだろう。 人身事故を起こす可能性が現実になれば話は別だが。 ん、コロナの話だった。 ま、私はマスクを強制する理由は納得していない。 飛沫は防ぐがウィルスの通過を阻止するわけではないし、そもそもウィルス感染は交通事故に会う確率と同様だと思っている。 交通事故で死ぬかもしれないので、家から出ないという人もそれほど多くは無かろう。 飛行機事故が怖いので飛行機には乗らないという人は以前は普通にいたが。 私自身が感染していて、私の飛沫を飛ばさないようにマスクをするのは意味は分かる。 でも私はまったく町では他人と喋ることはないので殆ど意味ないのだが。 今はマスク着用が当然の社会的要請になっているので、善良な市民としての私はしかるべき場所では必ず着用してます。 これを私の用語では「必要善」と定義している。 で、マスクを着用してない方を見かけると、少々社会性のないヤツやな・・とか、返って(^^; 先日、フランス語教室で同室だった女性がかなり神経質に相手との距離を気にされていた。 「フランスにまた行きたいけど、この状況なんで・・」というので、「この16日から日本からの旅客は入国OKになりましたよ?」と返した。 すると「いや、その問題ではなくて、今、フランス怖いじゃないですか」と、本当に怖そうにおっしゃった。 この瞬間に私は何事かの理解に達した。 それは科学的に正しいとか、社会のルールを尊重するとか、他人に対する思いやりがどうのとかいうような社会倫理の問題ではなかったのだ。 もし、この疫病の本質が客観的に合意ができていたとしても、個人の対処法はかなり違う。 結局、生命のリスクに対する許容度が私は他者とは全く違ってるようなのだ。 60歳で安全上の理由でバイクを降りた方を知っている。 私はと言えば「今日がその日か?」と常に自問しつつも、今もバイクに乗っているのだ。 もちろん死ぬのはありがたくはないのだが、さりとて安全無害無味無臭の生活を続けるという甲斐性はさらさら無い。 私には自分の責任で守らねばならない係累はないので、自分の子孫によりよい世界を残そうという欲求を自認したこともない。 もちろん、他人が苦しむのを見るのは不快ゆえ世界よ今破滅せよ、とは思わない。 しかし、私が死んだ後のことなぞ、どのようにでも(^^; 思えば私は30台で家庭生活を諦め、会社を退職、どうするという明確な計画もなく外国に移住した。 そのときから「自分で稼げなくなれば死ぬだけ」と自分に銘記していた。 いかなる社会的な援助も期待することなく、当時の終身雇用社会から出ていったのだ。 ま、結局は生き延び、日本国の年金制度のおかげで、もう自分で稼がずとも生きてはいけるハメにはなっている。 しかし、私は一度は全く社会的に確定していた道ではない孤立無援の人生を選択したことがあったのだ。 後期高齢者である私にあなたの「死ぬことへの恐怖」がまったく共有できていない理由が今はっきりと自覚できた。 年齢や経歴、更には家族関係その他、たぶん私はかなり社会的少数者であるんだろう。 今では私は社会の大勢の感覚や感情が共有しずらい立場になっていると今は自覚せざるを得ないようなのだ。 いくら私が「正しい」と感じても、そのほとんどは他者とは共有しようのない感覚ということだ。 その辺りか。 このコロナ禍でも、そのおかげでリセットできたメリット要素もあったのだが、日常で目にする報道の調子や町の会話に常に違和を噛み潰す毎日だった。 しかし、それは当然のことだ。 命のリスクに対する許容度は人によってずいぶん違う。 私のような精神的末期高齢者とは、例えうちのヨメであったとしても感覚を共有するなんてことはもう出来そうにない。 ![]() だから、私は常に保身の為、善良な市民用必要善マスクを愛用してまっせ。 |
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