裁判員ができるのは罪を酌量す | 人間の意識は裁くことはできな |
[罪刑法定主義とは何か] [時爺放言] |
人ではなく、罪を裁け |
2012/03/01 |
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先週、18歳に達したばかりで最年少の加害者に対する死刑判決が出て新聞ダネになった。 裁判では年齢もさることながら、被告に精神的に刑事責任を問えるかどうかも論点になっていた。 宮川裁判官は「精神的成熟度が18歳を相当程度下回っている場合は死刑回避の事情があるとみるのが相当で、審理を尽くす必要がある」と主張。これに対し、金築裁判長は補足意見で「精神的成熟度を判断する客観的基準があるだろうか」と疑問を呈し、死刑を支持した。(毎日新聞【石川淳一】) 死刑制度の問題は別項で取り扱うとして、「刑事責任」とは何かを理解したい。 たぶん、社会を構成する一員として、その社会が定めるルールを尊守する責任と解していいだろう。 だから子供や、それに準じる者には社会の構成員たる資格を問えないというところか。
よく「犯行時、心身喪失状態で刑事責任を問えない」という弁護側の主張があったりする。
これは明らかに被害者にとっては同じで、「悪気があってもなくても」足を踏まれた痛みは変らない、と私は思う。 しかし、「過失なら許す。しかし悪意で足を踏まれたのなら許さん」という心情も反映してくるようだ。
つまり、刑事責任というのは被害者側の報復という心の問題にも絡んでくる。 加害者の更正への教導という教育的意味での刑罰に関係し、「自分の行為が社会のルール違反である」ということが認識できない人に罰を与えても意味がない、とも言う。
裁判では「報復」と「教育」という両面から刑事責任の重さを量るようだ。
上記裁判では被告の少年は「『乱暴』することで自分の母親が帰ってくる気がした」とか、新聞によると「意味不明」なことを陳述し殺意はなかったと陳述したという。
私はこの少年の心の中がどうなのかというような部分を判定することにどういう意味があるのかがわからないのだ。
自分で自分がわからないのに、どのようにして他人の心の中を議論で解明できるんだろうか?解明したところで、それにどのような違いがあるんだろうか? はいはい、「悪意なら許さん!」ということですね?。
この少年のケースでも「悪意・善意」というような二元論とは全く別の心性があるような気がする。
あるいは何も考えていなかったのかも。
金品を奪う目的なら、単純に「悪意」と判定しても、現在の社会では多数の合意を得られるんだが。
しかし、そんなことはどうでもいい。
誰が他人の心を裁けるのか。 そんなもの、誰にもわからんし、無理に「これは善意から、これは悪意から」と決める必要もない。 私だって目の前に生理的な吸引力があれば善悪の彼岸を彷徨うことがある。
日常的にはルールは心得ているが、時としてそれとは別の次元に行ってしまう。
私は「永山則夫は私だ」と思ってしまう。
19歳で行き場を失い出奔したが、その後私は戻り、不甲斐なくも見知らぬこの世界の神に命乞いをし、今ではおめおめと年金をもらい生きている。
しかし、永山はもう戻っては来なかった。ただそれだけで。
しかし、結果としてこの社会のルール違反を犯したのなら、当然相応の罰を受ける約束で、私はこの社会に参加している。 私は法によって守られているのである。だから社会も法に拠って私から自らを守ればよい。
私の内面のあり方を裁かないで欲しい。
裁くのは私の犯した罪だけにして欲しい。
blog upload: 2012/3/1(木) 午後 2:12
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