こども総理、またはせんとくん。 せめて、ちゃんと終わりましょ...
[時爺放言]

セーガンとクラークの20世紀

2009/11/27
アーサー・C・クラークの小説「遥かなる地球の歌」(1996)を読んだ。

前書きでスピルバーグの「スターウォーズ」について触れているのがおもしろい。
もちろん、クラークは映画「2001 スペースオデッセイ」の原作(共作)者なので、いわば商売ガタキである。
「楽しんで見ているが、あくまでアレはファンタジーで、本来的なSFである自分のとは違う」とのこと。
実際の科学に立脚した思考実験である本格SFの旗手という自負ですね。

また、この作品の執筆時(1996)に逝ったカール・セーガンへのオマージュもあり、作中、破滅する地球を捨て、人類が宇宙船で移民する最終目的地を「セーガンII」としている。

カール・セーガンはコーネル大学の宇宙論の教授で異星生物間のコミュニケーションを研究していた。
パイオニアやボイジャーに積み込まれた人類の自己紹介板の発案者兼製作者である。
当時のテレビによく登場しアメリカの宇宙開発の黄金時代の世論を支えていた人気の科学啓蒙家だった。

セーガンが「この時代に生まれて幸福だ」とどこかに書いていたのが印象的だった。

このセーガンの宇宙人向け銘板にはピタゴラスの定理の模式図等が表示されている。
いやしくも知性があるならピタゴラスの定理くらいはどこの宇宙人でも小学校で習っているだろう、というわけだ。

余談だが、この銘板には最初、人間の男女の裸の図も描かれる予定だったのだが、当時の世論の反対に会い、性器部分は隠されてしまった。なんとねぇ。
宇宙人に対してさえ、自分ちのプロテスタント的道徳を押し付ける、このアメリカ的良心のあり方ねぇ。

20世紀は宇宙開発の時代でもあった。
人類は科学技術を発達させ、宇宙に進出し、より高次な知性になっていく。
そして、いつか全宇宙知性体クラブ(PUIC)の会員と認められ、もしかしたらこの宇宙を主催する会長にも推挙され「神」と呼ばれるようになる可能性だってあるかも。

ま、セーガンはそこまでは言わなかったが、宇宙進出の過程で遭遇する他の知性体との邂逅を人類の次の段階への「進化」の大きなイベントとして夢想していたことがうかがえる。

クラーク=キューブリックの「2001 スペースオデッセイ」では、モノリスを地球によこし、人類をプッシュし進化圧をかける、思わせぶりな「高次な知性体」が暗示されている。
「人類の次の段階への進化」というのがクラークのメイン・テーマだった。

この本では、同じく前書きに、やはり異星知的生命体は存在しない・見つからないだろうという見解が一般的になってきている情勢も紹介している。
だから、リアルな本格SFとしては、もうあんな思わせぶりな高次の知性を出すわけにはいかんのだ。
しかし、ここではいかにも作家的なアダプテーションを提案していて、さすがの大御所ぶりだった。

今回邂逅する相手は宇宙人ではない。
1000年前に移植し、コンタクトをたった殖民星の人々が高次の知性体として邂逅するのは、陽子エネルギー航法を開発し、100万の冬眠人工を載せ滅亡寸前の地球から直接やってきた人類なのである。ははぁ。なるほどね。

これは同じ人類とはいえ、やはりセーガン的な異なる文化背景を持つ知性体との邂逅というテーマをしっかりと踏まえている。
知的生命間の「善意」のコミュニケーションのスリリングな開始(First Contact)。
このワクワクするイマジネーションがセーガン=クラークの創造エンジンだったのだ。

しかし、この作品を今、読んでみると、さすがのクラークにも陳腐な20世紀人の傲慢さが見えてしまう。

この作品にも、21世紀の私からすれば、とても公正とは思えない「知」に対する偏見が見える。
英語が普遍の共通言語、創造主たる唯一神の信仰(の記憶)があり、高度なテクノロジーを駆使する論理的思考ができ、科学技術を発達させている。
そしてより豊かな生活に向かう善意の意欲がある。

これはまったく知的な欧米人の平均的な姿から一歩も出ていない。

もとよりクラークはスリランカに住み仏教にも親しんだと言っていたはずだ。
しかし仏教思想の影響や、儒教的な静的秩序が支配する世界観の痕跡は全くない。

クラークにして、20世紀的西欧文化の優位という盲目的偏見から自由にはなれなかったのだ。
より複雑で高次なものへと向かう進化論、物質的豊かさを求めて拡大していく市場原理、そのような一方的な経済帝国主義を肯定する人類至上主義。

もちろん、クラークは科学的発展で得られる物質的豊かさのみを欲望の対象としているのではない。、2001で暗示したように物質や時間の限界を超えた高次の存在に向かうイメージはある。
これは進化の階段上の上方の存在を強く暗示する。
その究極のイメージとして万能の創造主がある。

このような「上に向かう進化圧」こそ、20世紀の行動原理だった。
それは欧米における一神教クリスチァニズム的収束だ、と言っておこう。
単細胞生物から人間、そして神へと続く垂直のヒエラルキーが透けて見えている。

「宇宙のどこかに我々よりももっと進化した知的生物がいるハズだ」という一見謙虚に見える命題に隠されているのは、実は「人類が地球の生物のチャンピオンである」という独りよがりな勝者の驕りに他ならない。

本当に地上では人類が勝ったん?

20世紀は経済原理が支配し、拡大再生産を目指した時代だった。
絶えず物質的豊穣を追いかけ、販路を求めて世界に進出していった。
この同じ線上に宇宙開発があったのだ。

物欲という進化圧とそのエンジンとしての技術。
力・若さ・健康・快楽、それと知力。
まあ、そんな時代だっんだろう。
一本調子な豊かさへの追求。

現実には未だに「景気刺激策」しか発想できない、硬直した20世紀型の政治が支配している。
多分、単細胞生物に「進化」していこうよ、という私の人類の明るい未来ビジョンなんかは、とても「進化」とは呼んでくれまいなぁ。

オシャカサマならこの20世紀型の豊かさこそ正に「空」にほかならない、と苦笑してらっしゃることだろう。

私はクラークのSFが好きだった。
しかし、今、もはやクラーク風真面目なSFが楽しめなくなっていることに気がつく。
厳密な科学的論拠に基づいた(気にさせる)クラークの筆のリアリティ自体が裏目に出、単なるスターウォーズ風開き直りファンタジーSFよりも始末の悪い、困った善意の布教者に見えてしまう。
善意の布教者は本人が真面目なだけに、チト始末が悪い。

イヤだけど、私はもうクラークを超えちゃってしまったのだ。

アーサー・C・クラークは昨年90歳で亡くなった。
blog upload: 2009/11/27(金) 午前 1:19
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