ゆるぎない偽善の体系-仏 (1)裁判員に裁かれたくは
[一所懸命の日本] [時爺放言]

ゆるぎない偽善の体系 - 仏事(2)  一所懸命の日本 附記2

2012/06/07
3)読経
真言宗の経文は全て和訳ではなかった。
浄土真宗では和賛も読むが、それとて現代日本語ではなく、殆ど意味不明である。
 
各派共通して採用している般若心経なら、私にも意味が解る。
しかし、この僧侶は漢文(呉音)の分節からいうとめちゃくちゃな区切りで読んでいる。
僧侶であるからには意味は知っているのだろう。
しかし、これを意味のある言語として読み、説こうとしていないのは明らかだ。
知ってはいるのだが解ってはいないということだ。

私は今まで仏教、特に真言宗には呪術としての側面が強いことを考慮し、ある種の呪文として、こういう意味のないメッセージを宗教の属性として許容していた。
しかし、先ほど正座の由来を考えていて、この日本仏教の読経法こそ、人間精神の退廃故のゆるぎない偽善の根源を示すものではないのか、という大きな疑念に突き当たった。
 
もう私には失うものはない。
実はあるのだが(笑)、すくなくとも日本仏教全体、その欺瞞を疑いもせず、あるいは「必要悪」として信奉し「一所懸命」私を苦しめるだけの機能しかしなくなったその偽善性に、私の怒りをここに公にすることに何も恐れるところは無い。
 
あなた方は仏教の本義が何なのか少しも解っていない。
大いなる偽善の体系をそのまま信奉しているだけなのだ。
参集の機に、ただ不可解な経を読むだけで、その意味も意図も説こうとはせず、法話もなく。

「解らないからありがたい」とでも言うのだろうか?
少なくともそのような詐欺商法まがいの大衆意識操作を放置していて平気なのか?
現にウチのハハオヤは夫の葬儀で、読経時間が短いのはお布施をケチったから、とか言う人だ。
経文の内容はわからないのだが、長ければ長いほどありがたいと受け取っている。
クラシック音楽に対する、解らんから高尚だ、というような一時の風潮も思い出したが、これは別の話。 
 
キリスト教でも典礼文の多くはラテン語である。
しかし、少なくともミサで唱えられるラテン語の経文を会衆は周知し、唱和もされる。
 
ルター(1483-1546)は自らの信仰への確信に基づきカトリック教会の圧力(異端審問・破門)を恐れず、宗教を改革する。そして、新旧の聖典を当時は俗語と見なされていたドイツ語に翻訳する。
これにより新しい教会システムを普及させただけではなく、近代ドイツ語そのものの成立にも寄与する。
宗教とはそのように社会や文化とを推し進めていく人類史的規模の力を持つ。
西洋音楽におけるおびただしい宗教曲のレパートリを見よ。
古代ギリシャ語のグレゴリアンチャントとともにラテン語の典礼や現代語のミサや賛歌が重層し、現代を長い伝統に絶えず付け加えている。
 
いかにして神の言葉を人びとに伝えるか、この努力が宗教家の使命ではないのか?
どうして日本の僧侶は経文の意味を衆参人に伝えようと努力しないのか?
蓮の上でただ座り微笑するだけの境地に至るのは、言葉による伝導の努力を重ねて果たしてからのことだ。
 
アショカ王が編纂したパーリー語やサンスクリットで書かれた聖典を玄奘三蔵が中国に持ち帰り、竜樹(ナガールージュナ)が中国語に訳する。
しかし、それを持ち帰った空海(774-835)や最澄は和訳を施すことはなかった。
釈迦の哲学を伝えることより、呪術としての神秘性を布教の売りとしたのである。
以降、日本の仏教は経典の解釈は比叡山や高野山中で伝える秘儀となってしまい、大衆信者がアクセスできるものではなくなった。
 
時代を経、親鸞(1173-1262)が現れても、一般信徒には専心念仏だけをいい、経文の内容を日常日本語に翻訳し、教導する道を取らなかった。
理解する必要はない。ただ無心になりさえすれば。
ウソも方便、の「方便」とは仏教用語である。
時代を考えると、大衆に釈迦の世界観を子細に教導する無理をせず、ただ念仏するという信仰の形を創出したのは時期を得た戦略だったかもしれない。
 
しかし、以降一千年規模の長期間、その教団はずっと同じ教義や教導法を繰り返してきただけだ。
平安や鎌倉時代の精神や文化が現在とどれほど経だたっていても。
「一所懸命」の日本に胡坐(!)をかき、伝統の形だけを保存してきたのである。
大乗という方便をいつまでつづけるつもりだろう。
もしかして、それが方便であることさえ忘れ果ててしまっているのではないのか・。
 
伝統をいうなら、あなたがたは布施を求め、戸を叩いて歩いているのか?
町に出、辻で説法を行っているのか?
中身の経典をホルマリン漬けにして展示し、見物料を稼ぐという愚劣なシステムにしてしまっているだけではないか?
 
僧侶なら法を説け!
 
空海や親鸞は時代の精神に仏教を広めようとしたのだ。
その時代に法を説き、人を救うにはどうしたらいいのか、という使命感から既存の宗教を革新していったのだ。
 
その弟子を自称する僧侶達は、この千年の時の変化にもかかわらずただ同じ教導を繰り返してきただけなのか?
誰も宗派の経典を時に合った日本語に訳し、同時代の人びとに法を示そうとは考えなかったのか?
 
供養される亡母にもわからず、衆参する我々にも理解できず、ご自分でも解っているのか定かでない経文を唱え、それで4万円の時間給を得る、この現実を自らの宗教者としての欺瞞と感じないなら、そのような仏教など害悪でしかない。
少なくとも私の関わる範囲で、現実にはそのような結果しか生んでいない。
 
学問では原典主義という考えがある。
翻訳では真意がわからないので、原語を尊重し、やたらと翻訳に頼らないという立場である。
しかし、現在仏教で唱えられている経典は殆どが先人が苦労して翻訳したもので、原典ではない。
少なくとも原語は中国語ではないぞ。
あなたの読んでいた経文はすべて漢文、もしくは音訳漢字ではないか。

原典主義としても全く支離滅裂で意味が解らない。
結局、あなた方は会衆に意味を知られたくないのか。
それともあなた方自身も経典の意味を知らないのか。
 
4) 儀礼仏教
このおびただしい仏事の儀礼は、一切釈迦が説いたことではない。
 
聖パトリックがアイルランドを教化する手法として土俗の習俗や信仰を取り入れたように、当初、私は仏教が日本の中世の習俗をインテグレートしてきたのだと考えていた。
しかし、そうではない。
むしろ「一所懸命」の、日本の農村が保守してきた素朴だが強固な精神の方が仏教を取り込み、先祖崇拝や血縁共同体の利益保全の道具にしてしまったのである。
 
空海や親鸞が天才的な宗教家だったのは、全ての執着を捨てよ!という釈迦の悟りをその時代の精神に適合させる卓抜な方法論を創出したからだった。
 
釈迦は全てを捨てるように諭しただけだ。
呪術に頼ることも、アニミズム的な祖先崇拝をいうこともなかった。
むしろ自身はすべての身分・血縁・財産、いわばこの世の係累を全て捨て、裸になって自分という存在と対峙したのである。
 
日本の仏教僧侶は始祖が方便として提出した巧妙な思索手段を一度もアップデートすることも、その才も志もなく、「一所懸命」にただ繰り返してきただけだ。
この一千年間、始祖の方便に盲従し一人のルターも出せず、ただ一所懸命の相続争いをしていただけというのか。
これを虚論と断ずるなら、この私に見事仏罰当ててみよ!   (^^)

 
私は2004年にタイに行き、一心に仏像の膝元にすがり、無心に祈る人々を数多く見た。
野外で大らかに微笑む仏像を前にし、そのやさしさにぼうぼうと涙が噴き出てきた。
無限の慈悲の気配。
異国の仏教寺院で私は自分の迷いを許された。
信仰は人の苦しみを救えるのだ。
しかし今、この国の仏事の諸相は私を苦しめているだけだ。
 
とっくに捨て去った国の不可解な習俗の、捨てても追いかけてくる暑苦しい血縁の絆の、自分の秩序だけを存続させ異分子を排除する、「一所懸命」のユニラテラルな価値観の、ただの口実・道具としての仏法。
 
どうか、真摯な仏教僧侶がいたら私の疑問に真剣に応えて欲しい。
実相がこのような支離滅裂なことになっているのに、どうして仏事という慣習が未だに生き残り、それだけの強制力まで持っているのか?
 
この虚構の儀礼を仏教の名のもとに放置し、私利搾取の一大システムとして真の法を隠蔽する日本の僧侶達。
オウム事件は正に自分達の偽善と怠慢が引き起こしたものである、とここに正覚せよ。
 
公然のゆるぎない偽善の体系。
 
もう沢山だ。
この茶番に付き合う気は失せはてた。
どうかもう私抜きでやってくだされ。

blog upload: 2012/6/7(木) 午後 1:08
ゆるぎない偽善の体系-仏 裁判員に裁かれたくは