一所懸命の未来. ゆるぎない偽善の体系-仏
[一所懸命の日本] [時爺放言]

一所懸命の復興 一所懸命の日本(4)

2012/05/28
(4) 一所懸命の復興          
第一回で思わず「この一年の善意のお祭り騒ぎ」と失言してしまっている。
たぶん、こういうことを言っちゃいけないのだろう。
 
しかし、私にはこのような感想を口外してはいけない、と公然たる圧力がかかっていると思えたほど、世間が善意一色に染められていて、神経がまいっていた。
世間一般ではないのかもしれない。
少なくとも私が目にしたマスコミの報道、行政側の発言、ネット上の書き込み等と言うべきか。
 
私は善意を揶揄するつもりは全くない。
しかし、中に確実に混じっていた偽善は不快だったし、善意の行為に批判を許さない、とでもいうような、深みがまったく感じられない正義感に閉口していたのだ。
 
現地に金品は送付するが、しかし、自分の居住県が「がれき」を受け入れることには反対する。
それはそれでいいのだ。
しかしその程度の正義感で他人の行為をとやかくいうことができるのか?
 
どなたかが、「復興ボランティア」についての意見をネット上に書き込んでいた。
多少の批判も含む意見だった。
すかさず、という感じのタイミングで匿名のコメントが付いていた。
「そういうお前は何をした?」と。
 
また、自らが蒙った被害を理不尽に思い、その不条理を悪として糾弾し、条理を回復し、自らの感覚が蒙った痛手を癒そうとする、いわば悪は許さぬ風の絶対善の立場のような主張もあった。
しかし私はそのような善悪二元論には根本的な違和を感じる。
 
基本的に多くの被害者があり、それを気の毒に思い、支援をしたいという善意の人が絶対多数存在しているのだろう。
それについては私が何も言うことはない。
 
ただ、それ以外の感覚を持つ人もいるし、その人が自分の意見を公言できる雰囲気ではなかったのは確かなことだ。
「善意」や「絆」という心地よい響きがあり、少しでもその調和を乱す虞れがあれば排除される。
 
復興へ!という勇ましい掛け声に埋もれ、「もう、がんばれません。許してください。」といって自殺した方のニュースは何のフォローもなかった。
 
「地元でがんばる」風にたくましく再生する被災者を支援する報道は毎日あったが、被災地を捨て、新たな土地に移住していった家族の事後を詳しくフォローする報道はなかった。
 
多くの善意のボランティアの活動が報告されたのだが、現実に死体を見、意識を混乱させ、鬱に陥った方に関する報道はなかった。(←これは現地ボランティアからの実際の伝聞である。)
 
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■『ETV特集』失われた言葉をさがして 辺見庸 ある死刑囚との対話
2012年4月15日(日)22:00〜23:29(NHK Eテレ)
作家辺見庸と死刑囚大道寺将司との文学的交流を描いた番組だった。
辺見が震災後の故郷石巻の報道に接する度に感じる違和感を言ってたのが印象的だった。
報道される石巻はどこか本物ではない、うすっぺらいものに思え、この一年、故郷を再訪する気にならなかった、という。
しかし、その部分では奇妙に言いよどみ、真意は定かではない。
私は報道される石巻がメディアによって演出され、作られたイメージにしか過ぎないという嘘くささを言っているように思えたのだが。

◆中央公論 5月号
時評2012 ・震災「当事者」が語り始めるとき 上田紀行(文化人類学者)
・・・
「それらの場で発せられ、聞かれた言葉ひとつひとつの重みに比して、おびただしく世間に流通した『がんばろう』や『絆』の何と嘘くさかったことか。」
・・・
「そもそも『がんばろう』は誰が誰に対して発している言葉なのか。『絆』を本当に求め、守る覚悟があるのか。
そこでは言葉に付随した切実な関係性が切り落とされ、くちあたりのいい言葉が一人歩きをしていた。」
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いずれも最近目に付いたものだが、発言する立場は夫々私とは異なっている。
しかし、日々繰り返される紋切り型の掛け声のような報道や、伝えられる声のあまりに表面的な表現への違和感の表明であることに、私は深く同意する。
 
昨年、ヨメは外なる不条理を修復すべく東北に行き、私は内なる不安に駆られ「外に自閉」しに行った。
震災という「不条理」が自分の外側にあり、修復すべき対象なのか、それとも内側に存在し、専ら自閉し、やり過ごすしかないものなのかの違いに思える。
 
しかし、ここでは震災報道一般への違和感を詳しくは述べない。
 
まず、感じる違和感は、どうしてそこまでして「復興」しなければならないのか?という疑問だ。
 
a) 復興への違和感
報道論調も地元の方々のインタビューでも「復興」が当然の如く、あるいは規定の使命のごとく「無条件的に」与えられている行動指針のように語られていた。
どうして、壊滅的被害を受けた土地を「復興する」ような、コストパーフォーマンスに欠ける方策が、そのように美談であるがごとく報道されるのか、私には理解できない。
地方行政当局や大地主であれば、復興には利害が直結しているのだが、報道される一般的な方々は平均的な勤め人であり、漁民である。
 
私は元より土地資産も、守るべき家もない。
会社が倒産すれば、新たな職を求めて新しい天地に移動していくのが当然の感覚だ。
また、自分の職が利益を生まないのであれば新たな職種を模索しなければ生きてはいけない。
基本的には「会社員」であったが、それ以外にも自営職を数種経験している。
 
しかし、報道で取り上げられる人達はそのようには考えない方ばかりのようだった。
災害にも関わらず自分の居所を守り、元通りに復興させねばならない、と言う。
そのように行動する人達だけが報道され、しかも美談として扱われているようだ。
 
元来、自然災害や大きな社会の変動に連動し、我々個人の生活形態も流動的に対応していくのが当然だと私には思える。
しかし、この土地への執着、故郷への帰属意識の強さはどういうことか?
「一所懸命」という理念が基本的な生き方を示し、それを遵守することが称賛されると考える他はないのではないか?
 
b) 一所懸命が閉ざす精神
84歳になるハハオヤ(義母)は、老化とともにますます頑迷さを亢進させている。
この人には生涯を通じて換わらない一方的な(unilateral)価値観があり、僅かたりとも揺るぎは無い。
中身は兄弟親戚との、金銭的扶助に換算される繋がりと、盲目的な農村的慣習の踏襲である。
この「一所懸命」の生き方には、身内との絆を深めたり、自分の生活サイクルを安定させ、自分が育ってきた精神的な環境を保全するという精神的なメリットがある。
 
しかし、こういう居心地のいい自分の心理的な平安にあまりに慣れ過ぎてしまうと、精神の柔軟性を失い、他の考え方があるということが理解できない状態になってしまう。
 
このような精神の閉鎖性をもたらすことが、私の「一所懸命」的人生観への最大の懸念である。
 
昨年の震災に関する報道の一面的な論調に、私はハハオヤに対して持つ無力感と同種のやりきれなさを感じてしまったのだ。
何を言っても、その真意を吟味されることはなく、ただ反発と糾弾だけが返って来る、というような。
 
「善意」や「絆」というキーワードを掲げれば、何の検証もなくただちに第一等の効力を発揮し、その意味は誰にでも明らかであるという、一方的な価値判断が報道の論調に見え隠れしている。
「善意」というレッテルさえ掲げておけば、被災者のプライバシーも、騒ぎ立てられたくない、という事情もすべて考慮する必要はない、というような。
毎日海を見に来る遺族、苦労して再び手にいれた漁船、人々の善意で開店にこぎつけた復興食堂・・・
 
この一年、全国版のニュースとはとても思えないことが毎日のごとく報道されていた。
いくら大きな災害だったとしても、他人のプライバシーを「大声で」聞かせられたくはない。
しかし、大多数はそのような個々のプライバシーを見聞することが、「善意」と「絆」の中身であると信じているのかもしれない。
 
「一所懸命」を理念とした社会は、絶えず移民と混ざり合い、せめぎ合う文化や宗教、価値観で争い、調停し、協働して社会を創って来た多くの西欧諸国の例の、対極に置くべき社会というべきだろう。
 
「一所懸命」を理念とする共同体の中では、大家族制が発達し、各自が殆どおなじ価値観を共有していたものと思われる。外からの情報もなく、外に出ることもなく。
必然的に一元的な価値観がいきわたり、個人の世界観の差異は可能な限りミニマムになっていくだろう。
そして「村八分」に象徴される極端な異分子の排除に繋がる。
そのような日本の歴史的な経緯が、未だ現在の状況の裏側に見えている。
 
ゆるぎない自分の考え方を貫き、日々を生きるのは当然のことだ。
しかし自分とは違う、別の考え方を持つ人もいる。
他の考え方を持つ人を排除せず、共に生きることができる社会を望むのみだ。
 

blog upload: 2012/5/28(月) 午後 3:42
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