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[日本語・外国語] |
「とにかくがんばれ」 |
1999/5/7
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「がんばれ」という言葉は欧米言語に翻訳不能であるというのはよく言われる。 個別に「勇気を持て」とか「戦う精神」とか状況にあわせて訳さねばならず、日本語の「がんばれ」の万能振りにはかなわない。 例えばスポーツをする人に「がんばれ」というのはちゃんと訳せると思う。 もっとも、私ならスポーツ選手への声援だとしたら「がんばれ!」は”take it easy!"「気楽にいこう!」と訳すつもりですが。 しかし、人と別れるときに挨拶がわりに使う「じゃ、ま、とにかく、がんばってね」という無目的的用法は訳しようもない。強いて言えば「生活」という目的語を補って「がんばって生活するよーに」といってる風である。 欧米語の語感からいうと「生活」が呼び出す動詞は多分「楽しむ」くらいではないだろうか。"enjoy your life"というように。 日本語「がんばる」からは努力主義の色合いが濃く透けて見える。 本当は何らかの目的を達成するために「努力する」んだけど、目的が達成できないときには「努力する」ということ自体が採点評価基準になる、というのが「努力主義」である。 「結果は良くなかったけれど、がんばったんだからいいか。」というヤツですね。 結局、勝ち負けタイプの体育会系生き方では必然的に敗者になる人も出てくる。しかし、敗者になったとしても、とにかく「がんばった」のだから良しとしよう、という救済措置がこの努力主義というわけだ。 だからこの「とにかくがんばる」無目的的がんばりモードは敗者でさえそれなりに満足できる、それなりに有効な、かなり完成されたシステムということができる。 だから、スポーツのような勝敗がはっきりしているものだけでなく、結果も出ないような生活全般や社会との雑多な関わり方なんかにも「がんばって」しまうヒトも多い。かくて別にそんなに力を入れる必要もないところにまで「とにかくがんばる」心理も働く。 昔山陰の方にスキーバスで出かけたら、途中現地の雪の状態についてのアナウンスがあった。 「今現地ではたくさん雪が降っているという連絡がありました。皆さん、存分にお遊びください。」車内では思わず歓声が湧きあがった。ぼくもうれしかった。 今までマイクのようなものを通じて公式に「お遊びください」なんていわれた事がなかった。 「しっかり勉強してください」だの「がんばってください」だのばかりだった気がする。 もちろん私的にはサボったり、手を抜いたり、あそんだりしてきたのだけれど、何か公式な場では「おもいっきり遊んでください」という風なことをいわれたことがなかったような気がする。 小学校の時に遠足といってたものが中学校では「校外学習」という名になっていた。娯楽で旅行するんではない。何かを学ぶために行くのだ、というような意気込みか。 全てに「がんばる」という姿勢を良しとする風潮が感じられる。 がんばること。結果はどうであれ、無目的的にがんばること。 「死ぬ瞬間」シリーズの著者、キューブラ・ロスのいうところによれば、死の床にある病人に見舞いの人や家族が「死んではだめ、がんばって早く良くなって」というように励ますのが良くないそうだ。 本当は安らかに死んでいけるのに、周りの人が無責任に励ますので死ぬことが非常な苦しみになるという。 もうぼくはいいよ。 もう何事もがんばってしたくはない。 お願いだから「べつにがんばらなくてもいいよ、気楽に行こうよ」といって欲しい。 (00.9.22) |
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