人ではなく、罪を裁け.. あなたは本当に100パー...
[罪刑法定主義とは何か] [時爺放言]

人間の意識は裁くことはできない
罪刑法定主義とは何か(4)

2012/03/07
(4)
空港で麻薬・覚せい剤の運び屋が摘発されるが、善意で他人の荷物を運んだ、と言い張るケースが多く、裁判では麻薬と知りつつ運んだのかどうかの裁定に難航しているというような報道がよく目に付く。
以下のケースではプロの運び屋ではなく、素人が麻薬と知らずに「善意で」引き受けたと裁定され、無罪になった。
 
●覚醒剤密輸:被告に無罪判決−−裁判員裁判3例目 /千葉
 アラブ首長国連邦ドバイから覚醒剤を密輸したとして、覚せい剤取締法違反などの罪に問われた女性被告(41)の裁判員裁判で、千葉地裁(守下実裁判長)は9日、「違法薬物が隠されていることを認識していたと断定するのは困難」などとして、無罪(求刑・懲役13年、罰金700万円)を言い渡した。裁判員裁判の無罪判決は県内では3例目。
 被告は今年4月17日、ドバイから成田空港に到着した際、スーツケースに覚醒剤約1・2キロを隠し、営利目的で密輸したとして逮捕、起訴された。
 裁判では覚醒剤隠匿の認識の有無が争点だったが、女性は「スーツケースは一緒に旅行をしていたナイジェリア人の恋人から現地で渡されただけで、薬物については全く知らなかった」などと否認。判決では「違法行為に関与しているという緊迫感はうかがえない」とした。
 毎日jp・毎日新聞・011年12月10日 千葉版
 http://mainichi.jp/area/chiba/news/20111209ddlk12040211000c.html

無罪になったことで一件落着とは私は思わない。
もちろん、摘発すべき犯罪はこのケースではウラに隠れてしまって見えなくなっている。
しかし、このことではない。
 
この女性が騙されていたということを否定する意図はない。しかし「違法行為に関与しているという緊迫感はうかがえない」というような表面の印象を根拠に裁判員諸氏が裁定することに大きな違和感を覚える。
 
そうでなくとも、私には他人の荷物を自分のものとして航空機に持ち込んだ本人の責任は免れないと思う。
結果的に「税関で申告するものがない」と公言したことは偽装になる。
知らなければ罪にはならないのか?
 
私は「李下に冠を正さず」ということを自分の処世術として実践してきた。
李下の冠を正さず。悪いことをしてはいないのだが、自分が疑われるようなことを敢えてすべきではない。
 
倫理基準は人によって違うのだ。
自分では「普通」と思っていることが、他人から思いもかけない理由で糾弾される、ということがあまりにも多い。
自分だけの価値判断ではなく、他人は自分をどう見るかという他者からの視点を持たない限りこの社会では生きていけない。
 
近所のオークワのアルカリイオン給水機に並ぶ人達には、「後の人のために、給水台にこぼれた水滴を備え付けのペーパータオルで完全に拭いておく」という暗黙のルールがあるらしい。
「ボトルを濡らすがイヤなら自分のボトルだけ拭けばいい。合理的だし、ペーパータオルの無駄を省くことにもなる」と主張しても、そのローカルでは糾弾され、叱責されてしまう。

この女性は国際航空路線に荷物を持ち込むという行為を余りに軽く考えていたのではないだろうか?
自分が善意で行ったことは糾弾されることはないと信じていたのだろうか?
「ナイジェリア人の恋人」のモラルや意図が自分と同じで、完全に理解できていると思っていたのだろうか?
手渡されたスーツケースの中身を確認し、航空機での運搬に自分で責任を持つという良識はなかったのか?
 
私自身も知人に頼まれ、国際便で「荷物」を運搬したことがある。
もちろん、中身を確認しているのだが、しかし託された楽器の曲線の内部に実は巧妙に麻薬が隠されていて、パリのエージェントへの運び屋にされた疑いはないとは100パーセント言い切れない。
 
もし、この時私が空港で麻薬所持の疑いで逮捕されたとしたら、運搬した法的責任は全て私にある。
自分の運搬した荷物に私は全責任を負わなければならない。
私が実際の中身を知らなかったとしても、結果は変らない。
 
事実は「私が国際便で麻薬を運搬した」ということだけで、これが麻薬取締法違反に該当するのなら私が罪に問われるのが当然だ。
私の意識がどうあろうと、事実に違いはない。
法とは罪に対してそのように適応すべきであり、人の意識を判定するものではない。
 
上記の女性は有罪としなければならない。
その上で裁判員諸氏が出来ることは、充分その女性の心情が理解できると感じたのなら情状酌量し、罰を少し軽減するという申し出をすればいいのである。
「一般市民代表」としての裁判員にできることは、自分達の心情でも思わず犯してしまうだろう罪に対する酌量をすることで、自分達の善良な市民としての生活を営んでいく上での安心感を得る、ということしかないはずだ。
 
他人の心が理解できるとはどういうことなのか?
他人が自分と同じ部類の生活感覚を持っていると認定することなのか。
あるいは他人が自分とはまったく違う種類の人間である、と結論することか。
そのような恣意的な価値判断ではなくて、客観的な事実のみを罪の根拠とするということが法治主義の精神である。
裁判では人の精神のあり方を裁くべきではない。

blog upload: 2012/3/7(水) 午後 4:57
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