夢の20世紀へのレクイエム ヘンリー・フォードの20世紀
[時爺放言]

松下幸之助の20世紀

2008/12/16
バイクで和歌山に行った記事にいただいたコメントで作家・津本陽さんの名があった。
戦国から江戸期にかけての伝記小説が主たる創作分野で、出身地の和歌山にちなむ作も多い。
昨年この人の手になる松下幸之助の伝記を読んだ。

○ 津本陽「不況もまた良し」 幻冬舎・000
松下幸之助も和歌山出身で、津本陽は同郷の偉人の伝記というスタンスで松下幸之助を語り始めている。

いまさら伝記を読むこともないと思ったが、その実この人物の「産業報国」の精神については良く知らなかった。
よく知らないが、常に「ウソ」くさく、「バカ」らしいという印象を持っていた。

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大阪人は毎日豊臣秀吉と松下幸之助の気配が染み込んだ空気を呼吸して育つ。
私(Hemi)も長年この偉人が創業した会社関連で働いてきたし、その後も福島区大開1丁目児童公園の松下電器創業の地の碑の横で、義父の三輪自転車の練習に付き合ったりする。
大阪は豊臣秀吉と松下幸之助さんの城下町なのである。

私が実際に松下の工場で臨時工として働いたのは20歳のときである。
しかし3ヶ月ももたなかった。
労働に、ではなくて、その精神主義についていけなかったのだ。

工場は薄暗くて巨大な胎内だった。
物が移動していくベルトコンベアーの横に積み上げられた道具
まったく人影もない隅の壁のさりげないドアの向こうの通路
絶えず振動している機械の騒音と不規則な形の下に身を隠してしまえば、もう誰にも見つからない

見通しの良いオフィスから降りるとそこは地下の帝国
騒音の中の孤独
工場、または20世紀風のユートピア

しかし、実際の松下の工場がそのような孤独な少年の夢の城であるはずはない。
やたらと労働以外のことがうるさかったのだ。
松下の理念を唱和する「朝会」であるとか、「生産管理」からの「話」であるとか、職長からの指導であるとか。
松下さんでは毎日の朝会で「産業報国の精神」と全員が唱和して一日が始まったのだ。

なんだっけ、多分そのねずみのようなイメージの職長のねちねちとした精神訓話に単純に反発し、
あるとき「そしたら辞めます」と言ったのか。

それから事務セクションにいって退職手続きすると、面接の時に会った工場長(大学出)がいた。
私の顔をまだ覚えていて、他の人には聞こえないように
 - ここは君のようなモンが来るところではない。二度と来ちゃだめだぞ。
という風なことを言った。
私には「インテリの自嘲」に聞こえた。

この人は義務としての労働をしている。
決して「産業報国」の大儀で働いているワケではない、と思えた。
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津本陽の文学的修辞のない、素直な筆致の伝記により、松下幸之助の「産業報国」の精神はウソや方便ではないことが理解できる。
実に「時を得た」理念だったのである。
20世紀は電気と物量の時代だったのだ。

「生産することで人々の生活を豊かにする」という幸之助の精神は20世紀の理念そのものだ。
前の世紀のアダム・スミスの楽観的自由主義経済論でいう「見えざる神の手」のように、
豊穣な物質をただ生産し続けることが国を富ませ人々の生活を豊かにすることに直結していた。

松下の「店員」もこの店主の率直な精神に共鳴し、店主と同じ熱意を持って働いた。
個人の利益が全体の利益に直結し、労働し生産することが一点の曇りもなく「善」であった。
そして個人の利さえ犠牲にし、国や人々のために働くということができたのである。

津本陽が伝記に与えた書名「不況もまた良し」は、この経営の神様が不況でも店員を馘首することなく危機を乗り切ったエピソードに由来する。

そして確かに生産によって貧困が解消し、生活が豊かになった。

しかし、私が松下で働いた東京オリンピック後の日本では、生産と物量に流されていった生活への反発がすでに生起していた。
下士官級や先輩模範工員は松下幸之助の産業報国の精神を引き継いでいたかに振舞っていた。
しかし大学出の管理職や日本の国益に何の関心もない私のようなフリーターには単なる経営戦術上の方便としか見えなかった。

そもそも派遣社員や臨時工として会社側の経営上の都合で馘首されもする労働者が、理念や大儀のために働けるものだろうか?

松下電器は今年(2008年)グループのすべての社名から「松下」の名を完全に外し「パナソニック」とした。

松下幸之助は1990年に死んだ。
幸之助が生きていて、20世紀の物的豊穣を目指した社会が崩壊しようとしている21世紀を見たとき、相変わらず「生産することで国に報いよう」と言うだろうか?
blog upload: 2008/12/16(火) 午前 8:01
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