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プロコフィエフ ソナタ ..![]() |
[ピアノのお稽古] |
ショパン ソナタ第二 変ロ単調 第4楽章 |
2013/6/22(土) 午後 3:11 |
前回、この第4楽章はヤメとこうと書いた。
で、雨続きの日にまた腰を痛めて(今回は左)、スーパーにも行けず自室軟禁の2日間。
では、アレの暗譜でもするしかないな。
ショパン ソナタ第二 変ロ単調 第4楽章 Presto
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![]() これだもんね。
全くの無機質な無窮動。
ま、別段演奏困難ということでもないのだが、適当なアドリブを採譜したようなストーリー性の無さで、普段は暗譜のガイドになってくれるメロディラインとかコード進行、というような指標(道しるべ)が明確には見えない。
リズムも全くの三連符均等割りで、どこを切っても全く同じ金太郎飴。
第三楽章の葬送の行進が通り過ぎ、後は誰もいない墓に枯葉がカサカサと舞うばかり、とかいうような解説が付いていていたりする。
いわば音楽的なドラマ性を一切排除し、無機的な環境音楽に徹した作法を試みている部分。
しかし、第一楽章から第三楽章葬送行進曲に至る一連の楽章はあまりにも明確なドラマ、メッセージを(これでもか)x2 と主張しまくるので、この練習曲風のさらりとした瞬間芸での隠喩を終曲に持ってきたアイデアは天才的だ。
先週、France2でピェール・モロワの葬儀のニュースをやっていた。
嘗ての首相なので国葬級である。
軍楽隊が奏していたのがこのソナタの第三楽章葬送行進曲だった。
逝去した英雄を惜しむ悲壮で荘重な葬送の列。
チチオヤ(義父)は自分の葬式にモーツアルトのレクイエムを流してくれ、と言ってたそうだ。
なんという俗物性だろうか。アンタは一体J.F.ケネディのつもりか?
国葬級の大物ならば、そのような演出も必要だろう。
しかし、ここではちゃちい町のオヤジが、死んでも自分の知的見栄を押し付けようというのに過ぎない。
ホザナもサンクトスもアニュスディも、アンタには無縁の精神だったろうに。
まるで、自分の教え子に「仰げば尊し わが師の恩」と歌うのを強要するような、(無知ゆえの)厚顔さにも見える。
チチオヤの通夜には謹んで安谷屋武人の仏教合唱曲集を唱和いたしました。
私なら、ちょいとヒネってソナタ第2の第4楽章を流してくれと言いたい。見栄としては同じだが(^^;
わぁわぁ言いながら何のことやらわからず、意味もなく過ぎていった私の人生よ...。
しかし、葬式自体ばかばかしいのでできればやめて欲しい。
もっとも、残っているものの権利に属することなんで、私の死体なんてどう使用し演出しようが、我感知せず。
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結論を言うと、2日間で暗譜完了してしまった。
このオクターブ奏法というのは、案外小癪な人間生理に反する技術で、精神と肉体の完全な離反をアウフヘーベンするような、強引な快感がある。
左右の手というものは対称で180度向きが異なっているのである。
しかし、ピアノのオクターブは完全な相似運動を要求している。
左右の手指を完全に平行にコピーさせる運動は、人間を一歩機械に近づけるような、不自然だが不思議な律動を精神に与えるようだ。
完全に意味のない機械に還元されていく、引きずっている余計な私の人間性。
この単純運動を繰り返していくうちに、次第に無我の境地ともいうべきメカニカルな律動に支配されていく。
いつしか、私はこの不思議な単純作業にのめりこんでいってしまうのだ。
とか、文学的衒いの技巧を駆使するが、実を言うと曲の細部はそんなに無機質なものでもない。
12音ではないので和声感があるのは当然だが、細かい機械的なずりあげ転調で和声の色がつくのを極力排除している。
しかし前半のクライマクスでは長々と変ニ長調のカデンツに持ち込んだりしてたりする。
リズム・メロディもしかり。
やはり細胞レベルでは有機的な生命がうようようごめいているのが見えてくる。
だから暗譜もできてしまうのだ。
しかし、全体として同じ方向に向くことを極力避け、明確なメッセージ性を帯びるのを回避している印象だ。
こういう音楽が今は快い。
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奈良県合唱祭(6・16)では「野の羊」(大木 惇夫/ 服部 正)の他、「聞こえる」(岩間芳樹/新実徳英)を唄わされたのだが、後者はなんとも恣意的で支離滅裂なメッセージソングである。
詩も思わせぶりな類型的日本語でしかないが、曲がまったく詩とは無関係な独りよがりな(が悪ければ独立した)音楽的メッセージになっている。
好意的に解釈しても詩は「この混迷の現代をどう生きたらいいのか教えてほしい」という甘ったるい問いかけを投げかけるものだが、これを新実はオーバーな、第九交響曲並のドミナントモーションで結論し、高らかにうたい切らせているのだ。ハレルヤ!
そんな、決然と朗らかな詩かい!
おいおい、そこで 完結しちゃってどうすんねん? (新実<岩間)
ま、素性が中高生向けの曲なので、適当な素材として選んだだけなのだが、大の大人がこれを真剣なメッセージとして真面目な顔で歌っているのは苦笑してしまう。
まあ、いいや。
とにかく音楽的に割り切れた、わかりやすい曲想にしないと標準的合唱曲にはならない。
詩と、それを単なる材料に使った合唱曲とは別だ。(解ってますよ、新実さん)
で、合唱祭以降、次回からの曲がNHK復興支援ソング、かの「花は咲く」なのだ。
やれやれ、勘弁してくれよぉ!
その曲を歌わされるのがイヤで大阪の合唱団辞めたのに!
そんな明確な、甘ったるいメッセージソング、どんな顔して私に唄えというのか?
まあ、平気な顔をして、というかいかにも感極まったフリして唄いマスけれども・・・
一義的な解釈しか許さない、明確なメッセージ、その図太い無神経な「意味」が限りない違和感を抱かせる。
世界はそのように簡単で、そう決まっていて、それ以外にはない。
だとしたら、カラオケ演歌の方にしといたらいいのに。
まあ、イヤミが多いのは私の精神状態が良くない故なので我慢してほしい。
精神状態が良くないのは、そのような一義的で皮相的な世界感で周囲の世界が飽和し、すっかり追いつめられてしまい、私の居場所がないからでもある。
残念ながら、私は岩間芳樹の類型的な詩や、「花は咲く」というような皮相的善意ほのぼのソングの世界のウソが我慢ならないのだ。
君らにはこの阿修羅の世の実体が見えないのか?
いや、世界の見え方はそれぞれで、どう見えていてもいいのだが、しかし、それぞれ違ってはいるはずだろ?
世界に重層するエトスがあり、そのせめぎ合いのなかで自分の居場所を絶えず模索しなければならない。
そんな、全員が一致、一丸となって高らかに歌うほどの統一原理なんて私には全く見えないのだ。
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雨に降りこめられ、一個のセルに閉じこもり、すべての余計な感情を単純な生理運動に還元し、ショパンソナタ第二のプレストだけを数百数千回さらっている。
もう少しで私の本体を単純自動機械に還元できそうな気がする。
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