一所懸命は大家族制を生む. 一所懸命の未来
[一所懸命の日本] [時爺放言]

一所懸命の美学 一所懸命の日本(2)

2012/04/23
(2)一所懸命の美学
消費税率の引き上げや、年金の物価スライド引き下げがニューズになるたびに老人がインタビューされ、異口同音にこう言うのがレポートされる。
 
「われわれ年金生活者はもうやっていけない。」
「タダでさえ少ない年金なのに、どうすればいいのか困ってしまう。」
 
私も年金受給者なのだが、この人達の発言を聞く度に「ウソつけ!」といつも思ってしまうのだ。
給与所得よりは年金所得が少ないのは確かなことだ。
しかし、テレビのインタビューに答え、しっかりと反対意見を表明されている買い物中のオバさんはかなり裕福なように見え、とても困窮している風には思えない。
 
先週のNHKのテレビ番組で老人医療の問題が特集されていたのでチラリとみた。
老人の長期滞院が増えすぎるので、病院では病状が安定すれば退院させる方向になり、困っている老人所帯が増えているという内容。
 
ここで、困っている老人の例が放映される。
家の近所の病院を退院させられることになった患者(77)は、近隣の老人施設に入所できればいいのだが、費用が月18万かかる。しかし年金額は月15万なので入所することができない。
これまでずっと商売をし住み続けてきた都内にある近隣施設をあきらめ、隣県の施設に行くしかない。
テレビでは、この男性が車で施設に搬送されるとき、永年住み慣れた自分の家の前をゆっくり通ってもらい、別れを惜しむというような演出をしていた。
 
もちろん、これは貧しさ故に住みなれた自分のふるさとを離れざるを得ない、という「悲劇」を浮きださせる演出のつもりだ。
しかし、見ている私はこのようなばかばかしい演出にあきれてしまう。
理由はいろいろ。
 
1)月15万の年金受給というのは、決して少なくはない。都内での生活保護受給額は13万である。世界人口統計では全体の上位一割の中にカウントされる富裕層となる。
 
2)都内でずっと商売をしてき、また店舗住宅も所持している。この人の収入が現在年金だけであるにしても、不動産や動産資産がまったくないということは考えられない
 
3)今まで慣れ親しんだ地区の施設に入所できないので近県の施設に行かざるを得ない、と言う。しかし、自分の支出可能額に応じて居住条件を変更するのは当然のことで、都内居住にこだわる心情には自分の生活への甘えしか感じられない。
 
具体的な人物として例示されていたので、この個人の方に対してあまり厳しいことは言えないのだが、すくなくともこの方のケースを「悲劇」として見させるNHKのディレクターの感覚に私の憤りをぶつけることは可能だろう。
NHKというのは年金15万円が貧困としか見えない金持ちクラブ放送なんでしょうかね?
え?13万だっけ? ま、それでも私よりは多い。
 
「自分の年金ではもう生活できない。」
このようなウソを平気で公言される方を私は信用する気にはなれない。
このように言う人は、今まで現役で働いていたとき、一切貯金をせず、居宅も手にいれず、すべて消費してしまったのだろうか?
そんなに気楽な現役時代を過ごしてきたあげく、更に退職しては公的年金だけで生きていけると考え、老後について一切考えたことはなかったのだろうか?
夏中歌い暮らしてらしたのなら、今度は踊ればいかがでしょうか?
 
この人を含め、多くの年金受給者が当然の如く表明するこのウソは、実は自分の死期を定めていないということとも無関係ではないのだが、一所懸命の美学がその根底にあるように思う。
 
a) 備蓄の美学
 
一所懸命という生き方の基本では、土地や家屋、それに資産は代々残すものなのだ。
農村や大家族ではこれは自明なことで、一所に居続ける基盤は土地や家屋である。
このような資産は個人が勝手に処分できるものではなく、父祖から受け継ぎ、子孫に伝えていかなくてはならない。
先祖から引き継いだ土地を守ること。
これが自分の生き方の大前提であり、なにがあろうと死守すべきものだったのだ。
 
農村を離れ、都会で商売をするようになっても、このような一所懸命に生きてきた父祖の命脈が生きていると思える。
家、財産は残すもので自分で手をつけてはいけないものなのだ。
だから、生活費は自分の現収入だけでまかなわねばならないことになる。
 
一所懸命の美学からは貯金や資産に手をつけるのは反則ということにになるのである。
 
日本人の貯蓄率は世界一だそうだ。
ある統計によると一世帯平均1400万円の貯蓄。
あの77歳の男性の例でいえば、年金以外に後月3万あれば都内の施設に入居できる。
一年で36万、10年で360万である。
1400万のウチから360万ほど取り崩せば近所の施設で暮らせるはずだ。
 
しかし、貯金の取り崩しや不動産の売却を潔しとしない気質がここにあると思える。
貯金は万が一の不意の出費に備えるもの、と考えているのかもしれない。
つまり、貯蓄はハハオヤがスペース一杯に日用品を備蓄するように、常に存在していなければならないものなのだ。
しかし、老人となって施設に入居しなければならなくなった今がその77歳の方の「万が一の時」で、そのための蓄財だったと思うのだが。
 
私のように、残りの人生十有余年を過ごすのに過不足ない貯蓄ができたと判定した途端に会社を早期に辞め、想定死亡年齢でゼロになるように、ちびちびと備蓄をかじり食っているという生活様式では到底この一所懸命の美学にはなじまないのでしょうなぁ。
 
b)一所に留まる美学
 
先ほどのNHK番組の「あ、かわいそ」例ではもう一つの一所懸命の美学が強調されていた。
「住みなれた場所で留まる」という感覚だ。
 
これが昨年の震災では「住みなれた土地でがんばるしかない」というような言い方で表出されていた。
「ひとところでがんばる」という倫理的な美意識が一所懸命に内在するのは歴史的定義により自明。
 
「この土地ではもうだめだから、ヨソに移ってやり直す」という態度は一所懸命の美意識に反するのである。
自分のふるさとへの盲目的執着がこのようにして正当化され、自明のこととして報道されている。
 
住みなれた土地を離れる「悲劇」と言われても、本質的に故郷喪失者である私には持てるもののゼイタクな悩みとしか思えない。
私は自分に最適な居所を探し、または逃げるようにして転々と転居してき、結局転居歴14回。
退職してからは自分の年金額により、タイ、もしくはマレーシアで暮らすことを考えていた。
 
住みなれた故郷を離れるのはつらい、というのはそのとおりだろう。
しかし、そんなことは豊かな日本の農村出身者の甘えにしかすぎない。
食う為に、いかに多くの移民が自分の国を離れ、まったく未知の土地から出発しているのか、一度でも世界に眼を向ければ自明になることである。
 
「住みなれた土地を離れ、適切な生活を模索すること」という世界的にはごくありふれた人生の選択が、この国では同情すべき、この上ない悲惨な事態のように認識されているかのようだ。
このような単一な価値観へ全体がもたれかかっているという構図も見えてくる。
「一所懸命」の美学のもう一つの副産物として指摘しておく。 

blog upload: 2012/4/23(月) 午後 1:45
一所懸命は大家族制を生む. 一所懸命の未来