一所懸命の美学.. 一所懸命の復興
[一所懸命の日本] [時爺放言]

一所懸命の未来   一所懸命の日本(3)

2012/05/17
(3) 一所懸命の未来      
GW前のNHK特集だったが、「若者に生活保護が増えている」というリポートがあった。
インタビューに応じていた若者は、覇気が感じられないのはいたしかたないが、それでも日本語がちゃんと喋れている。
肉体・精神とも「まとも」レベルな若者と見えたのだが、都内で月13万の生活保護受給中。
そんなに不労所得もらってちゃ、再就職する気も萎んでいくんじゃないか?と思うのだ。
 
産経紙上で例の曽野綾子氏がまた(^^)「働かざるもの食うべからず」と、この現在を叱っていた。
「働かざるもの食うべからず」は聖書のことばだが、意味は誤訳されているそうだ。
「働こうという意思のないものは食っちゃいかん」というのが真意で、病気や事故等不可抗力で働けない方を叱っているのではないとの弁明付きだった。

私もイヤなのだが(^^;どうも曽野女史の感覚に近くなってしまう。
ただ、女史と観点が違うのは、私はキリスト者でも社会的に発言力がある者でもなく、ただのオッサンに過ぎないことだ。
滄浪の水が濁っているなら、どっぷり浸かりながらシリでも洗ってるだけの人である。

私は自信を持って言うが、今まで何等「社会的に意義のあること」をしてこなかった。
消極的にではあるがこの社会に加担し、テロも自殺もせず、おめおめと生きてきた。
だから私にはこの国の現在までを容認し、放置し、時に利用して、結局このようにしてしまった張本人である、という自責の念がある。
いや自責でもない。
別に曽野女史のように、この国の現状を批判するに足る高い理念を持っているわけではないのだから。
だから、この現状を叱ろうとすえば、先ず叱られるのは自分だろう。
私は社会を「叱れる」程に、常に良い子でいたためしはない。
 
ただ「それは違う」と、私の違和感をぶつくさ言っているだけで。
 
a) 一所懸命の過去 
明治以降の政府は貧民対策として移民策をとっていた。
国内で食えなくなったら、移民船でブラジルに行ったわけだ。
これが現実的には棄民政策であったのは明らかであるのだが。
 
しかし、当時の日本人は、お上が自分の窮状を救ってくれるとは誰も思っていなかった。
主権在民は、すくなくとも庶民にとっては、第二次世界大戦後に教えられた考えだ。
逆に、自分たちが一所懸命働くのは家族・地域社会、そしてお国のためだったらしいのだ。
一所懸命は、自分が帰属する集団の存続を図るということが第一義の理念だったわけだ。
だから労働と蓄財は自分のためではなかった。
この感覚により蓄財を個人で消費することへの心理的抵抗感が現在にまで至っているのだ。
 
この日本人移民達は新天地でも一所懸命に生きて働き、やがて財をなす人も出てくる。
高度経済成長期以前の私の子供の頃には、思いがけず大金持ちになる庶民の夢として「ブラジルの伯父さんの遺産が入る」というハナシが一般的に流通していた。
そのようにして財をなした方が、故郷に錦を飾るということもあったのだろう。
 

b) 一所懸命の現在
しかし今や国家は貧困層対策に移民船を用意することはない。
すべからく国民たるもの一人として棄民されず、生活保護が受けられるのである。
自分の国で生活の保障が受けられるという時代に、誰が移民なぞするものか。

世界規模で見ると、経済移民は今でも圧倒的に多い。
ヨーロッパでは出稼ぎ感覚で移民が行われている。
フランス大統領選挙での争点の一つは移民政策(対策)である。
韓国や中国の現在の繁栄の一部はアメリカに移住していった世代や、米国流の教育を受けたその子弟の還流が支えている面もある。
 
しかし、この国では困窮理由で海外に職を求めて移住する人は皆無のようだ。
まあ、私はその彼に移民せよ、とは言わないのだが、都内でくすぶって居ず、せめて農村に行き自足への足がかりを掴むべきだろうとは思うのだ。
 
総じて就職難を言う若者の、職業の選択範囲があまりに狭いと思う。。
食うためにどこにでも行き、何でもする、というギリギリの生を生きている様子には見えない。
一所懸命の伝統は職業と職域の選択の自由な可能性・流動性を阻害していく方向に働く。
親の職業を引き継ぐこと、自分に物理的・心理的に近しい職業だけを守備範囲とすること、そういう方向で。
 
現在、海外に移住するケースを考えると、食えないから、ではなく、優秀だから流出するということの方が多いのではないだろうか?
大学の評価である論文引用数で見ると、昨今の東大の凋落が明らかになっている。
優秀な人材は別に国内にとどまる必要はなく、自由に世界中の大学で学ぶことを選択できる現状の反映と見るべきだろう。
グローバリゼーションの流れは人的な交流も促進するのだが、あくまでこれは優秀な人間ならどこに行っても働けるということにすぎない。
 
現在、政府は子ども手当、児童給付?や何やかやで人口を増やせば何とかなるとする政策を取っている。
しかし日本の枠組み自体をどうするのかという明確なビジョンがないのに、中身の人口だけ無理して増やしてどうするというんだろうか?
人口は自然減に向かい、自らの自律作用により、必要十分にして妥当なレベルに落ち着くこうとしているのに。
 
確かに、20世紀後半の高度経済成長期の日本は、均質で優良な労働力を安価で多量に供給できたことが大きな牽引力だった。
しかし、今の世界情勢は当時とは全く違ってしまっている。
大中国の台頭を前に、安価な労働力の量を競争している場合ではないだろが!
労働者の数ではない。問題は質ですよ。
 
未に20世紀型の高度経済成長パターンしかイメージできない為政者には何も未来は見えていないんでしょう。
この過去の成功体験がその後の為政者の感覚を縛り、暗愚な選択しかできなくなる過去の事例を、この国はまた繰り返している。
司馬遼太郎は「坂の上の雲」で日清日露の成功体験を描いているのは、この警告を対比的につきつけるためだった。
 
c) 一所懸命の未来 
人口増で日本から溢れ、流出するのはどこででもやっていける「優秀な」層。
どうしょうもなくて日本に一所懸命しがみついているのは生活保護や何とか手当のような他力で生きている、ふやけた若者達。
少しでもまともに考え、演繹するならそのような未来しか見えないはずだ。
 
「一所懸命」は確かに農村国家の基本理念だった。
都市部でも理念は生きつづけ、年功序列型の雇用形態が経済成長期を支えた。
しかし、そろそろこの理念が裏目に出ている現状が見えてきた。
流動することを良しとしない社会になってしまっているのである。
 
日産はカルロス・ゴーンが経営を引継ぎ「一所懸命」の社員・役員を一掃した結果、今期の売り上げでトヨタを抜くまでになった。
 
生活保護を受給している若者達は、職を求めて海外に出るという選択肢を最初から持っていないのではないだろうか。
故郷に残ること、この場合は日本にしがみつくこと、それが当然と思われているのは、一所懸命の理念が裏打ちしているからなのだ。
 
国の本当の姿を見ず、単なる目先の人気とりだけの政策を発案するしかない為政者を、この国の多数が容認しているようなのだ。
おだやかな自然減ではなく、国の暴力的で急激な破綻がお望みなら、それもよかろう。
どうぞご勝手に。 
 
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前回「 一所懸命の美学..のb)で「備蓄の美学」を述べた。
蔵に物が詰っていてはじめて安心する、と言う心理を指摘した。
この補足資料があったので付け加えておく。
 
「年金水準は日本が世界一高い」にもかかわらず、
「現在の貯蓄や資産が備えとして『全く足りない』『やや足りない』と思っている高齢者が約半数にのぼり、米国、ドイツ、スウェーデンがニ〜三割であるのと対照的である。」
  データーは内閣府「高齢者の生活と意識(第4回国際比較調査)1995
                              「原田・鈴木 「人口減少社会は怖くない」より引用

blog upload: 2012/5/17(木) 午後 1:18
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