〔フライブルグ通信〕
ハイデガーと大島淑子 (3)2012/09/18 いよいよ大学の夏期講座も最終日、私もフライブルグ滞在を終える時期である。
もう最期だからと大島氏よりお誘いがあり、今回は私とハンミュンデン・メソードの父(笑)N氏との三人だけで歓談することになった。
場所は同じく、大学内のカフェ・オイローパ。
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N氏に撮影してもらった大島淑子氏と私 ↑ 迷ったが、このくらいのモザイクで大公開!
フライブルグ在住の哲学者で禅とハイデガーの研究者、というとエライ怖そうなイメージだが、いたって気さくな方である。
カウンターにおいてあるドイツのグミHARIBOを買ってきて、「ドイツではおとなも皆これ食べるんですよ。子供もオトナも幸せ、とここに書いてあるでしょ。」と勧めてくれたりする。
「永遠の女学生っぽい」イメージと言わせていただく。
埴谷雄高の名が出たので私は勝手に文学的同時代人と思いはしたのだが、やはり直接お歳を尋ねるなんてことはできないのだ。
しかし、フライブルグ在住30年という。
実は私が日本にもう二度と帰らないという決意で渡仏したのが30年前だったのだ。
で、案の定私の方はその後おめおめと日本に帰り、25年の年金刑期の苦役を終え、今やっと自由の身になったのだが。
だから30年前のヨーロッパ留学生の空気は知っている。
現在取り壊し工事中の、30年前のフライブルグ大学の校舎も知っている。
少なくとも若い日本人学生達であふれている夏のフライブルグではない。
インターネットも携帯電話もない時代だった。
一分間千円の国際電話だけが日本とのか細い繋がりだった。
インターネット前夜のパソコン通信という電話回線による通信手段を駆使しだすのは、私の直ぐ下の留学世代からである。
日本に復帰して後、当時のNIFTY SERVEで面識のあった江下雅之氏(明治大教)が留学先のパリからでも、普通に書き込みしてき、大きく時代が変ろうとしているのを目撃した。
もっとも江下クンは通信・コミュニケーション論の専門家なので、かなり時代の先を行っていたのではあったが。
女性が一人、当時のフライブルグでの留学生活を開始するのは並大抵なことではない。
私もストラスブールの冬のどうしようもない孤独を知っている。
ただ、若さとヨーロッパに対する憧憬だけが支えていたのだが。
「私の場合は逆に女性だから、ということで受け入れてもらえやすい面もあったでしょう」と大島氏。
大島のフライブルグ行きには西谷啓二の紹介があったという。
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ここで京都学派の重鎮の名が出る。
大島氏が私に手渡してくれた各種資料に興味深い記事のコピーがある。
ドイツで1989に発行された新聞の文化欄の特集記事の中で、ドイツで出版された哲学・禅に関する著作が紹介されている。
久松真一(抱石)の「東洋の無」
西谷啓二の「宗教とは何か」
西田幾多郎の「善の研究」
大島淑子の著書が引用されている。
この列記された著者名が何を語っているのか、私が解説する必要もあるまい。
このリスト、ご本人も余ほどびっくりしたらしい。
大島淑子の著作が西谷啓二と西田幾多郎の間に収まっているので、一体ご本人はどんな歳なん?と思ってしまう。実はカラクリがある。
リストはドイツで手に入る出版物の紹介だが、この壮々たる京都学派の長老達の著作は独訳の出版年だが、大島淑子のは最初からドイツでのドイツ語の出版なのである。
このほか、大島氏より各種の資料を手渡していただき、私はハイデガーに禅という視点からのアプローチを試み、その後独自の境地を展開していく大島哲学の日本における一紹介者たるべきなのだが、すんません、まだハイデガーさえ読めてません(^^;
せめて、大島がハイデガーをどう読んだのかをここで少しだけ、もうしわけ程度に・・・。
大島はハイデガーをこう読んだのである! | |||
なんと!
びっしりと注記され、真っ赤になってしまったハイデガー。
若いとき懸命になって勉学したテキストである。
もうバラバラになりかけていて、大切に布製のカバーに入れ保管されていた。
思い出の品を本日は特別に持参して見せていただけたのである。
実を言うと、私はぱらぱらとページを開けていて、視線がそちらに向いているスキに横に置かれていた「何でも鑑定団」級の手紙類の一つをカマしてしまおうか、とふと考えもしたりする(^^;
すくなくとも、そのような不埒な邪心が生じるくらいの品がすぐ目の前にあったのである。
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← ハイデガー著「フッサール」の自筆の大島氏への献辞
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自分専用の絵葉書で送付されているハイデガーの私信→
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←なんと、ハイデガーに一時学んでいたレヴィナスからの手紙も
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あ、これは全く関係ありません↑ クラスに張り出されていた私自筆の学級日誌。(笑)
ハイデガーを読みにフライブルグに行くと公称していたのだが、実際にはそのような余力はなく、ドイツ語の宿題をこなすのが精一杯だったのだ。
それに、夏のフライブルグはやたら日本人学生諸君や「外国人」が多く、とても静かな大学町で落ち着いて勉学に励むという雰囲気にはならなかった。
まあ、私もそのうちの一人だったので、不満を言える立場ではないのだが。
この3年前に行ったストラスブールの「極超短期留学」では、毎日図書館(BNS)にこもり、運河のほとりを歩いて深夜宿舎に帰るという擬似留学体験を堪能できた。
しかしあの時、ヨーロッパは冬だったのだ。
夏には本当のヨーロッパはない。
今回のフライブルグ夏季語学留学は、密かに期していたドイツ存在論哲学への沈潜という気分とは完全に違う、夏の各国の学生達の陽気なざわめきの中で始まってしまった。
私にしても、「ドイツ哲学への回帰」という大義名分はやはり自分に対する誇大な詐称で、語学留学というもったいをつけようとも実体はタダの退職者の滞在型海外旅行じゃないか、と思い知るところだった。
大島淑子氏との邂逅がなければ、へへへとちょいとテレ笑いを浮かべ頭をかき、そのような尻すぼみな旅行ブログを書いて帰ってきたことだろう。
しかし、ハイデガーがフライブルグ大学総長就任の講演をしたAULAで大島淑子のハイデガーにテーマをとった講演を聞き、講座の最終日にハイデガーの筆跡や先人哲学者の息吹に触れ、自分の中の大義名分の幾分かは思わぬ形で成就したという思いはある。
「ハイデガーを研究しにフライブルグに」という自分に対するほんの冗談が、どういうワケか専門の研究者から親しくお話を伺い、先哲達が実際に残していった気配を実感するところにまで駒成りしてしまったのだ。
ころんでもタダ起きない犬も歩けば
ヤブから棒に瓢箪から死んだ神あり拾う哲あり。 hemiq 2012 (↑意味いちじるしく不明) 「ハイデガー、こんな簡単にわかっちゃっていいんでしょうか?」というのはもちろん冗談だったのだが、
ハイデガー、こんな安直に私ごときが教唆されてしまっていいんでしょうか?とは実感である。
ストラスブール大で私はゲーテの後輩かつP.バレリーの孫弟子になったのだが、フライブルグ大でついにハイデガーの後輩兼孫弟子になってしまった、と以降は詐称しようとここにして思うのだ。(笑)
問題意識を常に持っていれば、必ずどこかでそれは繋がっていく。
そのようなことを大島氏はいつか私に語った。
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