ゆるぎない偽善の体系 裁判員ができるのは罪を酌量す
[罪刑法定主義とは何か] [時爺放言]

裁判員には裁かれたくはない  
   罪刑法定主義とは何か(1)

2012/02/27
近頃気になった裁判沙汰のニュースが数件ある。
 
それに、先週放映されたNHKあさイチで特集していた出会い系詐欺サイトの話。
出会い系詐欺サイトでは、かつては男性相手だけだったのが最近では女性の被害者も増えてきたというので、主として主婦層相手の朝番組で取り上げたようだ。
自由意志で交際を申し込んでいる会員を装うサクラを使った手口で、振り込め詐欺同様騙される側のガードの甘さをつく知能犯である。
一般からのFAXで、こういうサイトに引っかかり5000万もの金をつぎ込んだという女性の事例が報告され、唖然としたものだ。よくもまあ。
で、私はどうしてもこの女性の被害に同情の念がおきないのだ。
むしろ、こういう詐欺師達に感じる、平然と社会に向かい自分の狡知を誇り、何事かウソぶいている現代のラスコリニコフの姿に密かに、あっと、こういうことを言っちゃいかんのだな。あぶないあぶない。
 
しかし、この話題は後回しにする。
 
 
(1)私は裁判員には裁かれたくはない。
裁判員制度が発足するとき、人を裁くことへの躊躇戸惑いの表明は多数あった。
しかし、一般市民.素人に裁かれることの恐ろしさや不信を表明した、裁かれる側の意見がとりあげられたことはなかった。
マスコミが取り上げる一般市民像に見るかぎり、自分はあくまで裁く側の人間で、裁かれる立場で考えることは一切ないのが普通の人というものらしい。
 
私はこの時点で普通の人ではないおそれがある。
私は日常生活上の人間関係諸問題で被害者にもなるのだが、気がつかないうちに加害者になっている場合も多い。
私の善悪・好悪の基準は少々標準よりずれていると、客観的に知ることが多い。
例えば、最近記事にした「オークワ・アルカリイオン水症候群」の群れに入ると確実に私は異端・悪者になってしまう。
これはあくまで日常的なモラルや社会常識という範囲での言動の話なのだが、そのような私の性向からか、新聞で報道される刑事事件の被害者よりも加害者側により感情移入してしまったりすることも多い。
 
 ある朝突然 見知らぬ神の前に引き出され
 見知らぬ罪に問われ 死罪をいいわたされる
      (hemiq 1971)
 
これはカフカの作ではない。私はいつもそのような不安を抱えて生きていた。
 
いつの間にか裁判員制度が始まってしまい、そら恐ろしいことになってしまっている。
自分とは違う感じ方をする人達、つまりはオークワのアルカリイオン給水機に並んでらっしゃるオッサンオバハン達にも私は裁かれなければならないというのだ。
 
裁判員制度を導入した主たる理由が一般市民の感覚を裁判に生かすということだったようだ。
専門の司法家の感覚が一般の市民感情と乖離してきた、ということだったか。
 
しかし、それは司法の自滅宣言であるということに法曹自身気がつかないのだろうか?
 
私刑や主観的で一方的な刑罰を避けるために法律で罪と罰をあらかじめ定め、そして誰もあらかじめ法律によって定められたことでしか罪に問われることはない。
このことが法治主義の精神であり、あらゆる価値観が交錯する社会で、ただの一人であってもその個人の社会的権利を守る最低限セキュリティシステムだったはずなのだ。
この罪刑法定主義が機能するかぎり、社会の空気がどのように変化しても私は自分を守ることができる。
私は自分の言動を法に準拠させることに留意することで、「見知らぬ神の前に引きずり出される」不安から逃れることができるのだ。
 
裁判員制度はこの罪刑法定主義の精神を真っ向から否定する。
時流に応じ、「一般市民」の感覚で裁くのなら、それは法治国家ではない。
もとより法は万全ではない。
制定されてから時が経るにつれ、社会の空気に合わなくなってくるのは当然だ。
だからといって法律の運営を時の社会に合わせて修正してはいけない。
むしろ時流にあっていないということが法律の正しさを保証する。
言い換えれば法律は、可能な限り不変でなければならない。
 
時に応じて改変するようなルールを法律と呼ぶことはできない。
法治国家とは、国の基本方針が普遍であると宣言する国家のことである。
 
時に合わなくなれば法の精神を解釈し直し、運営面での処置を柔軟にするのは実用的に見えるのだが、こういう法の便宜的拡大解釈が法を蝕んで行く。
法律は正統な手続きを得て改正しない限り常に厳格に適用しなければならない。
 
私のような性向を持つものには他人の倫理感覚が理解できないことが多い。
善悪について他人と合意に至ることは非常に困難である。
私の言動が他人を傷つけ、あるいはその逆に傷つけられるというケースがあまりにも多い。
しかし、そういう少数者でも多数者の恣意的感覚ではなく、法として明記されたルールのみによって裁かれることが保証されているので、安心してこの社会で生きていける。
例えその法の意図が理解できなくとも、前もって示されている条項を学ぶことができれば、尊守することは難しくない。
 
法の下ですべての国民が平等であると謳う憲法を制定している国に私は生きているのである。
法律だけを根拠に、法解釈の専門家の手で私を裁いてもらいたい。
その結果死罪をいいわたされても、私はソクラテスの死に甘んじよう。
それ以外のどのような裁判も私は認めない。
 
「一般市民」である裁判員に裁かれることが、私は本当に恐ろしい。
 
 
追記)
無作為に選ばれた裁判員なんだから、まさかオークワのアルカリイオン水症候群やその気のある人だけが裁判員になっているわけではないだろう?と反論する向きもあるかも知れない。

無作為に抽出すれば、平均すると「一般市民」になると思いますか?
 
昨日の新聞のニュースにこういうのがあった。  
 大学生4人に1人、「平均」の意味理解せず
 日本数学会 中央値や最頻値との誤解めだつ 

2012/2/24 17:日経 

無作為に抽出されれば「一般市民」平均以下でも大学には行ける時代である。 
「一般市民」なんてそんな「完璧な方」はどこにもいない。 
それぞれの異なった意見を持つ個人がいるだけだ。 

裁判員制度というのは、このような下側四分の一程度の頭脳が考える世界にだけ成立するイリュージョンだね。 
いずれにせよ、コワイ世界になってきたものだ。  

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