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[日本語・外国語] |
「エコによい」「環境によい」 |
2012/2/14(火) 午後 3:35 |
エコによい
環境によい
「環境によい」はもう聞きなれてしまって今更文句をいうのも時節外れだが、今回某新聞上で「エコにもよい」という表現を見、いいかげんにせんかい!状態となった。
先ず「エコ」は当初 ecologie (生態学)の略で使用されたはずだった。
しかし、いつの間にか economy (経済)の略と混同され、いまでは「環境」・「節約」・「何らかの市民道徳一般」というような拡大解釈をされたまま、政府機関も平気で使用している。
何がエコポイントなんですかねぇ。
本来的にエコロジー、まあ譲歩してエコノミーでもいいが、そのような学術・抽象用語に対して「よい」とは、どのような意味を含ませているのか?
「数学によい」とか「哲学によい」とか言われても「ん?」としか返しようがない。
これが「環境によい」であっても事態は同様。
どうしてもこちらの「善意で」「環境を保全するのによい」とか、
あるいは悪意で「環境を破壊するのによい」とかのはっきりと方向性を持った目的語を挿入して補わないと意味にはならない。
このような曖昧で未定義な「エコによい」「環境によい」という空疎な日本語を聞いて、私は断じて何らの意味も受け取れない。
せいぜい、この発話者の言語的感受性のなさに「コイツは自分の言っていることも考えたことがない」という致命的な言論に対する真摯さの欠如を感じるだけである。
環境省というところのHPを見ると「環境に対する取り組み」という表現がある。
これがお役所なので、文脈的に意味は捕捉できないことはない。
「日本産業にとっての経済的好環境を整えようとする取り組み」と補えばいいんでしょう?
え?経済環境ではなくて日本全体の生活環境を保全する?
うん?日本人だけやない、全人類?いや、地球全体?全生命とかって?
そんなワケないだろ。
「環境(environment)」とは相対的な概念で取り巻かれる主体を提示しないと定義できないものだ。
例えば孟子の母親がいう「環境」と環境省のいう環境とは同じもんですかね?
嫌気性細菌が生存できる環境とアンタが生きるに都合のいい環境とは同じですかね?
何に対する環境なのか明示することなく、「環境に対する取り組み」という言葉で何が伝達できるんだろうか。
そのような空疎なコトバを使って、何かしらの共通理解が成り立っていると思うほど私たちの世界は一様ではない。ナメてもらっちゃ困る。少なくとも私はそんな薄っぺらい世界からいくらでもはみ出しているぞ。
ちょいと附記すると、今通っているスポーツクラブにもふと見ると張り紙があって:
『加盟全クラブでエコに取り組み始め、節電、節水をしています。』 とあった。
もちろん、インストラクターが集まって生態学上の論議をしているワケではない。
一体エコって何の略で、どういう意味で使用しているのかさっぱりわからん。
書いている方も見ている方も「問わず語り」で何となくわかっている風であるのが私にはコワイ。
周囲がすべて空疎なスローガンにまみれてしまうとき、その国で対外戦争も可能になる。
それに毎度付け加えて言うのだが、「主体と環境」というような二分的な対立概念さえ、たいした根拠のある言語指標であるとは思えない。
それって西欧的世界観から来る概念で、本来的に日本人が感じていた世界観ではありえない。
古来の考え方では自分と環境というような二分法をとらなかった。
私は自分も含めてアナログ的に多様に拡がった世界が見えている。
環境は私をとり囲んでいるわけではなく、私も環境の一部であり、あるいは環境そのものである。
人間も人類の活動した痕跡も別の視点からは「環境」に他ならない。
コペルニクスから何百年経ても自分が宇宙の中心であり、すべてが自分の回りを回っている、としか見てないのかい?
私のいる位置(ポジション)からは「環境に対する取り組み」というコトバは混乱そのものに見える。
まあ、近代の世界観では自我を常に世界の中心に置いて見る習慣なので、「自分対環境」「自分の社会対環境」という簡単な対立概念化を私は理解できないわけではないが。
そんな言語感覚では本当に見なければいけないことは永久に見えないでしょうなぁ。
そんなもの別に見たくはないんでしょうが、少なくとも私にも同じように見よ、と強制しないで欲しい。
とかの、せいぜいの悪口をたたいてこの無礼で無神経な言語使用者達への腹いせとしておく。
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