ノクターンNo.8 変 .. スケルッツオ第3番 嬰..
[ピアノのお稽古]

ノクターン No.18 ホ長調 (ショパン)

2009/9/8(火) 午後 2:34
先週、あぶないところだった。
退職してから初めての「鬱」の気配だったのかとも。

予定していた旅行の日程を組むのが何となく、おっくうだった。
体調が悪い、というほどでもないが、すっきりせず、積極的に何もする気になれない。

バイクの調子も良くなかった。
修理に出さねばならないんだろうが、ディラーと交渉する気分ではない。

いよいよ旅行の出発日が迫ってき、時間をかけ、インターネット上でホテルを探す。
9月から始まるとは思ってなかったのだが、ミュンヘンはオクトーバーフェストの最中だった。

ホテルがとれそうにない・・・

別にたいした困難でもないのだが、精神の動きがにぶく、煩わしくて何も考えたくない。
自分では何もできないのだ、という無力感がじわじわと拡がっていく。
ふと泣きたい、と思う。

翌日になって、「鬱」か?と自問。
泣いて母親を呼ぼうとしたのかと。

気がついて部屋を見渡すと、かなり乱れている。
起床時間が一定せず、日常生活にリズム感がまったくない。
外に出ようとしても、準備にかなり時間がかかってしまう。

こういうときは、とにかく部屋を整理することから始め、心理的ストレスの種を箇条書きで明記し、
ひとつひとつ事務的に対処していけばいいのだ。
掃除することで「鬱」への入り口はふさぐことができる。

自分の外側の事物をオーガナイズすることができなくなるのが「鬱」だ。

部屋に籠もりショパンのノクターンを一日中弾いているだけ、というような。


前回ちょっと触れた、No.17と同じ作品番号62の第2。
これももう既にサロン風の音楽とは呼べない代物になっている。

しかし、第1で顕著な物語性は感じられず、気分の変化・むら気だけが支配している。

一応サロン風の装飾はしときましょうというような第一主題。
しかし、弾くのがおっくうになるような重い足取りで、とってつけたような「華麗な」
装飾が痛々しい。

この足取りが突然ランニングベースになって勝手に走り出す第二主題。
このとき、9th とか Maj7とか、現代では耳慣れた響きが混じって聞こえてくる。


そして、中間部のデモーニッシュなマーチ。
調子はいいが、うわごとを言っているような狂おしさがある。


コーダに至る経過的Maj7と、天才的にさりげない結末。


はっきりいって、聴いていて面白いというような曲ではない。
作曲家が自分の世界にのめりこんでしまっているのだ。
何回も弾いていると、次第に弾き手を引きずり込んでしまう情念が埋め込まれている。

現代のわれわれの耳には、Maj7なんて奇異な響きでもなんでもないが、この時代ではかなり前衛的な響きが
したはずだ。
ショパンのような異才が音響の中に見つけた新しい情感が、後の時代では人々に共有されていくこともある。

ビートルスやジェームス・ブラウンのソウルミュージックを始めて聞いたとき、強い違和感を感じたのを思い出す。
しかし、10年も経たない内に「普通」の音楽に聞こえるようになる。
本や映画と同じように、音楽は人を教育し新しい情感を付与していく。

特に多感な少年期にショパンの情熱的にド派手な部分に惹かれて、音楽を聴きこんでしまうと、
知らずしてショパンのカプリチオーソな(むら気というか)気分に感染する。

笑い同様、狂気も感染する。(阿部謹也「世間とは何か」より)

19世紀ならそれでも良かった。
王様も貴族もいたし、本物の乞食もいた。
この頃の芸術家はよく狂気を飼っていた。
逆に言えば芸術家と狂気はある程度共存できたのだ。
それが時代の気分というものだ。

19世紀風のカプリチオを飼っていると現代はかなり息苦しい。
人の多様性より均質性(つまり平等ってことですが)が基本的な人間関係認知の基盤になっている社会である。
あまり他と違う気分や意識を飼うのは良くないことだ。
(クラシック音楽は情操教育にいいって?冗談いうなよ。演歌の方が絶対安全だよ。)

部屋に閉じこもってこのノクターンを一日中弾いていると、外に出て行く勇気がくじかれてしまう。
世紀・社会の「温度差」が違いすぎるのだ。

テレビを点け、部屋を整理することから始めよう。


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