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[時爺放言] |
条理のかなたへ |
2008/06/12 |
通り魔事件や飲酒運転殺傷事件があり、しばらくすると被害者のプロフィールが ニュースネタにされてしまう。 被害者の方には心からお悔やみするし、その親族友人の無念には心より同情するが、 私は常に視聴しているNHKのニュース番組の枠内で、無惨にも殺された被害者の 方の経歴や人となりが報道されるのには大きな抵抗を感じる。 他人のプライバシーを強制的に目撃させられることは私には耐え難い。 客観的でニュートラルな事実の報道であると思うから報道番組を視聴しているのだ。 報道としては被害者の住所・氏名だけで十分である。 「小さいときから音楽が好きで、東京芸大に進学し・・」 「明るい積極的な性格で周囲の皆を盛り上げ・・」 だから? 「どうしてこんなむごい目にあわなければならないのか?」 「犯人に対して理不尽な怒りを感じます」 いや、ちょっと待ってください。 そのようなドラマ仕立て(ドラマチック)な演出を施して報道をしていると、 次第に事実を捻じ曲げて「やらせ」にまでいくようになってしまいますよ。 何よりも死者のプライバシーを守ってください。 ヨーロッパではたとえ航空機の事故であっても被害者の名は報道されません。 死者に対してもプライバシーを守る必要があり、その人がその航空機に乗っていた ということをメディアで広報することは出来ないし、その必要もない。 そして当然のごとく犯人のプライバシーも。 彼がどこの派遣会社からどの工場に派遣され、学校の成績がどうの友達関係が こうの、というのは犯行の直接原因でない限り報道する必要もないことだ。 反社会的犯罪を犯したのだから、社会からはその個人のプライバシーを剥奪して 当然、という論理になるのかもしれない。 それは死者にプライバシーが認められないこととパラレルな関係にあるようだ。 ------(以下、多少茶化しています。乞ご容赦)------ 私が被害者になった場合はどう報道するつもりなんだろうか? 「大学受験に何度も失敗し、元来の尊大な性格が社会に対する反感に転化していった ようです。不本意ながら会社に勤めましたが暗い性格で、職場では協調性がなく、 何度も下積みの職業を変えていました。 個人生活でも破局がつづき、いたたまれず海外に移住、これも大成せず 最終的には派遣社員として下町の工場を転々とする日々でした。 休日には部屋に閉じこもりテレビゲームをして鬱憤を晴らしていたようです。 退職してからは殆ど何もせず呆けて無為にただ暮らしていた矢先の事件でした。」 「被害者の配偶者は『何も生産的なこともできず、ただ社会に毒ずいているだけの 人でした。今回は幸い死亡特別給付期間内でしたので助かりましたわ。にっ。』と、 うまく片付いた喜びを隠せない様子でした。」 −−−− で、被害者が何のホメるところもない私のような人であってもその人物像を報道する のだろうか? 被害者が惜しまれる有望な人材であればプライバシーに遠慮なく踏み込み、その他の カテゴリーであると判断された方たちには無言なのだろうか? 実はそのようなのだ。 ... 私が抵抗を感じるのは、単なるテレビ的演出に被害者のプライバシーが利用されているだけで、とても報道するに値するような社会的意味はないと感じるからだ。 「こんないい人物だったのに、なぜ殺されねばならないのか?」 という不条理感を強調し、犯行の理不尽さに怒りを募らせるという演出でしかない。 被害者の人柄によって犯罪の軽重が変わるのだろうか? これは罪刑法定主義の法治国家の前提とは明らかに違う価値感である。 それでは本当にわれわれは、人の生死が条理に基づいていると感じているのだろうか? 善人なら報われ、そうでない者は淘汰される。 そのようにきれいに整合した世界ではないと感じるからこそ、わざわざテレビではこの不条理への悲しみを共有しようと演出しているのではないだろうか? そんなものなら今更見せられたくもない。 blog upload: 2008/6/12(木) 午前 3:07
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