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[静かな生活]

今宮無線中継塔へのオマージュ

2022/12/16(金)23:17

'22 12月13日(火)
今年1月に当地に引っ越した時、新居のヴェランダから今宮無線中継塔が見えることに気がついた。
現在はNTTコム今宮ビルというらしいのだが、私の内側では「今宮無線中継塔」ということになっているのだ、もう50年以上も昔から・・・。

私は20台前半まであの塔の下側の町で暮らしていたのだった。
20台後半から50年私は転居を繰り返し、時には海外にも居を移したこともある。
ここ30年は奈良県に居住し、職場のある大阪に通勤していたのだが、もちろんガキの頃暮らして居た町筋に行く用事もなかった。

というか、私はあの”どうしょうもない下町”が嫌いで、ひいてはそういう下町を必要悪的に成立させている散文的な産業商業都市大阪が嫌いで、隣県や海外に居住を試みたのだった。
そしてやっと今年、私的に”大阪との和解”を果たし、ようやくにして今宮無線中継塔の見える町に帰ってきたのだ。

国道26号線の向い側、ミレ信用組合・旧朝銀西成支店のある場所がガキの私が20年暮らしていた家があった場所だ。
大阪の恥部としか言いようもないあの”どうしょうもない下町”を今訪れてみると、あっけらかんとした道路沿いのただの”普通の町筋”になっていたのだった。
そして今宮無線中継塔も成長し背が高く立派になっていた。

もちろん、国道を渡って塔の裏側の商店街を歩くと当時の猥雑で小便臭い路地の雰囲気を思い出させないこともない。
そしてかすかに思い出せれば、それはもう時間のオブラートにくるまれて妙に懐かしいもののように思われ、ふと涙の気配を感じることもあったりする。
そのようにして、今私は文字通り故郷に帰ってきたのだ。

今の居宅は市内の副都心”ミナミ”にあり、東の正面から北側は都会の高層建造物が立ち並んでいるのだが、南大阪の方向には殆ど高層建造物は見当たらない。
その中で屹立している今宮無線中継塔は唯一の目立つランドマークだった。

もう少し視界を拡げて見ればアベノハルカスの独特の淡いグリーンが堂々と周囲を睥睨しているのが見えるのだが。

この左のハルカスと右の今宮塔の中間辺りに、いつか異様なカニハサミが見え始めてきた。

大国町駅近辺に新しく高層住宅が建設されているのだ。

そして今気がつくとそのカニハサミに駆逐されたようにいつの間にか今宮無線中継塔が消失していたのだ。

先日、”NTTコム今宮ビル”に行ってみると工事中の覆いがあり、「無線塔撤去工事」の看板がかかっていた。

そうか”撤去”なのか。
もう再生はせず、静かにその役割を終えて去って行くというのか。

NETで検索してみると”昭和43年建設当時”という写真が見つかった。
ということは記憶とは違い、私のガキの頃にはまだ建設されてなかったのか?

しかし、写真に写っている道路の交通信号は私の最古層の記憶に残っている・・・

乳児の弟を背におぶり、母は毎日信号を渡り市場に夕食素材を買いに行っていた。
私は母の着物の裾を握りいつまでもついていくのだが、母には幼児二人を連れて買い物に行く余裕はない。
私を追い返そうと信号の所で母はいうのだ。
”家に大きい時計来てるよ”
幼児の私は家に走って帰り、新しい柱時計を確認、急いで信号まで戻ってくる。
しかし買い物かごと乳児を連れた母は信号をとっくに渡っていて、対岸の歩道から私に呼びかけるのだ。”はよ家に帰っときぃ”と。
幼児は一人で信号を渡れない。
こちらの岸から去っていく母を見ながら私はただ泣いているしかなかった。

そのようなガキの頃の記憶は、その地に還れば至る所から発掘できる。
しかしいくらご近所とは言え、現在の居所のヴェランダからそのような町筋の細部は見えない。
ただ今宮無線中継塔だけはこの一年はっきりとウチから見えていたのだった。

歳老いて故郷に帰る。
古いガキの時間から直接接続できてしまった現在の時間、この間に挟まれた膨大な人生の時間があったはずだが、果たしてそれは一体なんだったのか?
ただ追い返され、泣きながら”家に帰ってきた”だけだったのか、とか。

まだそれが見えているうちに帰って来ることができ、私の人生のある種の帰結感を実際の視覚として伝えてくれた紅白の塔に向け、私からの最後のオマージュをここに記しておく。

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