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 馬見丘陵公園・菟田野 [奈良]


'15 4月18日(土)
4月18日(土)

朝ヨガ行きます!
とか言ってたのだが。

馬見丘陵公園着時間は既に10時過ぎ。
多分もう終わってるだろう、とは思うモノの公園内の丘に急ぐ。

後かたづけ中の
左、ヨガ師匠。
右、ヨガ同輩。

「今頃、遅いよ!」
「起きたらもう8時過ぎてたのでぇ、へへへ(^^;;;;」

それにしても何という爽快な4月の朝だろうか。
後で光学42倍望遠で去りゆくわが師を追うと、裸足のまま空中浮遊をつづけ駐車場まで飛び去って行く。
すべてが重力を失い、空中にゆらゆら漂いだす 4月の輝く陽光。
きみも飛べるん?

この朝はエリオットの句は思い出さず、シューマンの詩人の恋第一曲を朝起き掛けに歌う。
Im wunderschonen Monat Mai, als alle Knospen sprangen..
輝く5月の朝、つぼみがすべて開くとき・・・

「え?開くのは4月じゃないの?」
「あのね、高緯度のヨーロッパではひと月ほど季節がずれるんだよ。」というような優雅な会話でこの朝は始まった。
エリオットの残酷な4月も、私の方では3月だったのだ。

だいたい花が咲きほころびてくるとそうそう鬱々とはしてられない。

野外ヨガには参加できなかったが、そのまま広い丘陵公園の百花と遊歩する人の間にゆらゆらと漂うことにする。








 一体何撮ってるの!
 いえ、花ですけど?(^^;;;;;;

ちなみに、翌12日(日)に郡山イオンモールにて益若つばさトークショー(^^; があり、「こそっと」携帯電話カメラをその辺りに向けようとしたら「もしもし、撮影はご遠慮願います」とコワいお姉さんに言われてしまった。
商業施設内では大体撮影禁止だが、公園では皆堂々とカメラを四方に向けている。
でっかい望遠レンズを装備しているお兄さんもいた。望遠で花を撮ってもしかたないだろうに(^^;

青空の下では、あまりカタイこと言われないようだね。
ウチは自前のモデルさんを連れて行ったたからいいのだが。


チューリップばかりだが、こんなに種類があるなんて思ってなかった。
配色レイアウトも巧妙であんまりこちらの花には興味がない私も少々はしゃぎ気味。

トレードマークの頭の雑巾、さすがに少々カラーバージョンアップした方がいいかな。


野外ステージからは各種グループの奏楽の音も響き、どことなくフェスティバル。
何とかいう、女性サックス奏者がソロで活躍するジャズバンドのノリも次第に良くなっていく。
バンドテーマが「オルフェのサンバ」。


昔、プロのミュージシャンの端くれだった時弾いたきり、この35年間まったく忘れていたメロディ。
懐かしさに恍惚となる。
「四月の思い出」のソロ良かったよ!

ヨガ瞑想ポーズもついくずれてしまう。


・・・というような感じで満開の春酔い状態。

そろそろ腹も減ってきたし、どこかで昼食に。
バイクで公園から5分程のアピタ西大和店に行くことにする。




スーパー特売場で仕入れたイベリコ豚弁当を食し、更にフードコートの丸亀製麺でかき揚げと白ごはんで天丼にして、外のテラスにて野外食の気分。
丸亀製麺の天丼セットもメニューにはないのだが、白ごはんと天ぷら揚げ物を買うと天丼たれの瓶を渡してくれる。

5年前には大阪合唱団の練習日の帰りに心斎橋丸亀で常食していたヤツ。
とにかく260エン(ごはん130、かき揚げ130)で天丼でっせ!
このコストパーフォーマンス、他ではちょっとマネできない。


さて?
まだ天気は上々、夕方までもう一走りできるが?

宇陀菟田野辺りまで走り、歌野師匠の仙居をそれとなく探索に行く?
本当なら事前に連絡すべきだが、公式に伺うとなれば手土産くらいは必要だろうし・・。
まあどういう土地柄なのか探索するくらいで。

宇陀アニマルパーク横から広域農道伝いに菟田野に入り、そのまま峠まで。
たぶん、この辺りじゃないのかと思うのだが、この辺りは都会と違い、住戸に地番表示なんかない。
山に向かって行く横道がアヤし気なので、その付近を探索することにする。
横道に踏み込んで登っていくと、後続のヨメが何やら騒いでいる。
「見つけたぁ!」 「え?どこ?」
何と、歌野師匠その人が遠くで手を振っているではないか。
密かに探索するつもりだったんだが(^^;

もちろん歌野師匠は偽名だが、この地で庵を結んでいることを巷に広報するような個人情報を漏洩することはできない。
世に隠れ、山地を切り拓き、隣の竹藪から越境してきたタケノコを掘る仙人風の姿を見れば、知る人にはこの方の正体は一目瞭然だろう。
私の最近WEB公刊した小説のヒロインの名を詩野安希子としたが、もちろん小説のあらすじをでっち上げた「菟田野のあきのの湯」がモトになっているのは間違いない。
しかし、33年前の日記には当時中村真一郎の 「秋」を読み、冒頭の「秋野さんのお嬢さん」という響きが耳に残っていることを記している。
秋野という響きには高踏的な物語を必然的に呼び寄せる、そのような夢幻的音感がある。
中村真一郎は正にその音感を文字にしていたのだ。(「四季」4部作の「春」の方かもな? (^^;)

菟田野(うたの)もまたしかり。
物語は現実を素材にしいているのだが、そのような記憶の重層性と非日常的な夢幻とが交叉する豊かな音楽の世界を呼び込む。

私はこれから自分の人生を私の内側で生起する物語に織り込み、勝手気まま恣意的作為的にアレンジを施しでっちあげて語り、そのことででこの散文世界を韻文化して生きていくのだ。
晩年の中村真一郎は中世物語世界に没入することで生きていた、と書いている。
あの一世を風靡し、テレビ「私の秘密」にも毎回出演していた「流行作家」が、である。

という訳でかなりの恣意的conotationでデコレートした歌野師匠はまずシューマン詩人の恋について語り始め、私はこの朝はその歌から始まったことを言う。
先週、師匠が俗界に降りてきたとき、会衆に飛行の夢を語ったのだが、その体験を共有するのは私一人ということがあった。

『空と夢--運動の想像力にかんする試論』はガストン・バシュラールの著作で私は33年前に法政大学出版局版で読み、その内包する豊かな文学的イメージに酔った。

ドイツ語 Wasser に聞こえる水の音、u.s.w。
あ、それは前作『水と夢』の方か・・

飛行する夢は、私に言わせれば性的成熟に近づいていく感覚である。*
肺の相同器官の浮き袋に空気を溜め、全宇宙である羊水中を漂う細胞記憶。
自らの意思で地から浮遊し、想像力エンジンだけで精神を宇宙に飛翔させ。

歌野師匠が未だに空中浮遊するというのは驚嘆すべきことだ。
あるいは音楽を業とする者の、永遠の幼児性というミューズの呪いか。
いや、師匠はシューマンとはクライスレリアーナで決別し、ブラームスの円熟に入っていったという。
未だ羊水中蓮華座浮遊を続け、まだこの世の生を開始してもいないのは私の方なのだ。

師匠の庵には人知の及ばぬ驚異がてんこ盛りだったが、今は書くことはできない。

手土産も持参していないのに、ずっしりと重い掘りたてタケノコ二株をまんまと戴いた。

真に驚嘆すべきはそのタケノコを持ち帰り2時間かけてゆがき、皮をむき切ったときに出現する食用部分のあまりにちっこいことだった。

   イエ〜イ!

*「空を飛ぶ夢」に関し、私と同世代の哲学者鷲田清一が文明論的エッセイ集「死なないでいる理由」の中で、言語習得による社会参加の成功体験、「声の奇跡」が起こる平面に踊りでたことを意味し、学校・社会・恋愛という新しい言語水準に上手く入れなくてとても不安になるときに見る、との説を紹介している。
「成熟」(maturite)へと向かう心的昇華という構造に着目したい。

origin: [馬見丘陵公園チューリップフェアと空中浮遊する師] 2015/4/22(水)3:32
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