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![]() | ベルガマスク組曲(ドビュッシー)![]() |
[ピアノのお稽古] |
クライスレリアーナ(シューマン) |
2023/3/24(金)11:48 |
昨年より数か月かけてショパンのソナタNo.3の暗譜完了。 しかしテクニック的には不十分で完奏できない数か所が残っている。 運指メニューの後、第一楽章の展開部の入り、第三楽章の2ヶ所の繋ぎの経過句とコーダの突入部等をさらう毎日だった。 三月になり気温が上がり窓外の陽光が輝き始めたとき、”ふと”アレが聞こえてきた。 クライスレリアーナの第2楽章冒頭部。 ![]() そして突然私は第一曲のアレグロから終曲に向かって楽長クライスラーの後を追って行ってしまう。 そうか、とうとうアレが来てしまったか、今年は。 クライスレリアーナ、私の春鬱の気配。 狂おしい感覚の沸騰と闇に消えてゆくしかない老醜の自覚。 やるせない春の季節のばかばかしさ。 シューマンのやるせない自己陶酔。 この人のピアノ曲は破綻しまくっているのだ・・・ 谷内六郎が聞く春のオノマトピア ”ぼわりんぼー”(「遠い日の歌」) 中原中也のくらい時代の谷間をわたる”ゆあーん、ゆおーん、ゆあゆおん” 「四月は残酷な月」という詩句も。 すこし「春の小川」の唱歌の響きも含んでいるのだが。 それはもしかして単純なREPETITIONということであるのかもしれない。 ゆっくりと回帰してくる春と時代のぶらんこの。 やわらかい陽ざしが春を予告し、突然季節の感覚がたち戻る。 しかしもうそれは同じではない。 感覚の記憶は蘇るのだが、私はもう同じではない。 幾重にも春のおぼろ霞のヴェールをまとったような、ほのかな悲しみが透けて見える。 久しく”春鬱”と同定していたのだが、ここ数年は疫病禍や私の転居で再帰する気配はなかったのだ。 しかし今年、その”気配”がふとたち現われ、気がつくと私はクライスレリアーナを毎日さらうことしかできなくなっていた。 冬の緊張がほぐれ、気温がこわばった身体と精神をほぐす。 そのとき、こわばりにくるまれていた私の精神の軸芯がふとちら見え、それが相変わらず破綻したままの。 冗談のようにウソ泣きをしていると、そのまま涙がとまらないところにまで。 どこにも行くあてもなく、ただ彷徨うだけの春の彷徨。 ”流浪の民”と? 悲しみとその中のふとした甘美な憧憬。 私の春鬱のキーワードに”バカげた音を立て路面をきしませて近づいてくる赤手拭稲荷前の大阪市電”も昨年から加わって。 春の回帰、過ぎ去った、うんざりするよう膨大な時間のREPETITION。 (・・・む、ピアノの練習のことを書くつもりだったんだがな。) |
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