裁判員には裁かれたくはない 人ではなく、罪を裁け
[罪刑法定主義とは何か] [時爺放言]

裁判員ができるのは罪を酌量することだけ
    罪刑法定主義とは何か(2)

2012/02/28
(2)
前項では思わずガチガチの法万能主義者のようなことを書いたが、あれはウソ方便です。
法は厳密に適用し、一切の拡大解釈や柔軟な運用を認めない、なんて痩せたソクラテスみたいだが、実は私はせいぜい半額のブタというところ。
 
法の杓子定規な適用は警察国家化という、これまた恐ろしい事態を招く。

一昨年、大阪府富田林市国道309号線で大阪府警機動隊員山田君にスピード違反で検挙されたとき、私は法万能主義を戒め、時流に合わない法は運用面で柔軟に処置すべき、とヌケヌケと書いているのだ。
      「謙虚になれないスピード違反検挙」
これは法を杓子定規に適用し、意味もなくいたずらに検挙実績を上げ、年末のボーナス査定を有利にしようとする大阪府警機動隊員山田君の、私の質問に教条的回答しかしてくれない不実な態度に怒ったものだ。
ま、でもどんな職種でも成績を上げようとする努力自体は、私は同感し積極的評価します。
ただ、この場合、努力の方向が私の利害と逆向きだっただけで。
 
私が法の適用を厳密に行え、というのは「法に明記されている以外で罪に問われることはない」という罪刑法定主義の必要条件を強調したまでで、十分条件までは含まない。
つまり、私は「法に明記されていても罪を問わない」ことを排除しているわけではない。
ソクラテスじゃあるまいし。
 
前回では裁判員制度の主眼である「一般市民感覚」というものを正当性の根拠とする恐ろしさを述べた。
「この犯人には、法律専門家はしっぺ刑が相当というが、それは許せん。こういうヤツは死刑にしてしまえ」
という方向で、「一般市民感覚」なるものを尊重しないでいただきたい。
 
むしろ、裁判員制度で「一般市民感覚」というものが生されるとすれば:
「法律上は死罪になるが、今の社会の現状ではやむをえない行動と思える。しっぺ刑に減刑してください
というように罪を軽減する方向で、このような個人の感覚を生かしてほしい。
この場合なら別に「一般市民的感覚」というあやまった平均値に捉われることはない。
自分の個人の意見としてしっかりと裁判に生かせていただければいい。
 
人が人を裁いてはいけない。
人は人を許して欲しい。
それぞれが違った人間で、それぞれが違った感覚や思いで生きている。
私たちにできることは、他人を自分と違うからと糾弾することではなく、自分と違う他人を何とか理解し、共存する方向を探ることだ。

 
下の裁判はどうだったのか?
裁判員裁判で初の死刑判決】2010年11月
【神奈川新聞の社説】強盗殺人罪などの罪に問われた被告に、横浜地裁での裁判員裁判で初めて死刑判決が言い渡された。裁判長が被告に極刑を告げた後に控訴の申し立てを勧める極めて異例の展開。

「死刑判決という重大な選択を迫られた裁判員の「心の叫び」を代弁したのかもしれない。」と神奈川新聞は推測している。
 
守秘義務のため経緯は解らないのだが、これは裁判員が法に基づき死刑を選択したということらしい。
死刑マニアがいて、声高に他の裁判員を牽制し死刑を確定させた、ということではなかろう。
↑このようなことをイヤミで書いているのではない。「裁判員になったら、すべて死刑にしてやる」と公言する人がヨメの会社にいるらしい。自分が裁かれる側になる可能性は絶対ないと、どうして解るんだろう。この人もいつかは裁判員に任命されるのか。一般市民の方ですからね。
 
現在、日本の「一般市民」の八割が死刑の存続を望んでいるという。
しかし実際に自分が他人を死刑に処するという場面を考えた結論ではないようだ。
 
本当にあなたは自分が他人を裁けると考えているんでしょうか?
人間を量ることはそんなに簡単なことでしょうか?
 
悪いことは言わない。自分で裁こうとしてはいけない。
私たちが個人的にできることは、ただ他人を許すということだけだ。

尚、死刑制度については別の項にまとめることにする。

blog upload: 2012/2/28(火) 午後 1:53
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