一所懸命の復興 | ゆるぎない偽善の体系- 仏 |
[一所懸命の日本] [時爺放言] |
ゆるぎない偽善の体系 - 仏事(1) 一所懸命の日本 附記1 |
2012/06/04 |
昨日、久しぶりに私の兄弟内揃い母親の23回忌の法要を長兄宅で行った。
参加者は誰も明示的には仏教徒ではなく、ただ自分が所属する社会の一般的な慣習に従う形で催され、それなりの適当な意義をくっつけて参集する。 故人の供養をするということが本義であるはずなのだが、今ではそれが集会の名目に過ぎない、ということをわざわざ指摘すると大人気ないといなされる、いわば公認のウソにもなっているような有様でもある。 私自身「供養」という意味もよく分かっていないのである。 故人に対する「感謝」の念を新たにする為なら、別にそのような形で他人に示す必要はない。 各自が自分の心の中で行ってもいいはずだ。 当日も参加者から感謝の念は別に確認できず、僅かに「あまり出来た母ではなかった」という話が披露されたのみだった。
私自身も既に思春期でかなりの問題児であり、「何故私を生んだ?」と問い詰め、人としての不条理感を母に背負わせてしまっている。
もちろん、今ではこの内在する癌細胞のような生きている苦しさを母の所為にすることはもうあり得ない。
しかし、「生んでくれてありがとう」というような清明な感謝の境地に至ることもない。 要するにただ生きて死ぬだけのモンだ。
どんなにカッコつけても。 ま、しかし、このように長年の慣習を利用し、日頃疎遠な親族関係相互の情報更新の機会としてこのような仏事という集会が利用されてきたのだと思う。 しかし、今回のように親族の最新情報を更新する代わりに、暫く忘れていた長年の嫌悪や恨みを再更新するだけ(笑)、という状況に至ってしまえば、自分で塗りつけた意義の上塗りもハゲてしまい、この「公認の偽善」を大人気ないといわれようと、ここでの一連の議論の中の例として怒りに満ちて今回ここに取り上げなければならないことにもなるのだ。 元来、私は他人とは一切関わらないことで心の平安を得ていた。 ハハオヤ(義母)の関係からくるヤツも含め、仏事という日本の慣習が、今や私の平安を暴力的に脅かす最後のこの世の悪意となり、既にカウントダウンに入った人生を追い詰めてくれるのである。 ---- 改めて思ったのだが、この国の仏事というのは驚くべき偽善のゆるぎない一大システムである、ということだ。 1)香前額 法事の案内があってから、ヨメと手分けし、香前の相場を調べた。 ハハオヤが常にいう「アソコは・・円しか包みよれへんかった。もう何もせんでええ!」とか、「葬式代、自分は何も出さんと!」とかいう馬鹿げた「金額=誠意」式を思い出し、うんざりする。 本来、「心ざし」ということで金額の多寡の問題ではなかったはずだ。 しかし、実際には世間相場というものがあり、インターネットでも23回忌では幾らと、調べがつくことになっている。 香前の公然たるウソ。
金額のことは誰も言わないのに、裏では必死で計算をしているのだ。
失礼にならないか? 他と比較され、少ないと酷評されてしまうのではないか? あるいは、坊主の支払いその他に足が出ない、トントンの額を徴収したいが、そのくらいの額を察して持って来い!云々。 では主催者は会費制にし、香前は一人1万円と明示すればいいではないか。 それとも、「香前の類は無用に願います」と度量の深さを示すか。 それ以外は「幾らでもいい」といいながらその実、参集者の社会性・常識のレベルを試しているような偽善に見えてしまう。 2)正座
坊主が読経を始めてから、あらためてたたみの上の法事のつらさを思い出した。 もう正座で30分は持たないのである。 しかし、誰も正座を崩さないので必死で足の痛みや変調をこらえる。 こうなってしまうと、故人の供養を念ずるどころではない。 どうでもいいから、早く終わってくれ!とただ無心に祈るばかりで(笑) 終了後、やっと胡坐(あぐら)をかいて足を解すのだが、多分胡坐で30分でも今度は背中が痛くなるのだろう。 もちろん余裕がなければ足を崩してもいいのだろうが、決して正式とは見なされない。 では、法事には絶対に正座しなければいけないのだろうか?
別に仏教の本義に正座は何の関係もないのである。 言うなら葬式・法事等もそもそも仏教の本義とは何の関係もない。 むしろそのような祖先崇拝や同族意識のような係累への執着を釈迦は断ち切るわけで。 むしろ、正座の根拠は江戸期の封建制主従関係に関連して発達したようだ。 で、法事の正座が一般化するのは明治に入ってからのことだという。 法事の座で脚をくずしても宗教的には何も非難される理由はないのである。
これはむしろ、共同体の中の慣習に抵触するということなのだ。
慣習を守れないヤツと非難されるかも知れないが、故人に失礼とされる謂れは少しも無い。 慣習と言ったって、もうウチでもお宅でも正座の習慣は日常ではとっくに無くなってしまっている。 むしろ、そのようなつまらん非難をする人こそ尊大で、仏法に大きく外れているのだ。 心の中でその矛盾を笑ってやればいい。 中身よりカタチの整合性を尊ぶこと。 何も考えず、ただ与えられたカタチを踏襲することに全力を傾注する。 これが「一所懸命」の理念にほかならない。 そのような努力主義、いいかえれば手段を目的にすりかえ、本義が何であったのかを問わないこと、が我々の社会では善しとされている。 フランス人のPourQuoi?病(いちいち原因を問わずにはいられない病)の対極にある軌範といえるだろう。 個人的には正座姿は美しく、場所も塞がないので嫌いではない。 だから、当初は正座で慣習に敬意を表し、脚が疲れてきたら胡坐に組みなおすのが実質的だろう。 実際はヨガでやる只管打坐の略式の半掛けが楽そうだ。 我々の日常では既に正座の習慣はなくなっているのに、未だに法事では正座をせよと強要するなら、それは立派な偽善に他ならない。 釈迦はそのような人としての傲慢さをいさめたのだ。 blog upload: 2012/6/4(月) 午後 7:14
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