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[日本語・外国語] |
ふれあい |
1999/5/7
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「ふれあい広場」 「ふれあい公園」 「広報誌ふれあい」 「ふれあいセンター」 ・・・・・・・等々 この秋はバイクで郊外を走り回って過ごしていたが、「ふれあい」という文字がやたらと目につくことが気になりはじめた。比較的最近に設立された地方の市町村立の公共施設の名称に使用されているケースが多く、したがって道路走行中の目印にすることも多い。 「ふれあい」という文字の印象はやさしく、あたたかい語感があり、「ひとびとの交流」というような語義も感じさせるので、地方自治体が設立する公民館のような集会場にはふさわしい名称なのかもしれない。 しかしここまであふれかえってくると、この命名の発議者の精神の安直さに思い至り不気味な気配が私をおののかせ始める。 どうやら「環境(地球)にやさしい」の次のワンパターンキーワードは「ふれあい」のようである。 「心のふれあい」というような言い方が先ずあったと思う。 これはかなり気味わるい言葉である(^^; 何かこちらのプライバシーに土足で踏み込まれ、「何の権利があって?」と抗議すると「わたしの方のも見せたげるからさぁ、いいじゃん?」とか強引にせまられたり。う、きもちわるぅ。 で、「ふれあい」だけだと「心の」が抜けてるので、当初さほど『気持ちわるーい』印象はなかったのだが。 よく考えてみると「ふれあい」って「さわりあい」のことでしょう? 「触れ合い!」 二人であるいは大勢が集まってべたべた触りあう。 で、ここで触られて少し行くとまた向こうでも触りに来る。 このイメージを胚胎してしまうと、「ふれあい何とか」の氾濫は、ちょっと私には耐えられなくなってくる。 ただ走り抜けたいだけなのに、ふと気が付くと道が「ふれあいロード」に変身して待ち構えているのだ。 すいません!ただの通りがかりです、見逃してください! 「ふれあい牧場」 動物に触れられます。あ、その通りじゃないか! でも、それって何か「ふれあい」ちがいのような気も? 動物の方は別に触られたくはないと思っているのかも知れないのでは? このことば当然ながらというか、高齢者向け施設にも多く冠せられ、「ふれあいの里」「老人ふれあいの家」などと、かなりの目撃例がある。 ここで明らかなのが「孤独な老人」というイメージである。 「ふれあい」にはすでに介護というキーワードさえも含んでいるイメージとしての度量の広さがある。 うむ。要するにこれからの高齢者化社会を見据えた、かなり有効なキーワードとなりうるのだ。 それはそれで結構なんだけど、私がいつも気にいらないのは、キーワードが確定してしまうと必ず安直なコピーが氾濫し、それさえ唱えていれば他のことなどどうでもいい、というような風潮になっていくのが見えることだ。 老人は孤独で常に他人との交流を望んでいる? そうかもしれない。しかしそうでない老人もいるかもしれない。 私は見知らぬ他人から「そこのおとうさん!」と呼ばれたくないし、ましてあかの他人に「おじいちゃん!」と呼ばれたくはない。 老人になり果てたら、せいぜい他人の迷惑にならないよう気をつけるつもりではある。 経済的な支援や介護はありがたく頂戴しますが、それでも「ふれあい」よりも「自立」を旨としていきたいのである。 と、ちょっと気色ばって思ってしまうのは、「ふれあい」ということばの不気味な増殖から、「老人の個人としての 尊厳」が考慮されなくなっていくような不穏な気配を感じてしまうのである。 私はここで「ふれあい」ということばにこだわっているのではない。 それを安直に繰り返す精神のことを言っているのだ。 個人と集団とのかかわり合い方はさまざまで、今まで私はどうにかそれなりに苦労して社会の中での自分の適正な位置を模索してきた。 老人になったとしても個人であり続けることには変わりない。 人は「孤独な老人一般」というものになるのではなく、個々の老人になるだけなのだ。 単純なキーワードを繰り返して事なれりという精神は、たやすく言葉による暴力を受け入れてしまう。 「最初にことばありき」とファシズムは言った。 (2007.1.17) |
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